(聞き手)
発災当時の状況と、その後の行動についてお聞かせください。
(宮城様)
当時は
民生委員として中学校の卒業式に出席した後、多賀城のイオン近くにいました。
地震の際は、先ほどお話したように貞観地震の事が頭に浮かびましたので、津波が来る恐れがあると思っていました。
私は、自宅の脇でコインランドリーを経営していて、そこに多量のプロパンガスがありましたので、引火したら我が家ばかりでなく、街を焼いてしまうと思い不安でした。
そして、揺れの途中で少し収まった時に車のエンジンをかけ、急いで自分の経営するコインランドリーに向かいました。道路では信号も止まり、車も渋滞していました。
ようやく到着し、ガスボンベを全部閉めて、近所の方にも声を掛けてひとまず少し落ち着きましたが、すぐに大津波警報が出ました。
パトカーや消防車が避難を呼び掛けていました。
その後、自宅が被害を受けて、多賀城東小学校に1カ月間避難しました。食糧や水がわずかしかなく、食パンは4分の1で一食でした。
大変だった事は、私は避難所で食事担当でしたので、食事の量に納得して頂くために、「有り難いことですから、分けて食べませんか」と言いながら配った事でした。
関西から2トントラック2台で、昼夜で2人ずつ交代しながら4人で支援に来られた方がいて、団体名も個人名も匿名でしたが、食べ物や生活用品、ティッシュペーパー、トイレットペーパーなど、いろんな物を寄付してくださりました。
私は、もし逆の立場で、今、他のところがこのような事態になったら、この年齢で同じことができるのかと思いました。
ある時、40歳半ばぐらいの男性が訪ねてきて、携帯電話の店と郵便局の場所を教えてほしいと言ってきました。
その方は、作業着や長靴が泥だらけで、帽子をかぶり、髭もぼさぼさでした。私はその方を車に乗せて案内しました。
車中でお話を聞くと、石巻から来ていて、家族も子どもさんもいるが、仕事は休職されたそうです。
感銘を受けたのは、「長い人生の中に6カ月ぐらいはこういう時間に使っても何らおかしくない」と言われた事です。
本当はとてもお話し出来る心境ではないのでしょうが、素晴らしい人生観に感心しました。
残念だった出来事は、流されてきた車に泥棒が入ったという話を聞いた事です。そのため自転車でパトロールをしていました。偶然、1人が見張り役をして中に入って物色しているようなそぶりを見かけました。しかし、相手は複数でしたので、怖くなって見て見ぬふりをしていたところ、こちらに気付き、引き上げて行きました。
避難所の生活には、やはり皆さん、徐々に限界がきて、息苦しさを感じていたように思います。
毎食分けて食べるように言っても守ってもらえず、お互い混乱していますから怒鳴り込んでくる人もいました。
ですが、隣近所に配ってくださいと
支援物資をたくさん頂き、岐阜県からは瀬戸物セットが200箱も届いて、自宅で頑張っている人にお渡ししました。本当に苦しかったので助かったと言う人もいましたが、届けに来るのが遅いと言う方もいて、色々な人間模様をうかがい知ることになりました。
(聞き手)
多賀城東小学校には何名くらい避難されている方がいたのでしょうか。
(宮城様)
別の避難所から移動して来た方もいましたので一定ではありませんでしたが、毎回、食事は500食を準備するようにしていましたので、400人以上はいたと思います。
(聞き手)
宮城様のご家族は一緒に避難所にいたのでしょうか。
(宮城様)
妻も一緒でしたし、娘は震災後3日目に帰って来ました。