東日本大震災の記録

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東日本大震災の記録

83第4章3・11ドキュメント「あの日」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・礼拝堂を避難場所として提供、多賀城市と連携を実施東北学院大学泉キャンパス(元多賀城キャンパス)課長補佐小野寺芳典さん平成年3月日?時分23111446に東日本大震災(東北地方太平水があるので、トイレに困ることはなかった。4日後に大学で電気が復旧したので、早速これまでの経験をまとめ、Webにアップした。これは好評で私の安否確認以外に多賀城の状況、地震の状況などがわかったと連絡もいただいたし、マスコミでも引用された。次の日には、大学の建物からの撤去命令が出たので、事務棟に移った。家の片付けが一息ついた後は、周辺の被害調査を行ったが、ガソリンがないため遠方にはいけなかった。また、大学施設の被災度判定などの仕事もあり、忙しく日々が過ぎていった。日目に自宅に電気が10通り、それ以後は夜は自宅に帰るようになった。この間、食事は大学の事務棟でのカップラーメンであった(避難所と異なり、職員には食料の差し入れはない)。入浴に一番困った。日23後に水道が通水するまで、卒業生の手配で2度機会を得たが、それ以外は着の身着のままの生活であった。水が通り、家の片付けができ、自宅の風呂で入浴できて、やっと普段の生活を取り戻せた気がした。その後、4月5日にはガソリンもふんだんに出回るようになり、普段の生活に戻れた。家の周辺では津波による廃棄物が毎日山のように排出されていたが、ゴールデンウィーク付近から少しずつ減り始めた。また、国道号線沿いのレストラ45ンなども、ゴールデンウィークをターゲットに開店しはじめ、表面上は急速に復旧が進んでいるように見えた。しかし、例えば、自宅の両側の家は撤去されるなど、完全復旧にはとても至らない状況であった。5月9日から、延期されていた大学の講義も再開され、完全に日常生活が戻った。洋沖地震)が発生した。縦揺れから横揺れと2段の長い揺れだった。収まってから緊急時避難場所のAグラウンドに向かうが、天候はみぞれから小雪へと変わり避難者は工学基礎教育センター、図書館、体育館、礼拝堂界隈に移動した。避難場所に向かう途中ではBグラウンドに㈱ユアテックの車両が協定書に基づき緊急避難で入構中だった。各館点検後、礼拝堂が安全であることを確認し、避難場所とした。また、防災備蓄倉庫等から明るいうちにと発電機等の照明関係、燃料、水、乾パン、簡易トイレ、毛布など重いものを避難場所に搬送している。そんな中、多賀城市から避難場所として施設利用の要請があった。本学と多賀城市との「災害時における支援協力に関する協定書」締結にまで至っていなかったが、礼拝堂を避難場所として提供している。礼拝堂に本学関係者の2室を設けて、多賀城市との連携を図った。避難者受け入れ態勢も着々と進められた。時が経つにつれ避難者が増加、ペット連れ、小さな子供連れ、ずぶ濡れの人、外国の方と様々だった。祭壇前では、市職員と本学職員が6,7人掛りの全身マッサージを施し元気になった人もいた。本学学生は数十人、他は一般市民で約400人が避難していた。本学の備蓄品も提供したが、県、市にも避難者への救援物資の提供もお願いしている。当初、礼拝堂トイレも水が出ず清掃に難儀したが、仮設トイレの設置や給水車の給水で徐々によくなった。外国のご家族も避難所引き揚げ時、手を振って引き上げていった。本学も5月9日から授業開始と決定し、被害調査と復旧に全力を挙げた。3月日に避難所26は終了した。平成年7月4日?に本学と24多賀城市との「災害時における施設使用及び学生ボランティア活動の支援協力に関する協定」を締結し、今後に備えている。