東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 103/178

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東日本大震災の記録

103第6章いのちをあたためてけてあげて、泣いている人がいたらはげますなどのことをやっていき、山王小の人を、一人でも多く笑顔にしたいと思いました。最後に、私の将来のことについてです。今日本をはげまそうと、たくさんの人々が日本をまわっています。テレビなどを見ると、お笑いの人や歌手の人がいろんな所に来て活やくしていたり、お医者さんなどが病気の人のためにがんばっているところが映っています。私はそんな人たちを見て、将来人の役に立とうと思いました。私は自分の特技などをいかし、自分をそして多くの人を一番かがやかせることができることをやろうと思います。これからも夢にむかって前を向いてがんばっていこうと思いました。卒業式式辞(抜粋)3月日の東日本大震災から日1110あまりしか経過していない本日、市当局そして地域の皆様、保護者の皆様の多大なるご協力をいただき、ここに平成年度の卒業式を執り行う22ことができますことは喜びに耐えません。さて、天真小学校を巣立っていく名の皆さん、ご卒業本当におめでと85う。卒業生の皆さんは、国内最大級の巨大地震と、それによる大津波の被害にあったことを乗り越え、今、ここで卒業証書を手にすることができました。これも、周りの皆様の天真小学校の子どもたちにぜひ卒業式をさせてやりたいという温かい気持ちが実って実現したものであり、皆さんの周りには、このように皆さんを温かく見守ってくださっている人たちがいると言うことを心の支えにして、これからも強く生きていってほしいと思います。~皆さんの卒業という節目に当たり、次のことを餞の言葉とします。それは、「雲のように高く、雲のように輝き、雲のようにとらわれず」歩んでいってほしいと言うことです。この「雲のように」と言う言葉は「日本のアンデルセン」と言われた児童文学者・小川未明さんの言葉です。~卒業生の皆さん、どうかこれから雲のように高い望みを持ち、雲のように力強く輝きながら、そして雲のようにとらわれず柔軟な考え方を持って中学校生活を送っていってください。学校再開までの学校の取組発災直後の状況低学年児童は下校が始まっていた。激しい揺れが収まるとすぐに全校児童が校庭に避難した。下校途中の一部の児童も戻ってきた。余震が続く中、年度当初に保護者に示していた計画通りに保護者は児童を迎えに来校した。各学級は児童を保護者に引き渡しを開始。余震におびえ、泣き出す児童もいた。雪が降ってきたので、体育館床全面にブルーシートを敷き、午後3時半頃に引き渡し場所を体育館に変更した。同時に、近所の方々が約100人ほど体育館に避難してきた。もみじ学級は体育館2階の卓球場に避難した。停電のため情報はなかなか入ってこなかった。携帯電話の情報で宮城県北部で震度7であったことや大津波警報が出されたことが分かった。体育館にラジカセを搬入し、情報収集に努めた。この夜は、食べるものがほとんど無かった。おにぎりやカップ麺などの支援物資がわずかで、避難してきた人々に十分行き渡る量ではなかった。そこで、子どもやお年寄りを優先するように伝えたところ、お互いに遠慮しあって支援物資に手を出す人が少なかった。また停電のため明かりがなかったので、理科室からろうそくを持ち出し、ろうそくで明るさを確保した。6年生の保護者が、キャンプ用のランタンを持ってきて協力してくれたので助かった。暖房器具は特別支援教室にあった対流型の石油ストーブが1台だけ。本校はプロパンガスを使用しているのでお湯の提供ができた。学校にあるポットとヤカンを総動員してお茶を飲めるようにしたが、避難者に提供した量は少なかった。避難者の中には、持参した水筒にお湯を入れている人もいたが、みんなで使うように声がけを行った。午後7時頃に市職員が避難所に来たので、避難所の指揮権を校長から多賀城市に委譲した。人員のやりくりはできるので随時相談してほしいと伝え、学校職員はこれ以後支援班となった。放送設備が使えなかったため、一台あった大型のハンドマイクで避難者に食事や毛布の配布について説明をした。毛布の配布時に避難者の名簿を作成した。この夜、体育館で過ごしたのは近所の方々107人ともみじ学級の児童3人、合計110人だった(内本校児童人)。保護者が10迎えに来れなかった児童3人には、担任が翌朝時まで寄り添い、不安10天真小学校城南小学校