東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 152/178

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録152資料編を在宅避難者のために持って帰ろうとしたら断られた。在宅避難者に対応するマニュアルはないと市の職員に言われた。(鶴ヶ谷)●桜木地区の住民が天真小学校に多く避難していた。天真小は鶴ヶ谷地区指定避難所になっているのに入れなかった。(鶴ヶ谷)●黒石崎地区住民の避難所は、天真学校なのか総合体育館なのか分からなかった。町内の住民が両施設に避難していたので、安否確認・連絡等に手間取った。(鶴ヶ谷)●避難所となった天真小学校は、耐震診断とそれに伴う工事が済んだばかりだったので、その後も何度か余震もあったが、安心することができた。(鶴ヶ谷)●塩竈三中では、避難している人から避難するのも断られたし、水もトイレも使うな、と言われた。(笠神)●避難所に届く支援物資で、パンやおにぎりなどが余るほどになると、余った分は持ち帰れるようになったが、他の避難所ではまだ十分に食べることができない人が大勢いるのではという気がしていた。(大代)●携帯の充電で盗む人がいないことはすごいと思った。(八幡)?運営(市、参画)●出張で県外におり、地震の2日後に多賀城に着いた。避難した家族を捜しに市役所へ行ったが、職員がまともに対応してくれず、どこの避難所にいるか分からず、安否確認に2日かかった。(桜木)●避難所で名簿に記載したのに、親族からの避難所への電話問い合わせで行方不明扱いになっていた。名簿が機能していない。(桜木)●体育館に避難しようとしたが鍵がかかっており、天真小に行けとの指示。天真小は満員で入れず。また体育館に戻った。職員の指示が徹底していなかった。(下馬)●避難所となる施設(学校等)に避難所担当で来る市の職員は、施設や設備、備品等に詳しくない。必要な物がすぐに準備できない(高橋)●八幡公民館は避難所なのに毛布も食料も備蓄されていなかった。(八幡)●地域で備えた頑丈な発電機が避難所にあったのでテレビで情報収集できた。携帯電話の充電もできた。(新田)●避難所の運営で、職員の役割分担を区の防災組織と連携したいので、事前に知っておきたい。(山王)●避難所がどういう状況で、避難している人たちがどのような人たちなのかわからないため、避難所と、どう関わっていいのか分からない。(浮島)●避難所では、ただ食べるだけ、寝るだけの方々が多く、もう少し共助の大切さを教えていければと思った。(大代)●体は元気なはずの中高生は携帯で遊んでばかりで、働くのは年寄りばかり。若い人のボランティアが必要になるので、その活用を考えたい。高校生3名がボランティアをしてくれた時はとても助かったし、嬉しかった。(大代)●配食を子供達に手伝ってもらったのはよかった。子供達が動いてくれたおかげで、大人が動くことが出来た。沈んでいる空気に光をくれた。(高崎)●学校の教職員は、非常に頑張っていた。食糧が少ない初期のころは、教職員の分の飲食物でさえ避難者用にと提供していた。(鶴ヶ谷)●避難所で食糧支給の手伝いに加わったが、ごまかして持ち帰るのだろうと言われとても残念で嫌な気持ちになった。(鶴ヶ谷)●天真小学校には、1,000名を超える避難者がいたので、地域の見守り活動の拠点を体育館の中にした。市の職員等と協力しながら避難所の運営をしたり、避難所を運営している市職員と地区住民とのパイプ役となった。(鶴ヶ谷)●避難所生活が長期化したので、何事も協力しあう雰囲気が芽生えていた。(鶴ヶ谷)●七ヶ浜等では、避難所の運営や食糧等の支給活動を地域の自主防災組織がやっていた。多賀城は、あまり市民や住民のことを信頼していないので任せられないのかと思ってしまった。(鶴ヶ谷)●避難所(体育館)では、職員が何でも一人でやろうと頑張っていた。地域の人たちとのコラボレーションが上手にできていたらいいと思う。(鶴ヶ谷)●避難所で若い学生たちが自分の配給分を差し置いてまず配ることを手伝ってくれて嬉しかった。(新田)●物資・食料を配給するための名簿(登録カード)のようなものを作るべき。作っていた避難所もある。家族の人数を多く申告したり、2回もらいに行く人がいて不平等だった。(八幡)?在宅との違い●犬がいるため避難所へ行く事をあきらめて自宅2階にいた。(桜木)●自宅に留まったり、一時避難して自宅に戻った人には食べ物等の配給を断られた。避難所にいた人は自宅へ戻っても食べ物や支援物資が配られたのに避難所にいなかった為に自宅に戻ってから食料等調達に苦労した。(桜木)●ソニーへ避難したが、1階が水浸しのため、2日で自宅へ戻ったが、水・食料の支援が無く困った。避難所へ行ったが、子供・高齢者のいる世帯と制限がありもらえなかった。結局仙台市まで物資をもらいに行った。(桜木)●自宅2階で生活していたが、飲料水、防寒対策等の救援を申し出るため避難所(多中)に行ったが「泊まらない人の面倒は見られない」旨の説明があり寒い中悔しい思いで帰宅し、ひもじい生活をした。(桜木)●一般家庭にも、パン一つでもよかったから配給して欲しかった。(伝上山)●アパートの若者が一番食料に苦労していたようだ。個人宅におにぎりをもらいに歩いていた。(新田中)