東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 89/178

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東日本大震災の記録

89第4章3・11ドキュメント「あの日」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人と人との「つながり」で生きている黒石崎区千葉潔子さん午後2時分、足元をすくわ46れた思いの大きな揺れを感じ、私は咄嵯に高砂駅ホームのベンチにつかまった。一緒にいた仲間3人は、椅子の下に屈み込んだり、しゃがみ込んだりして、遅々とした時の流れを感じながら恐怖に耐え、揺れが収まるのを待った。電柱は今にも倒れそうに傾き、駐車場の自動車がバウンドしているのを見て、生きた心地がしなかった。その時は高砂市民会館での合唱練習の帰り道だった。揺れが収まって、病で臥せっている夫に電話したが繋がらない。不安と焦燥。電車は動かずタクシーもない、交通手段が断たれやむなく四十五号線を多賀城に向かって歩いた。中野栄駅を過ぎ多賀城の近くまで来たとき、歩行の帰宅者が戻ってくるのに会い、瓦礫で通れないことを知らされる。止む無く中野栄駅まで戻る。そこで、夫からのメール「無事」の2字を見る。先ずは一安心。4人共「早く帰りたい」の気持ちが強く、雪が降る中、多賀城に向け再び歩き出す。側溝から水が噴き出しているのを見て何だろうと思いながら歩く。消防自動車が何やら叫びながら通り過ぎて行く。何を言っているのか聞き取れない。途中、道路一杯に向かってくる人波に出会い、「津波だ、そこまで来てる、急げ!」の声を聞き、無我夢中、津波に追われる思いで中野栄駅まで戻る。そこで、ひたひたと寄せてくる波を見た。「どうしてここまで水が、家には帰れないのか」不安が募る。通じないのを知りながら、一縷の望みを持って携帯電話のボタンを押す。それぞれに何度も何度も。急な寒さを感じながら。駅の近くの「かっぱ寿司」店に避難する。後から入って来た若い人が持っていたラジオから津波の大きさ、被害の大きさを聞いて驚いた。店の人には、食事をはじめ心身共に温まるお気遺いをいただき「地獄に仏」とはこのことと感謝で一杯。そこに二時間程いただろうか。外はすっかり暗くなっていた。仲間の息子さんが店に入って来た。随分と探して来たようす「育英の東側道路に車を置いて来た、そこまで行こう」と言う。「これで帰れる」との思いが強く、腰下までの水を漕ぎながら分位歩いた。車に乗ってホッ30と一息、家に帰れるんだとの確信を持つ。時前、家の中は真っ暗だっ11た。夫の寝床は空だった。手探りでカーテンを開く。六日月の光がさっと部屋の中を照らし「姉の家にいます」と書いた夫の置き手紙があった。人は、人と人との「つながり」で生きている事を実感した一日であった。の卒業式に出席、例年より分20程遅れの終了で、時分頃家1220に帰った。昼食し休憩後、町内会の役員会のことで近くの総務宅にて話をしていた。突然〝地震だ〟強いぞ、強い。これは半端じゃないと思った。その家のお年寄りの手を引いて外に出ようとしたら「外は危険だから出ない方がいい」とのことで家の中に籠っていたが、棚から物が落ちたり、倒れたりで大変危険な状態だった。私は、これが「宮城県沖地震」と直感した。すぐ家に戻り、「防災無線」に向った。途中、市役所からの避難呼びかけを聞きながら「早く終れば」と思いつつ夢中で走った。そして着いた時に、役所からの呼びかけが終わった。(大分あとから聞いたのだが、住民の中には聞かない、聞こえなかった方もいたようだ。)しかし、私が向う時に確かに聞いているので呼びかけはしていた。私もすぐ、避難するように立て続けに3回呼びかけた。やっぱり、この呼びかけも後に聞いたが、聞けなかったか、聞こえなかったか、知らない方もいた。この大地震を起した「宮城県沖地震」については、町内会の定例役員会では毎月、毎回毎回口酸っぱく言っては来たが、多少認識の甘さもあったのか……又、家の中、或いは逃げる途中で大勢の方が犠牲になられた。このことに対しては、早く安全に避難させられなかったこと、悔しいし、申し訳なく非常に残念でなりません。只々ご冥福をお祈りするばかりです。これからも防災に対してもう一回、改めて認識し、そして共有していなければと思う。未だに他町村、又仮設にと、まだまだ震災前に住んでいた地域内には戻ってはいません。一刻も早く復旧・復興して、元の生活に戻る事を切に祈念するばかりであります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一刻も早い復旧・復興で元の生活に桜木南区町内会会長齋藤政治さんここ何年も前から新聞、テレビ等で見て聞いていた「宮城県沖地震」、千何百年の間、巨大なエネルギーを蓄えていたものが一気に爆発した。平成年3月23日午後2時分の出来事であ1146る。当日は、多賀城市内中学校の卒業式で、私も多賀城中学校