(聞き手)
東日本大震災以外に、どのような災害を経験してきましたか。
(米田様)
チリ津波は私の生まれた年にありましたが、実際は記憶していません。宮城県沖地震は高校生の時に経験しています。その後、市役所に採用され、昔の建設課という道路管理をしている課で今と同じような業務をしている際に、何回か大きな水害を経験しました。水害に関しては、色々と経験は積んできたのですが、津波は今回初めて経験しました。今までも津波警報等は何回か出て、その際は潮位の変化を監視していました。潮位の変化は5~10センチ上昇したくらいで、実際に津波を経験した事はありません。
(東海林様)
高校生の頃、宮城県沖地震を経験しています。また、昭和61年の8.5の水害の時に自宅が床上浸水に遭い、大きな被害を受けました。
その後、何回か水害の経験をしていますが、津波は今回が初めてです。仙台港から津波が来る事は誰もが想定していなかったと思います。被災車両や瓦礫の流入など、想像を絶するほどの大規模災害となりました。
(聞き手)
今回の東日本大震災では、過去の経験をどのように活かせたでしょうか。また、活かしきれなかった点を教えてください。
(米田様)
今までの水害はある程度、何時頃がピークか予見出来たので、市役所全体で事前にパトロールして、対応、対策が出来ました。しかし、今回の震災では、震災後すぐに、パトロールや応急箇所の点検などを行ったものの、想像をはるかに超える大津波の前では、行く手を阻まれ、思うように行動出来ませんでした。市では、宮城県沖地震の教訓を元に地震被害軽減に向けた種々の対策を講じてきましたが、津波被害の軽減等については、未着手でした。
(東海林様)
発災後の対応として、私は八幡公民館の避難所を担当する事となっていました。八幡公民館の避難所では、毎朝、八幡地区の区長さん方と情報収集を行い、共有出来た事が良かったと思います。最新の被災状況等について行政側から区長さん方へ情報伝達をし、安否確認や物資などについて区長さんから行政側へ連絡・報告を頂くなど、綿密に対応出来たと思います。また、炊き出しは、自宅で避難生活を送っている方々へ、昼や夜の時間帯を区別して提供しました。その辺りは徹底して区長さんが行っていましたので、今後の良いお手本になればと思っています。これは、行政と地域が連携・協力し合いながら密着していかないとなかなか難しい事だと思います。常にコミュニケーションは大事だとつくづく思いました。
一方で、電気や水道等が寸断され、復旧の見通しが立たない中での避難生活への対応については、最悪の状況も想定して訓練を行い、不測の事態に備えるべきだったと思います。当時、私は生活環境課に所属していました。ですので、早急に対応すべき応急仮設トイレの設置、被災車両や災害ゴミ等の業務に当たるため、現地班担当を2~3日で引き上げ、生活環境課へ戻る事になりました。生活環境課の多くの職員が避難所や現地班担当に当たっており、災害廃棄物処理業務が人員不足となりました。さらに苦情処理やクレーム処理に追われ、限られた職員でしか行動出来ず大変苦慮しました。
(聞き手)
発災時はどちらにいらっしゃいましたか。その後の対応も併せてお聞かせください。
(米田様)
発災の瞬間は庁内にいまして、すぐ、全員が外に警戒に出るという事になりました。ただし、当時の課長から、大代方面など海に近い方には津波が来るから絶対行くなと指示があり、西部地区や多賀城公園周辺をパトロールするという事で全員出動しました。発災後、20~30分経っていましたが、特に異常がなかったので、津波が来るとは思っていませんでした。このまま帰庁しようとしましたが、多賀城中学校近くにある仙石線の下馬第一踏切で、列車は停止しているのに遮断機が鳴り続き、通行出来ない状態のため、国道45号線が渋滞していました。踏切が片方しか通れなかったので、職員2人で車両を誘導しました。1時間くらい下馬第一踏切で誘導をしました。後で知った事ですが、その時には既に津波が来ていたようです。踏切の誘導作業後に帰庁して、初めて津波の被害があった事を知りました。
(聞き手)
その下馬第一踏切で交通整理を行われたのは、現場判断でしょうか。
(米田様)
全部止まっていましたので、誰かが誘導しなければ事故になると判断しました。携帯も繋がらなかったので、市役所に連絡する術がありませんでした。たまたま通り掛かったパトロールをしていた職員に、誰か1人係りを付ける必要がある事を災害対策本部に伝えるよう頼みました。
(聞き手)
先ほど、踏切が鳴り続けていたというお話がありましたが、停電が原因でしょうか。
(米田様)
踏切にそのような機能があるのだと思います。ある程度の地震を感知すると、自動的に遮断機が下りて、鳴り続けるようになっています。そこの範囲だけではなく、市内にある全部の踏切に同様の機能があると思います。市道から国道に出ようとする車もだいぶ渋滞していたので交互に誘導していました。
(東海林様)
震災発生時、私は庁内にいまして、すぐに多賀城市災害対策本部が設置されました。私は八幡班現地班担当に当たっていましたので、現地班長の指示を受け、八幡地区指定避難所の開設のため八幡公民館へ現地班担当職員2人と徒歩で行動しました。100人程度が収容出来る避難所でしたが、次々と避難者が押し寄せ、200人以上の方が避難されました。避難所は少し高台にある所でしたので津波から難を逃れましたが、避難者から家族の安否確認が取れないなどの話を聞き、大変な事が起きているのを痛感しました。
(聞き手)
車両の撤去をご担当されていると伺いました。車両の撤去の部分で、ご苦労された点などありますか。
(米田様)
路上に被災車両が大量にあり、救急車や消防車などの緊急車両が通れませんでした。被災車両を寄せなければいけませんでしたが、それらは個人の所有物なので勝手に動かせません。すぐにでも動かしたかったのですが、県の指示待ちでした。市内のメーカー、ディーラーのモータープールで何箇所か新車を保管していますが、その車両もすべて流されており、それを回収する業者から協力する旨の提案がありましたので、その会社と契約して移動や保管などの対策を講じる事としました。そうした段取りは付けたのですが、やはり個人の財産なので動かせない事もあり、県や国からの指示を待っていたのですが、なかなか決まらず、歯がゆい思いをしていました。しかし、行動を起こさなければ復旧は進まず、火災時に消防車が通れないため、市の判断として先行して被災車両の移動を開始しました。そのような折、私たちの方で移動は出来たものの保管場所の確保ができず困っていたところ、日産から土地を無償で提供出来るとの話をもらい、そちらに搬出する事から始めました。色々と手続業務が必要だったため、業者と職員が専従し、車を移動する旨の紙を貼ったり、地区ごとにどのように整理するかに頭を悩ませながら対応しました。
45号線や県道は、道路の管理者が別だったので、市で対応出来たのは市道上の被災車両だけでした。始めに道路の幅を広げるため、優先順位を決め、主要幹線から移動して、その後、民有地の車両を移動しました。
(聞き手)
車両撤去の開始を、県内で一番素早く対応したのが多賀城市さんという事ですね。
(米田様)
他市町でも早急に対応したかったと思いますが、保管するための公有地がありません。多賀城市でも公有地が被害を受けていましたので、日産からの申し出があったので早急に対応出来ましたが、置き場所はすぐに一杯になりました。他の自治体や県から、多賀城市さんは、何でそんな事が出来たのですかと、後から問い合わせがきました。当時の上司の「待っている場合ではない。」との判断で行いましたが、そのような即座の対応をしても、凄い苦情でした。車があり、自宅から出られないとの連絡を受けて車をどけたり、土砂や黒い汚泥の撤去を同時進行で行ったりしました。道路と公園で1406台あり、民有地は2706台ありましたので圧倒的な量でした。
(東海林様)
民有地では、個人のお宅に行って、まったく別な人の車両を動かす事になるので、両方の財産権が出てきてしまいます。家に車が突っ込んでいるのですが、自分の家の車ではないので、移動するのも了解を得なければいけません。なので、その所有者を調べるのが一番大変でした。立ち会いをしてもらって、初めて動かせる状況の下、移動していました。家に突っ込んでいる車が結構ありましたし、車の所有者と家の所有者の立ち会いの下で動かすので時間が掛かりました。クレーンで動かすにしても、他のものを壊さないように少しずつしか移動出来ないので、吊り上げる作業には、1台1台の手間が掛かりました。
(聞き手)
中には所有者不明のような車両も出てきたのではないでしょうか。
(東海林様)
民有地の被災車両ですが、1台1台移動する旨の貼り紙を一定期間周知し、その後に請負業者が一時保管場所へ移動しました。一時保管場所に移動した被災車両1台ごとに、車両の写真と車種、車体番号を調査し、そのデータを基に市から陸運局へ照会をかけました。所有者の判明した被災車両から随時、所有者に対し、「市で一時保管しているので引き取りに来てください」という旨の通知をしました。同時に市独自で6カ月間の期間で告示を行いました。中には、原形がないような車もありました。
(米田様)
道路上の被災車両ですが、こちらは所有者確認の前に、まず車両を移動しました。作業自体は2カ月近く掛かりまして、その間ガソリンが不足していたために、放置された車からは、ガソリンが抜き取られたり、中の物を取られたりというのもかなりあったようです。ですから、保管した車両について、警備会社と契約して、24時間警備を委託するようにしました。日産から提供してもらった保管場所はフェンスが無くなっていたため、保管場所からの窃盗を防ぐためです。
(聞き手)
警備していても、侵入される事はありましたか。
(米田様)
警備といっても、何千台もの車を2~3人で警備しているだけなので、被害は何回かありました。保管場所もある程度、県有地とか国有地を提供して頂いて、搬出する度に開放すれば迅速に車を移動出来たのでしょうが、県も国もそれどころではなかったようです。保管場所を自力で探すしかありませんでした。
(聞き手)
現場判断で動かれた部分があると思いますが、県の指示ではどのような対応があったのでしょうか。
(米田様)
県では処理出来ないので、県道にあるものを多賀城市の方で処分してくださいといった依頼がありました。車は、すべて日産の土地に保管していましたが、いつまでも置けませんでした。トヨタのモータープールにも一時保管しましたが、復旧のために置けなくなったので、処分するまでの間、明月にある宮城職業訓練支援センターに置いてもらいました。車の処分は、所有者が判明し、引き取りに来てもらったものを除いて、市で委託している業者に処分させました。道路や公園にある車は、公共の場所でしたので、移動しても強い苦情を言う人はいませんでしたが、民有地では多くの苦情が来ていたようです。なぜその委託業者なのか、入札をかけるのが本来ではないのか、不正ではないか、といった苦情がありました。もちろん、そのようなことはありません。一刻も早く道路機能を復旧する事が最優先であり、緊急事態でやむを得ない対応でした。石巻市でも同じ方法を採用したようですが、本市同様に石巻市も大変だったようです。
(聞き手)
形式などにとらわれず、現場判断で動いた事はとても印象的ですね。
(米田様)
市道の車だけ移動しても、国道や県道に残っていれば全然意味が無いですから、国や県が整備したマニュアルがあって、こういう時はこうすると事前に周知してもらえれば良かったと思います。まずは国道の車を移動して次に県道、道路の使用頻度からいけば、その次は、市道になります。このような事から整備していかなければいけないと思います。また、現在、交通防災課と道路公園課で防災計画の見直しをしておりまして、車両に関して言えば、今回の規模の津波があったとしても通れる道路と、通れない道路がわかりました。サイン計画という事で、事前に津波が来た事を知らせる、避難道路へ誘導するなどの対策を国土交通省でも進めているようですので、国・県・市が一緒になって動く事で、その道路を通れば渋滞もせず、被害を受ける車両も減ると思うのです。それに向けて、多賀城市では、東西に向かう道路はあるのですが、南北に向かう道路が無いので、その道路を今から国の助成で作り、避難道路とする予定です。今後は、こちらに工場地帯の車両を誘導する方向で話が進んでいます。国道からくる車については、市の道路と一体になり使用する方向でいけば、渋滞もしないですし、被害車両も減ると思います。テレビの番組で都市型災害という番組があって、突然ビルの合間から津波が来たなどの被害を受けた人が沢山いらっしゃったようなので、道路上にある車両に津波を警告する電光掲示板のような可変掲示板などを国で考えているようです。多賀城市では、188名の方が亡くなったのですが、そのうち市民が100人くらいなので、市外からの人が半分近くいた事になります。通過車両がほとんどでした。市民だけの周知では災害を防げないので、近隣の市町にも知らせなければいけません。一つの自治体が単独で行っても意味が無いので、全体でネットワーク的に動かなければいけません。
(東海林様)
今回の市で行った被災車両の撤去作業は、県からのマニュアルが無いまま、市で対応しましたが、本市だけでも約4000台以上の被災車両があり、一時保管する場所がほとんどありませんでした。一時保管場所の借用地を探しても期間が限られていて、各自治体はどこも大変苦慮したと思います。
(聞き手)
その辺りの改善策や課題などは、お考えなのでしょうか。
(東海林様)
被災車両の一時保管場所等として県有地や国有地を提供して頂き、被災車両を搬出出来れば迅速に対応出来たのではないでしょうか。そのために、県と各自治体で様々な角度から意見を出し合い、検討を重ねる必要があると思います。各自治体だけで解決出来ない課題も多々ありますので、県や関係部署と協力し、今後に活かしていくべきだと思います。
(聞き手)
これからの多賀城市の復旧、復興に関してのご意見はございますか。
(米田様)
今、復旧の最終面にいる段階です。震災があってから、多賀城市では建設部の職員が不足しているため、全国から建設部だけで33名の方に来て頂いています。北は青森から南は沖縄の自治体の支援の方、主に技術系の方に来て頂いています。私の課も、そういう方がいないと復旧が進まない現状です。全国の沢山の方からの支援が無いと、なかなか前に進まず、土木業者も人手不足で大変でした。今後復興期に向け、先ほど申し上げた避難道路の建設や、大規模な区画整理などが入る予定ですので、引き続き皆さんの御支援を頂かないとやっていけません。応援職員の方たちのノウハウを本市の職員が学び、今後に活かしていく必要があると思います。そのような中でも、逆に、支援で来ている方々には、自分たちの自治体で震災があった時のための対応や、被災地ではどのように対応したのかを学んでいって頂きたいと思います。
(東海林様)
生活環境課など災害業務に従事する部署に多くの職員を配置するなど、早くから対策を講じる事も必要だったかと思います。
(聞き手)
今後、他県や他都市で、何か災害が起きた場合は、逆に多賀城市さんとしても協力していくのでしょうか。
(東海林様)
当然の恩返しです。応援職員の方々がいなかったらどうなっていたのかわかりません。復興支援があったおかげで、ここまで早く復旧作業が進んだものと思います。本当に感謝しております。
生活環境課では、横浜市から手伝いに来て頂いた方に2年の間、協力して頂きました。その人がいなかったら、どうなっていたのかわかりません。
応援職員の方々は、初めての災害廃棄物処理業務等も苦にせず、様々な角度から見て意見を出し合い、何事にも率先して行動して頂き、検討を重ねながら改善策を導き出していました。沢山の事を教えて頂きました。
(聞き手)
今回の震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓はございますか。
(米田様)
数年後、多賀城高校では、防災系学科が出来るそうです。災害に備え、被害を減じるための教育というものが非常に重要になってくると考えています。例えば、小中高校で、カリキュラムを組んで初動の動きなどを周知していけば、今回のような混乱は少なくなるだろうと思います。また、今回の災害での教訓や知見を、次の時代を担う幼稚園児や子どもたちに伝えていければ、被害を最小限に抑制する事も可能になると思います。
(聞き手)
伝承出来る機会であったり、場所を提供したりする事が大事ですね。
(米田様)
私もそうですが、世代が変わってしまうと震災の事が薄れてしまうと思います。それは十分考えられると思うので、学校教育という機会を通じての伝承は大切だと思います。
(東海林様)
今回の震災を経験して思った事は、震災はいつどのように来るか予想が付かない、想定以上の事が起こり得るという事です。パニック状態にならないよう冷静に行動しなければと思いました。子どものうちから教育の一環として、教えていく事が大事ですね。そして、私たちもこの教訓を伝承していかなくてはいけないと思います。
(聞き手)
この先、どのような対策や対応が必要になるとお考えですか。
(米田様)
多賀城市の職員の年齢構成として、50歳以上の人が4割います。間もなく、ほとんどの幹部職員たちはいなくなります。50歳以上の人たちがいなくなった時、被災車両の対策をどのようにして行ったかという事など、知らない職員が沢山いると思います。それぞれの職員がどういう部署でどのような事をしたのか記録に残しておけばいいのか、例えば私の課だったら、こういう場合はこういう事が問題だから、こうしないといけないというのを、引き継ぎでもしていかないといけないと思います。経験者がだんだん減ってきて、指示命令系統を担った人たちが皆いなくなった時の事を考え、次の世代の職員たちに伝えていかないといけません。民間の人たちや地域の方々は、そのような仕組みが整えられていると思いますが、市役所でもそれらの詳細をきちんと継承していかねばならないと思っています。それは全庁的にしていかないといけませんし、今から入ってくる職員への伝承も肝心だと思います。
一同を集めて情報交換会を開く、課内の研修をするなどしても良いでしょうし、例えば人事異動などがあった際でも、新しく来た職員に個別に課長が対応して継承する事も必要かと思います。そのようなカリキュラムを組んで、システム的に行うのにとどまらず、平常時から、研修や震災の話などをする事も必要かと思います。いつ大震災が来るのかわからないので、すぐに戦力になる職員がいなければいけません。何もわからないなんて言っていられませんので、すぐに対応する事が肝心です。
(東海林様)
今回の震災で被災状況の現場を確認していると、市民から呼び止められ、市からの情報が無いとの苦情やクレームを聞きました。お知らせしたくとも、手元に情報が無くもどかしい思いをしました。
市職員間で最新の情報を共有していれば、市民に対して色々と話せる事が少なからずあったと思います。
(米田様)
私たちもパトロールをしていると、給水車が何時にどこに来るのか聞かれました。しかし、そういう共通の認識がないので、ちょっとわかりかねますと返答していました。市民は多賀城市の車に乗っている人は、すべて知っていると思って聞きますから、最低限の情報は知っていないと、市民に対して答えられない事がありました。電気、水道が止まった後、復旧してくると補助申請の話になります。時期的に色々と質問される事も違います。震災直後の混乱期では複雑多様化していましたが、その辺を時系列や段階的に整理し、市職員が情報を共有しておく事の大切さを身を持って体験しました。これをしておかないと現場の職員の業務が滞ってしまい、本来の作業に時間が掛かってしまうので、今後、この問題を改善していかねばと思います。