東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 104/178

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録104第6章の解消に努めた。校舎内は、家具等の転倒防止措置をしていないところがあったのでスチール製の戸棚などが倒れた。特に、東側校舎の揺れが大きくロッカー内の鍵盤ハーモニカが全て飛び出していた。校舎は躯体に破損はないものの、エキスパンション部分が破損し廊下に隙間ができた。全体的にcmほど地盤沈下した。地15震後の停電で各教室の暖房器具も停止したが、途中で復旧した場合は危険なので、各階ごとに分担して教室の暖房器具の電源を切った。暗くなっても学校周辺の被害の状況や道路の状況が把握できなかった。職員の中には自分の子どもを引き取りに行かなければならない人や高齢の家族を抱えている人もおり、複数の職員を乗り合わせるなどして帰宅させた。学校再開までの取組1地震発生時及び直後の状況地震発生時(2時分)は全学年46の児童がまだ校内に残っていた。1年生から3年生までが5校時授業を終えて、帰りの会を行っていた。4年生から6年生は6校時目の授業を行っているところであった。1児童の様子発生時、児童は担任に促されなくても普段の訓練の時と同じように、身をかがめ、自分の机の下にもぐった。しかし、揺れが大きく、テレビが倒れる、ロッカーから物が落ちるなど児童にとってはそれまでに経験したことのない揺れであったため、泣き声や悲鳴をあげる様子も見られた。5年生の一クラスは体育館で授業をしていたが、大きな揺れであったので体育館から駐車場に出て避難をしようとした。駐車場に出ると校舎が激しく揺れており、担任は恐怖を感じたと回想している。教室にいた児童は、揺れに恐れを感じながらも担任の指示に従ってじっと揺れがおさまるのを待っていた2。職員の対応地震発生時、校長は校長室で、教頭、教務主任は職員室で執務中であった。緊急地震速報が鳴り、校長が職員室に出向いた後、大きな揺れが襲ってきた。校長、教頭、教務主任は大きな揺れであったため、とっさに近くの金庫やロッカーなど倒れそうになっている備品を押さえるのがやっとだった。校長の指示のもと、教頭が放送スイッチを入れ、すぐに、安全確保のため机に潜るように指示した。その後は送電が停止し、放送は機能しなかった。担任は、それぞれのクラスで児童を守り、不安を取り除こうと必死だった。3校庭への避難揺れがおさまってからは、訓練時のように各クラスが校庭への避難を開始した。教室に留まっているクラスには校庭へ避難するように教頭や教務主任が大声で指示した。校長は避難場所である校庭へ出て、児童の避難を確認していた。校庭に避難を終えた児童にけがは見られなかったが、急いで避難したためジャンパーなど防寒着を着ていなかった。そのため、寒さを訴える児童が多くいた。そこに、雪も降り始め、体が冷えるのを食い止めるために、ブルーシート、毛布などを取りに校舎に戻った職員もいた。また、学級担任以外の職員は、児童がこれ以上濡れないように雪を避けるためのテントを運び、組み立ての作業も行い始めていた。4引き渡しの開始校庭への避難をした後、間もなく保護者が児童の安否確認や引き取りのため学校へやってきた。続々と保護者がやってきたので、訓練の時と同様に引き渡しを開始した(この時点では津波情報は入っていなかった)。雪が横なぐりに激しく降り始め、天候がさらに悪化してきたので、校庭で保護者を待っていた児童を校地内のすみれ学級(放課後児童クラブ)へ移動させることに決めた。その頃、校庭には地域の方や仙石線の電車の乗客なども来ており、その方々の情報とラジオからの情報で巨大津波が襲っていることを知る。そのような中、すみれ学級へ児童を誘導しているとき、国道号線で45車が流されている様子を複数の職員が確認し、少しでも高いところへ避難することが必要と判断、校長の指示で児童及び避難に訪れた人たち全てを3階(図書室)へと誘導した。その後、避難者が増えて校舎2階(視聴覚室・教室)にも誘導し、待機してもらった。2職員による避難所対応本校は校庭まで浸水し、学校周囲にも津波が襲い、道路等も浸水したため交通網は遮断された。そのため避難所としての十分な機能が果たせず、市から避難所不適と判断され、避難所として運営されたのは3月11日と日の2日間だった。日の午1212後にはより安全で物資等が供給しやすい別の避難所に児童及び避難者は自衛隊員によりトラックで移送された。しかし、たった一昼夜だけであったが、避難所運営のために職員は総出で避難者の対応に当たった。多賀城八幡小学校