防災・減災への指針 一人一話

2013年10月07日
生活の基本である水を市民に届けるために
多賀城市役所 水道事業管理者
佐藤 敏夫さん

上下水道管耐震化の効果

(聞き手)
 東日本大震災までに、他に災害を経験したことはありましたか。

(佐藤様)
私は多賀城で生まれ現在に至りますが、他災害の記憶はほとんどありません。宮城県沖地震については、たまたまこの当時、上水道部に勤務していて経験しました。当時は地震に伴って被害があった上水道管の復旧作業に従事していた経験があります。
また、多賀城市特有の地域性から発生した水害については、下水道課勤務時代に経験していました。
しかし、東日本大震災については、それらの経験が全て想定の範囲を超えていました。例えば備蓄です。私は震災当時、総務部に所属していました。高い確率での宮城県沖地震発生の予想もあり、備蓄は年次計画によって行ってはいたのですが、この度の震災は、想定をはるかに超えるものだったので、備蓄していたものが1日ですべて無くなってしまいました。
水道復旧は、エリアごとに進んでいったのですが、全て復旧したのは平成23年7月だったと思います。
多賀城市は自己水源を持っていないという特性があります。
今の給水の状況については、約8割を、宮城県で管理している仙南・仙塩広域水道から受水しています。残り2割は仙台市水道局などから受水しているという状況です。そのような中、多賀城市の水道が供給を開始してから、災害に伴っての長期断水というのは今回の震災で初めて経験しました。給水世帯が約2万3千戸あるのですが、約1カ月間全戸断水していました。
これは、仙南・仙塩広域水道からの送水管が地震の影響により、白石市内で破損し、受水している水が多賀城市へ送水されなかったためで、4月初めまで、市内へ水道水を供給することが出来ない状況となりました。

(聞き手)
宮城県沖地震では実際にどのようなダメージを受けたのですか。

(佐藤様)
阪神淡路大震災以来、上水道管の耐震化に関しては、国から指導があり、本市でも計画の中で取り組んでいたところです。昭和53年に発生した宮城県沖地震の時は、まだそのようなことには取り組んでいなかったこともあり、市内の至る所で水道管が破裂するなどの被害が出たように記憶しています。幸い今回は、全部とは言えませんが、ある程度幹線の耐震化が進んでいました。そのため、被害の拡大を防いだともいえます。しかし、先ほどお話ししたように県から受水する水が来なかったこともあり、断水が起きました。
ですが、各施設の耐震化が終わっていたということもあり、多賀城市水道そのものとしての被害はほとんどなかったという点では、それまでの経験が活かされていたと感じています。
やはり、阪神淡路大震災の経験を通して水道管、各浄水場関係についての耐震化を行っていたのが、すごく良かったのではないかと思います。

(聞き手)
 ご両親などから、チリ津波の経験を聞いたことはありましたか。

(佐藤様)
幼少時期の記憶なのですが、塩竈との関わりが多く、塩竈の町の中心部に船が上がってきたということは聞かされていました。ですが個人として今回の地震に活かせた教訓はあまりありません。
しかし、以前から高い確率で宮城県に大きな地震が起きるとの警鐘が鳴らされていましたので、家庭の中では、家具の転倒防止などの対策は行っていました。しかしその他の具体的な対策まで行き届きませんでした。

(聞き手)
有事に備えての訓練はどのようにされていましたか。また、震災前と後では変わりましたか。

(佐藤様)
震災前から訓練は年1回実施していました。平成24年になってからは、東日本大震災の経験を踏まえて、上水道部独自の防災訓練をしています。すべての交通機関が全部止まったという想定で、自宅から勤務場所である上水道部の庁舎に、職員が自らの判断で、決められた時間までに参集できるかを訓練しています。午前8時に発災したとの想定で、午前8時半までに来るという時間を設定していたのですが、もっとも参集が遅かった職員で、午前10時半頃だったと記憶しています。
市外に住む職員もいますが、市内に住む職員が多かったということもあり、26名の職員のうち、8割ぐらいはほぼ時間通りに参集できました。自転車などの手段を使って参集した職員がほとんどでした。
平成25年も多賀城市が11月4日に総合防災訓練を実施しますので、それに参加することにしています。

(聞き手)
 発災時にはどちらにいらっしゃったのですか。

(佐藤様)
発災時は、本庁舎2階にある総務課で打ち合わせをしている最中でした。庁内のスピーカーから、「震度4」を知らせる緊急地震速報のカウントダウンが流れました。少し時間が経つにつれて、震度4ではないと感じ、すぐに屋外に避難しました。

(聞き手)
揺れはどれくらい続きましたか。

(佐藤様)
実際に揺れていたのは3分ぐらいだったはずですが、外に出た後も揺れていて、とても長く感じた記憶があります。そのため、これは間違いなく宮城県沖地震が来たと思いました。揺れが収まると同時に、庁舎2階の災害対策本部に詰めました。

(聞き手)
では、そこからしばらくはずっと本部に詰めていたのですか。

(佐藤様)
はい。そのため2週間ぐらいは家に帰りませんでした。着替えを取りには行きましたが、自宅で寝泊りできたのは2週間後ぐらいです。

コールセンターの設置

(聞き手)
佐藤様の役割はどのようなものでしたか。

(佐藤様)
災害対策本部での私の担当は、さまざまな食料や支援物資などの手配をすることでした。大津波襲来というのはすぐわかったのですが、それがどの程度なのか、全く把握できませんでした。
外が暗くなってからは、市民の方々が続々と市役所の中に避難してきました。全身が濡れている方がほとんどだったので、庁内も開放できる所はすべて開放しました。今思うと無我夢中でやっていたのだと思います。
実際に津波の被害を確認できたのが3日後くらいでした。
発災後1週間ぐらい経ったあたりから、市民からの電話が殺到しました。
それまでは、それぞれの対応ということにしていたのですが、それでは大変だということで、市民からの問い合わせの電話については一本化することになり、庁舎内にコールセンターを設けて、そこでずっと対応していました。4、5人くらいの人数で、市民からのさまざまな問い合わせに対応しました。安否確認やライフライン再開の情報提供などでしたが、約9割の電話はお叱りの電話です。
しかし、その中にあった「職員さんも大変ですね。頑張ってください」という励ましの電話で癒されたという記憶もあります。
その後も「お体壊さないように頑張ってください」というような電話を何本か受けました。
電話対応に関してのマニュアルを作ったのですが、想定外のことが次々と起こるので、あまり見ることがなかったように思います。
当時は無我夢中だったのか、私自身はあまり疲れは感じませんでしたが、不眠不休で駆けずり回っていた他の職員は私以上に大変だったと感じています。

職員のメンタルヘルスケアを重視した面談を実施

(聞き手)
平成23年5月1日から水道事業管理者に異動されて、最初のお仕事はどのようなものだったのですか。

(佐藤様)
かつて経験することのなかった全戸断水という中で、休む間もなく働いている職員を目の前にし、まずは職員の心のケアもしなければいけないということも踏まえて、職員一人一人に対して面談をしました。
市のトップは市長ですが、上水道部職員については肩書き上、私が任命権者になります。その責任を果たす上でも必要なことでした。その中で心の健康も含めて、1人当たり1時間近く面談をした職員もいました。

(聞き手)
その時の職員のメンタルの状態はどうでしたか。

(佐藤様)
かなり疲れていました。見た目ではわからないのですが、家族の事情も抱え、中には、身内を亡くされた職員も何人かおりました。それを考えれば、良いタイミングで話を聞いてあげられたと思っています。

正確な情報を伝える広報紙を発刊

(聞き手)
水道部の実務ではどのようなところから着手したのですか。

(佐藤様)
多賀城市の現在の水道の仕組みからいきますと、約8割を、宮城県で管理している仙南・仙塩広域水道から受水しています。その広域水道からは約1カ月間、水が全く来なかったので、市民に対して4月の1カ月分の水道料金をすべて減免しました。
金額に直すと、月当たり約1億4千万円ぐらいです。
同様に受水している団体は、県内に17市町村あります。それらの補償については県に要望しようということで、首長の連名で要望を出しました。また、全戸断水だったので、その期間、市内で20カ所近くの給水ポイントを設けました。その取り組みを進める中で、市民の方々に対し、正確な情報をきちんと伝えることが一番大事なことだと思いました。そのため、広報多賀城とは別に、上水道部独自でも職員の手作りで、自分達でテーマを考えて広報紙を作るように職員に指示を出しました。そして平成24年1月に『たがじょうの水道』という広報紙を創刊しました。
独自で作っているため年2回ほどの発行ですが、印刷だけは外注して、原稿の構成も手作りで発行しています。

(聞き手)
水道は、平成23年5月から徐々に復旧されてきたのですか。

(佐藤様)
はい。全て水を通すのに平成23年7月までかかりました。

全国の自治体水道の団結力

(聞き手)
 防災計画や防災マニュアルは、今回の震災で活かされましたか。

(佐藤様)
防災計画は策定済みで、当然マニュアルもありました。
ですが、東日本大震災では、それらは機能しなかったというよりは、むしろ、想定外の規模の被災をカバーできなかったと考えています。
さまざまな通信手段が途絶えてしまいました。
そのため市民の方々に正しい情報を伝えられなかった点が一番の反省点だと思います。
震災後、多賀城市では、行政防災無線を整備しました。水道独自で持っている無線もあります。給水ポイントや、給水の時間が全くわからないということのご意見についても、検討しなくてはいけないと思っています。給水の器具については、まだまだ足りないとは思いますが、ある程度は整備しました。大規模災害時指定収容避難所などには、応急給水の貯留槽のような施設を随時整備することも検討していかなければならないと考えています。

(聞き手)
その他に、上水道という面から心に残ったことはありますか。

(佐藤様)
自治体などの上水道関係部署は、大変な時には凄い団結力があります。昔から「水道一家」という言葉があるのですが、本当に今回も全国各地からいろいろな応援をもらいました。社団法人日本水道協会の指揮のもと、どこかで災害があると、東北支部、そこからまた宮城県支部と各支部に分かれて、要請をしなくても、組織化されて応援に来てくれます。
今回、宮城県には、関西地区などから応援に来てくれた自治体が多くいました。そのような強力な支援をいただき、大変な局面を少しずつ乗り越えることができたのだと思います。

(聞き手)
それは多賀城市の友好都市や応援自治体とは別のものですか。また別の組織が来ていたということですか。

(佐藤様)
はい、別のものです。日本水道協会では、割り当てが系統化されていますので要請しなくても来てくださいます。
多賀城市だと、給水支援に来てくれた自治体で、一番遠い所は山口県や広島県、長野県などで、一番多い時で10自治体ぐらいが来てくださいました。
給水車1台を持ち込み、職員3名ずつぐらいがついて、ずっと水道庁舎に泊まり込みで給水活動をしてもらいました。水道関連施設の被害はほとんどなかったので、主に給水活動の応援ということで来ていただきました。
また、給水活動は基本的には午前8時から午後7時までということでやっていましたが、午後7時を過ぎることもありました。それを最大で20カ所ぐらい行っていました。
ただその水を補給するポイントが1カ所しかなく、断水も続いていたため、給水活動には、かなり時間がかかりました。

上下水道事業の広域化検討

(聞き手)
 これからの復旧、復興に関するお考えをお聞かせください。

(佐藤様)
水道の話をすると、あれだけの災害になってくると、一自治体だけではなかなか対応が難しくなってきます。特に上水道については、自分で水源を持っている自治体もありますし、多賀城市のように全く水源を持っていない自治体もあります。
また、人口減少社会に入っていますので、上水道については単独でやっていく時代ではなく、近隣の市町村との広域化を進めていく方が良いという感じもしています。
人口が減ると、水の使用量もますます下がっていきます。上水道というのは企業会計で、水を市民に提供して、その給水収益で経営していく事業です。近隣の市町村と経営を一本化して、無駄を省いて経営していく他ないと、私自身はそのような思いでいます。そのような勉強会もやっています。多賀城市、塩竈市、七ヶ浜町、利府町、松島町の2市3町での広域の協力体制が昔からありますので、そういった中で勉強会を催していくことで、より良い水道事業のあり方を探っていくことが必要だと思います。
また、市全体に及んだ復旧、復興についてですが、多賀城市は現地再建での復興に取り組んでいます。
他の沿岸の自治体では、集団移転や防災移転などで、高台や別な場所への移転を検討されていますが、なかなかそれも進んでいないということもあります。多賀城市は早めに復興が進んでいます。
そして、復興計画を確実に履行していくことが早めの復旧復興に繋がっていくと思います。あれだけの被害があった中で、特に多賀城の基幹産業の工場地帯も大きな被害を受けており、実際に多賀城から撤退した会社もありますが、引き続き現地で頑張ろうという会社もたくさんいらっしゃいます。それらの方々の思いをきちんと、行政側としていろいろな形で支援していくことが大切だと思います。決して災害を風化させることなく、行政でできることはしっかりと支援していくことがとても大事なことなのだと思っています。

自助の意識の地域への浸透

(聞き手)
市民の方に向けて何か後世に伝えたいこと、教訓などがございましたらお聞かせください。

(佐藤様)
震災後、市民からの問い合わせに一元的に応じるために、コールセンターを庁内に設置したという話をしたのですが、市民の皆さんからのいろいろな意見なども踏まえますと、行政は行政側できちんとやるべきことはやらないといけないと思いますが、市民の側でも、自分達でできることはある程度の備えも必要なのではと思います。「自助」と言われますが、すべて行政に任せるのではなく、市民自らがやれることはやっていかないと、また大きい災害が来た時に、対応できないような気がします。
自助の考え方は、少しずつ市民の皆さんにも浸透してきていると思います。全て行政任せではなく、地域でできることは地域でやっていくという意識を持つことが、これから重要になってくると思います。
団塊世代の方々もそうですし、今の60代の方たちはみんなエネルギッシュです。さまざまな経験をしている方々が地域にたくさんいらっしゃいますので、そういう方々が中心となって活動することで、いろいろなことができると思います。

震災と上水道事業の今後のあり方

(聞き手)
これからの上水道に関してのお話をお聞かせください。

(佐藤様)
水道のことに関しては、最近、私たちの事業を管轄する厚生労働省において、震災を踏まえて、これからの水道がどうあるべきかのさまざまな意見が論じられています。
やはり生活の基本である水を扱うという仕事であるため、一番大切なことは「安全」だと思います。
あとは震災を踏まえ、施設、水道管も含めて、「強靭化」ということが強く問われると思います。
当然経営の問題もありますので、「持続」することも非常に大事なことだと思います。
最近はその3つのキーポイントを掲げており、それらのことは、私共の水道の経営に関してもすべて当てはまります。
これからそれらを、少しずつ進めていきたいと考えています。

(聞き手)
自助という観点で、断水時の対応や水の供給について、何か気づいた点があればお願いしたいと思います。

(佐藤様)
昔農家をやっていた方々は、みんな井戸を持っていました。なので、電気さえ来れば水は使えました。飲料水としては使用できないのですが、震災当時はトイレやお風呂などに使用していたと思います。そのため今回、地下水を持っている人はかなり助かったと言っていました。
給水に関しての話になりますと、給水所に市民の方々が持ってくる容器がさまざまで、ペットボトルを持ってくる方や、バケツの人もいるため、給水車のホースを途中から小さいホースに変えました。現在は、さまざまなサイズの給水容器に対応できるようにしています。
あとは背負い式の「給水袋」という肩に背負うタイプもあります。それは6リットルの水が入ります。6リットルですとお風呂は厳しいですが、通常の炊飯用としてでしたら何日間かまかなえます。背負い式の給水袋はホームセンターなどで販売していますので、是非ご家庭でも備蓄されるようお願いいたします。