東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 90/178

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録90第4章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人を思いやる心、人の為に尽くす心を大切に仮設住宅植田大さん3月日私は透析を受ける為11に病院に居ました。突然の大地震にびっくりし自宅に戻り妻に津波がくる事を伝え、自分が乗っていた妻の車で逃げるように指示し、透析を受ける為もう一度病院に戻りましたが、透析は中止すると云われ自宅に戻り服を着替え、玄関を開け一歩外に出た処、マンホールから水が溢れ出ていて長靴の半分くらいまで水がきていました。家を出て仙塩病院の曲り角で病院の駐車場をふっと見ると、女の人達が右往左往している姿が目に入り、すぐかけつけ才86のおばあちゃん、孫、ひ孫と、もう一人の4人をブロック垣にのせ、その後屋根に上げ、いざ自分がブロック塀に上ろうとしましたが、精も根も尽き果て水に足を取られ、水中に沈んだりしましたが、おばあちゃん達の声援を受けなんとかブロック塀に上りました。雪が降り、寒さが厳しく低体温になっていました。もうだめだと思っていた時、消防の方にたすけられ、仙塩病院に連れていって頂き一晩過ごし、翌日多中の体育館に移動、即社会保険病院へ搬送、透析用の人工血管が重い物を持ち上げた事で潰れていて、手術、その後透析をしました。6月日退院、仮設に入居。12何をするでもなく空しい日々を過ごしていた時に「おはよう会」を立ち上げて頂き、清掃を中心に活動を始めましたが、住民の方からの声でラジオ体操を始めました。住民の人から要望で縁台の作製、休憩所の屋根をかけたり、イベントを行ったりと忙しくも充実した日々を送っています。企業のボランティアと交流をし、仮設での横の連携がないと悪評を叩かれた時もありましたが、そのボランティアの方達の支援があったからこそ現在仮設の皆さんとの連携があり、日々を過ごせていると確信して感謝し、今後仮設から自分の住む所へ移っても人を思いやる心、人の為に尽くす心を大切に大事にしていきたいと感じています。震災津波の時、障がい者の人達が一同揃って受け入れてくれる施設を要望したいです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・感謝の気持ちを忘れず皆様の力になりたい高橋公園仮設住宅自治班班長菅原和雄さん突然地面の下から突き上げるような大地震が起こり外に出ようとしてもなかなか出られず柱にしがみつき、やっとの思いで外に出てみると近所の人々が泣き叫び津波を予測する余裕がありませんでした。横の道路を見るとすでに車は渋滞していて消防車が家に向って走ってきました。「6メートルの大津波が来るので逃げろ!」大声で叫んでいました。初めて恐ろしくなり逃げました。車は渋滞を見てあきらめるよりしかたがなく、高台という事で天真小体育館に避難しました。着くと東北石油はすでに火が燃え上がっていて体育館には大勢の人々であふれていました。その日の寒さは一生忘れません。夜になりライフラインの切れた中、避難毛布の入った袋に足を入れ寒さをしのぎ、全然知らない人々と背中を合せ囲まって寒さに耐えました。何度も何度もやってくる余震に恐怖を感じながら、その時は皆んな同じ思いで囲まって過ごしました。その避難所は鶴ヶ谷町内会の人々が自分達も災害に遭っているにもかかわらず、自分達の町内の人々ではないのに私達のような者にも分け隔てなく朝から夜九時頃まで毎日お世話してくれたのでした。私のできる事は水洗トイレに使う水を学校のプールから運ぶ事位でした。今でも心から、あの事は思い出し感謝でいっぱいです。その後、総合体育館に移り自分の出来る事はトイレ掃除を進んで行う事でした。仮設住宅に移り、世話役をしないかと相談され現在があるのは、自分も皆様のお役に立ちたいという気持ちがあるからかも知れません。朝夕の挨拶から始め今では誰とも話し合えるようになりました。又、平成年1月日から2426塩釜警察署より地域防犯サポーターの委嘱を受け夜9時分頃15より仮設内夜廻りをして、トラブル及び住民の皆さんの安全に努めています。命がけで住宅を廻り「大津波警報」を叫んで訴えてくれた消防署の方々、そのお陰で助かる事が出来、鶴ヶ谷町内会の人々に助けられ、今でも沢山の方々に助けられています。あの時を忘れず、自分のできる事はできるだけ皆様のお力になりたいと毎日考えています。