東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 78/178

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録78第4章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夜中の時過ぎに全員の12無事を確認㈱アペックス東北南支社支社長代理大内和見さん2時分それは突然やってき46た。事務所には、責任者の私と事務員の2名がおり、始めは小さい揺れで、パソコンが落ちないようにと押さえる余裕もありましたが、だんだん揺れが大きくなり、目の前の壁に飾ってある神棚が落ち、机の引き出しが勝手に開いたり閉じたり。天井のエアコンや蛍光灯が揺れ、これはただ事ではないと思い事務員に『すぐ外に逃げろ』と叫!!!んだ瞬間、揺れは更に大きくなり机の上のパソコンや書類の全てが床に叩きつけられ、事務所の中は『ギシギシ』という不気味な音とともに、ガラスが割れる音が聞こえ、逃げ場を失った私は死も覚悟したことを今でも鮮明に覚えています。揺れが少し収まった所で、着の身着のまま外に避難しました。周りをみると、地面にひびが入り、地面が盛り上がり、駐車場に止めていた車はタイヤ止めを乗り越えフェンスにぶつかっていました。倉庫の中は、商品が棚から落ちて散乱し、自販機も数台が倒れて廃棄状態。道路は波をうち二軒隣の事務所は崩壊、幸いにも怪我人はいなかったことが最大の救いでした。その間も余震が何度と続いていました。少し落ち着いて冷静になったところで、外回りしている人達の安否を確認しなくてはと思ったが携帯も何も持たず避難したため、再び激しい揺れがこないことを願いつつ事務所の中へ入り防寒着と貴重品をもちすぐ外へ避難しました。すぐに外回りしている人達に連絡を取りましたが、なかなか携帯がつながりませんでした。雪も降ってきて、さらに心配は募り、みんなが無事に帰ってくることを駐車場で祈りました。何時間、駐車場にいたのでしょう。外回りしていた人達も一人二人と戻り、夜中の時過12ぎに全員の無事を確認しました。翌日、全員の顔を見て抱き合った事は、一生忘れません。その後、地元企業として何かようやく避難所につき携帯電話でニュースを見ると仙台空港が津波にのまれている映像が流れており、それを見たとき会社も同様なのだろうと身震いをしながら見ていました。会社から避難して分あまり40の出来事で、避難が分遅れた30ら全員巻き込まれたのだろうと思いました。翌日、誰もが始めに津波による被害を目にしたときは多賀城工場をはじめ、本社や仙台営業所の復旧・復興はありえないと思いましたし、この先東洋刃物㈱が存続できるのか危機感を覚えました。震災翌日より復旧・復興への取組みが始まり、津波により通勤が手段である車が流されたなか従業員は徒歩や自転車で集まり、最初は自分の身の回り(自家用車等)の確認と整理から始まりました。次に敷地内に散乱する瓦礫の撤去ですが幸いに子会社の協力もあり撤去用の重機や発電機を借りることが出来本格的な瓦礫撤去が始まりました。敷地内に流れ込んだ車やコンテナ、大型トラックの荷台も含めた瓦礫撤去もさる事ながら流れこんだヘドロのかき出しもあり、なかなか作業が進みませんでしたが、社員全員が多賀城工場の復旧・復興を願う気持を強く持ち作業にとり組んでいただきました。更に、会社を退職されたOBの方々が瓦礫の撤去や側溝の清掃など作業の応援に来ていただき工場内にあった製品や仕掛品の運び出しができ徐々に以前の工場全体の形が見えてきました。宮城県の中小企業等グループ施設等復旧整備補助金の援助を受ける中徐々に生産設備も整い一日でも速い製品の完成に向け取り組み、6月には多賀城工場より震災後初の製品をお得意様へ届けることができました。今回の大震災を経験いたしまして、改めて人(従業員等)の繋がりや思いやりの大切さを感じましたし、それにより会社が復興できたと強く感謝いたしております。お役に立てることはないかとの思いから避難所にて弊社運営のカップ式自動販売機で温かい飲み物をご提供させて頂きました。所員一丸となって復興に向けて少しでも支援できたことが私たちの大きな糧となりました。今後も地元企業として、寄与していく所存でございます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寒さが厳しいと段ボールに包まって朝を待った東邦アセチレン株式会社生産・技術本部河原祐路さんあまりにも大きな地震であったので、事業所の社員は普段防災訓練を行っている場所に自然に集合した。