多賀城市は、宮城県のほぼ中央、太平洋岸に位置し、周辺には、県庁所在地の仙台市や漁港で有名な塩竈市、そして日本三景の松島などがあります。面積19.65平方キロメートルの市域は東西に長く、それを2つに分けるようにして中心部を砂押川が流れ、東部や北部には史跡が点在し、海に近い南部の平野には工場地帯が形成され、西部地区の平野には多くの田畑が広がっています。また、三陸自動車道や国道45号、JR仙石線、東北本線が通り、交通アクセスにも恵まれています。
724年には、陸奥国に市名の由来となった「多賀城」が置かれ、東北地方全体を治めました。その歴史を現在に伝える多賀城跡や多賀城廃寺跡は、大正11年に国の史跡に指定され、昭和41年には特別史跡に昇格しています。このような史跡が市内の各所に点在する多賀城市は、「史都多賀城」のことばに表されるように由緒ある歴史のまちです。
多賀城市で人類の痕跡が確認されるのは縄文時代前期、約6000年前のことです。その頃の気候は温暖で、海岸線は現在より約6キロメートル内陸に入りこんでいました(縄文海進)。やがて海岸線が現在の位置付近まで後退し、縄文時代晩期には橋本囲(はしもとがこい)貝塚、桝形囲(ますがたがこい)貝塚、大代貝塚、大代遺跡などに見られる貝塚や集落が形成されます。海岸部に近いこれらの遺跡では盛んに塩作りを行っていました。海岸部には弥生時代にも集落が形成され、桝形囲貝塚から発見された籾痕のある土器は、山内(やまのうち)清男(すがお)の論文「石器時代にも稲あり」(大正14年)によって全国的に知られています。
古墳時代になると、市の中央部から西部にかけての広い範囲に集落が形成されます。前期(3世紀後半~4世紀)の段階から、護岸施設等には高度な土木技術が用いられ、中期(5世紀)には周辺地域に先駆けて鉄器生産が行われていました。北方の人々との交流を示す土器や石器も発見されています。後期(6・7世紀)になると溝や材木塀で区画された施設が出現し、仏具である柄香炉や多量の農具を保有する有力者の存在が垣間見られるようになります。同じ頃、大和国では天皇を中心とした律令国家が形成され、その支配は、7世紀後半には宮城県域にまで及んでいます。
724年、仙台平野を望む松島丘陵の先端に、東北地方における政治・軍事の拠点として多賀城が設置されます。多賀城には陸奥国の国府と、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併せ置かれ、陸奥・出羽両国を統轄する按察使(あぜち)が常駐しました。さらに、北に広がる「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込んでいくという大きな役割も担っていました。平安時代になると、多賀城南面には東西・南北道路による方格地割が施行され、庶民をはじめ多賀城に勤務した役人や兵士が暮らすまち並みが形成されました。
特別史跡多賀城跡附寺跡
古代末期から中世にかけて、多賀城の名は記録上から消え、代わって「多賀国府」が登場します。多賀国府は中世の陸奥国府であり、その所在地については、古代の多賀城と同じ場所に存在したという説や、七北田川流域の仙台市岩切から多賀城市西部にかけての地域を想定する説などがあります。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、奥州藤原氏を滅亡させた後、御家人伊澤家景(いさわいえかげ)を留守所の長官に任命して国政を執らせたことから、その子孫は代々留守氏を名乗り、国府の周辺地域を支配する有力な武士として成長していきました。14世紀半ば、陸奥国の中心が大崎地方に移ると多賀国府は急速に衰退し、奈良時代から続いた陸奥国の中心としての役割を終えます。戦国時代になると、宮城郡東部の有力な領主として成長した留守氏も伊達氏の家臣団に組み込まれていきます。豊臣秀吉による奥州仕置の後、地域の小領主達とともに黒川郡に移されることとなり、鎌倉時代から支配していた宮城の地を離れていきました。
江戸時代、多賀城市域は新田村、山王村、南宮村、高橋村、浮島村、市川村、高崎村、八幡村、東田中村、留ヶ谷村、下馬村、笠神村、大代村からなる13の村に分かれていました。八幡村には伊達氏の家臣天童氏が在所を与えられ、その居館を中心にまち並みが形成されました。天童氏は江戸時代を通じて八幡の領主であり、この地で幕末を迎えます。
八幡村には末の松山と沖の井、市川村には壺(つぼの)碑(いしぶみ)など、仙台藩によって整備された歌枕があり、1689年には松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅で訪れています。
明治になっても、市内は江戸時代と変わらず仙台近郊の農村地帯でしたが、第二次世界大戦時に設置された多賀城海軍工廠によってこの様相は一変しました。その範囲は市面積の4分の1に及び、昭和17年から建設が開始されて、昭和18年に開庁しています。
戦後、海軍工廠は一時米軍の管理下に置かれますが、接収解除後は工場地帯や陸上自衛隊多賀城駐屯地として現在に至っています。
自治体としての多賀城は、明治22年市制・町村制が施行されると13の村が統合されて多賀城村になります。戦後、市町村合併促進策によって全国的に多くの市町村が合併し、村の名は激減しましたが、本市は行政区域に大きな変更もなく昭和26年には町制、昭和46年には市制を施行して今日に至っています。
近代以前、陸奥国を襲った平安時代の貞観地震(869年)と江戸時代の慶長地震(1611年)は、津波を引き起こした大地震として史料上に記載されています。それらの浸水域をはじめ、被害の全容については未だ解明されておらず、今後の調査研究に期するところが大きいというのが現状です。
ところで、市内には、津波にまつわる「末の松山の伝説」と「お山王さまと色の御前」という二つの「伝説」が伝えられています。いずれも時代、場所、登場人物等についての記載があり、それらの情報を含まない昔話とは区別されるものです。
「末の松山の伝説」は、弘仁9年(818年)のこととされる津波襲来の伝説です。一匹の猩々が、町の居酒屋に現れて酒を求め、高価な唐紅となる鮮血を酒代としたことから、欲に目がくらんだ居酒屋の女房によって殺されてしまいます。猩々はその身を案じる心やさしい下女コサジには、やがて津波が来るだろうから、その時は末の松山に逃げるよう伝えます。やがて大津波が襲来して二千余戸の町すべてが流される中、コサジは間一髪難を逃れるというもので、末の松山は大津波も届かない安全な場所として描かれています。
「お山王さまと色の御前」山王村の男神に求愛された南宮村の若い女神にまつわる伝説で、年代は応仁の頃(1467~68年)のこととされています。後に南宮村の色の御前と呼ばれる女神は、もとは八幡の社に祀られていましたが、その社が大津波で流されたため、南宮の夫婦の神のもとに同居することになります。隣り合う山王村の男神から思いを寄せられますが、それを拒んで田や畑の中を逃げ回ります。麻畑に隠れたところを見つけられ、逃げる途中芋の葉で滑って転んで茶の枝で目を痛めますが、痛さをこらえて黒川郡吉田村まで逃げ、船形神社別当にかくまわれます。それ以降、南宮村では麻・茶・芋を栽培しない、山王村の男性は船形神社に参詣しないという禁忌の説明でこの物語は終わっています。女神がもともと祀られていたという八幡については、末の松山が所在する八幡(やわた)か、あるいは南宮地区東端部にある八幡(はちまん)か明確ではありませんが、いずれにしても津波がお話しの発端となっています。
参考文献 『郷土の傳承』宮城縣教育會1933