東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 79/178

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東日本大震災の記録

79第4章3・11ドキュメント「あの日」集団避難のリーダーに、ラジオや携帯のワンセグTV等で大津波警報が発令されていることを伝達、近くの社宅の家族にも連絡して、近隣の避難場所(5階建てビル)に全員で避難した。地震から分程度で避難を完25了したが、周辺会社を含めて200名を超える人達が5階のホールに避難してきた。地震から1時間程度で津波を確認、近くの石油タンクが倒壊し、道路を走っている車が津波に飲みこまれる光景が目の前で繰り広げられた。また夜になると石油コンビナートから爆発音が聞こえ、赤々と炎を上げて爆発炎上する光景も目の当りにした。石油が流出し、引火したらこの場所でも危険と考え、脱出しようと試みたが、海水が胸の高さまで有り、脱出は出来ない状況で一夜を過ごした。建物は200名で隙間もない状況であったが、寒さが厳しく段ボールに包まって朝を待つ状況であった。翌朝になっても石油コンビナートからはおびただしい量の煙も上がっており、まだ海水は膝近くまで有ったが、救出を待つのを止めて自力で脱出、近くの多賀城自衛隊に避難することとした。所属会社ごとに名程度の班15に分かれ全員が一列になってゆっくりと確認しながら移動しようやく自衛隊に保護され、24時間ぶりの食事を取ることができた。全員無事に避難できたことは良かったが、今回の大津波警報が出ても全然緊迫感は無かったなど、反省する部分は多々あり将来に向けて、この経験をいかに伝えていけるかが大事なことと感じている。津波の押し寄せる様子(避難所5階)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不足状態だった燃料油の円滑な配送を実施カメイ物流サービス株式会社取締役社長富士溪勝彦さんこのたびの東日本大震災により、犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。当社でも、この震災において東北各地で4名の犠牲者と建物・車両等に大規模な被害を受けました。多賀城の本社建物は幸いにも、基礎と鉄筋等が無事な状態であったことから、当地にて修復し、現在は、ほぼ復旧しております。震災時、すぐに全員避難したのですが、会社に戻ってきた社員がいて、苦労して屋根のうえに避難したことから、今回の修復に当たり、屋根上に避難できるよう非常階段を設置しました。また、海岸沿いの事業所には、今後の対策として高い所へ避難し、安全確保がされるまで、社員は戻ってくるなと指示をしているところです。当社は石油製品等の配送を主としておりますことから、震災当時、不足状態だったガソリン等の燃料油が、円滑に配送できるよう最大限の努力をして参りました。多賀城市の支援を受け種々の助成金も利用でき、配送能力も順調に回復することができました。生活必需品を配送することが被災地の復興となると自覚し頑張って参りました。また、当社の給油施設が津波の被害を免れたこともあり、多賀城市の被災現場の作業車に給油することもでき、当地での震災の復興に役立てることも出来ました。復旧に際し、多賀城市、関係各方面から様々なご支援、ご協力を頂きましたことに深く感謝申し上げます。今回の写真集が被害の大きさ、すごさを後世の人々に警鐘を与え、防災活動、安全対策の一助となることを祈念するとともに、被災された皆様の一日も早い復興をお祈り申し上げます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「災害は忘れた頃にやってくる」という教訓を胸に刻んで東北電機製造株式会社取締役社長椎井一意さん午後2時分すぎで時計の針46は止まっていた。私はオフィス2階の執務室で今まで経験したことのない強い揺れに襲われ、あまりの強さに思わず机の下に頭を隠しました。揺れが収まって室内を見渡すと、あたり一面に書籍や書類が散らばり、テレビやパソコンも転がっていました。窓の外を見ると、玄関前の防火水槽の水が外にはじき飛び、やがて工場内から多くの従業員が外に飛び出してきました。当時工場内には300名程が働いていましたが、皆、不安と恐怖に顔を引きつらせていました。しかし、地震による被害はそう大きなものではなかったと思いますが、その後の津波で状況は一変し、惨状については報道のとおりです。思い起こすと、地震発生に伴って停電が発生したため、情報収集は携帯ラジオが便りでした。そのラジオから『宮城県に