防災・減災への指針 一人一話

2013年09月26日
災害対策本部担当として初動の対応と職員の活躍を振り返る
多賀城市役所 市民経済部収納課(当時の役職:総務部長)
澁谷 大司さん

経験が活きた職員の非常配備

(聞き手)
 これまで、他の災害を経験した事はございますか。また、その際の経験はどのように活かされましたか。

(澁谷様)
 震災の経験が活かされたことに関してですが、多賀城市役所には非常配備職員というものがあって、災害時の役割分担が決まっているんです。現況調査に行く班、避難場所を開設する班など、各地域で担当が決まっています。今回はそれらが、全て出動することになりました。非常配備職員がすぐに集まって現場に向かうことができたのは良かった点でした。
 逆に、今だから、そして職員が無事だったから言えることですが、実はあのような大きな津波が来るという想定をしていませんでした。職員の配備体制はこれまでの水害経験で活かされていましたが、それ以上の職員が出ていかなければいけなかったので、現場は本当に大変だったと思います。非常配備職員の体制がしっかり決まっていて、各々が対応に出ることができた部分はとても良い感じを持ちました。それと、特に幸いだったのは昼間だったことです。あれがもし夜だったら大変なことになっていたことでしょう。
 ですが、2010年のチリ地震の際の津波の経験は活かせていなかったように私は思います。当時は多賀城にほとんど被害がなく、仙台港付近で少し水位が上がる程度のものでした。多賀城まで来るという想定はしていませんでした。

(聞き手)
 職員の配備命令は、津波が襲来する前に出したのですか。

(澁谷様)
地震発生と同時に出ていくよう指示しました。向かう場所のほとんどが危険な場所でした。後から話を聞くと、公用車を津波にのまれてしまった職員や、命からがら津波から逃げられた職員もいました。当時の責任者として、大変な指示を出したと思っています。

(聞き手)
 その時にはまだ、津波が来るかどうかという情報も入っていなかったのですか。

(澁谷様)
 出ていく時には、そんなことは考えていませんでした。まずは市内の様子を早く把握しようと考えていました。使命感の方が先に出てしまって、他の職員も、その点はほとんど考えない間に出ていきました。今では、それに疑問を持たなかったことを反省しています。
 例えば、出かける職員に、一言、津波が来るかもしれないからラジオを付けながら出かけてくださいというような助言をすれば良かったと思っています。

(聞き手)
 当時はどういったお気持ちでしたか。

(澁谷様)
 色々なことが起きていましたが、今思えば、私自身もあまり正常ではなかったのかもしれません。津波などについて考える暇もありませんでした。本来ならば、私は、冷静に物事を見なければいけない立場にいました。電気や拡声器も使えず、電話も通じないという状況でしたが、もしもう少し冷静でいられたら、何かしらできたのではと感じます。

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(澁谷様)
 発災直後には総務部長室にいました。総務部長室のある建物は地震で崩れると言われていたので、窓の柵が一番安全だと思い、そこに縋っていました。地震がおさまってすぐに災害対策本部に向かって、市内の状況把握に努めました。水害の経験で、職員は各々の役割分担がしっかり決まっていましたので、その役割に応じて出かけて行ってくれました。恐らく私が何も言わなくても、同じように役割分担して動いたと思います。
 現場に行ってからの対応は、職員が臨機応変に対応してくれました。本来避難場所にするべき施設が何カ所も駄目になったため、別な避難所へ避難者を移しました。
ですが、そこにも電気は来ませんし、燃料やストーブも不足していました。3月11日は雪が降った日でしたが、中にはロウソク一本で一夜を明かした避難所もあったそうで、本当に苦労したのだと思います。

(聞き手)
 非常配備職員は何名ほどいらっしゃいますか。

(澁谷様)
 職員の約半分、200名前後だと思います。毎年、異動があるとその部分を組み替えて、誰がどこを担当するという役割を決めています。その一覧表に従って、職員が一斉に出動するようになっています。

(聞き手)
 今回の震災は年度末に起きたので、皆さんご自分の担当地区も分かっていて、経験も積まれていたということですか。

(澁谷様)
 この配備体制はずいぶん前、平成6年ごろから決まっていました。昭和63年、平成2年、平成6年と、多賀城は何度も水害に遭っているので、役割分担をしっかり決めようということでこの体制になりました。役割分担が全て決まっているので、非常招集をかけて役割に従って出ていく形になっています。
多少、担当する地区が違っても、職員は配備体制に慣れています。
その中にも避難担当、地域住民の統率担当といった役割の職員もいますし、班ごとに現地班、避難所班といったように役割分担もあって、その中で上手にやりくりしていたのだと思います。

(聞き手)
 新しく入った職員も一年近く経ったところでの震災でしたが、そういった方も経験を積まれていたのですか。

(澁谷様)
大雨時には、災害用の配備で出かけます。それで慣れていくというのはあると思います。自分の担当は決まっているので、出かけてくれと言えば、はい、と言って出かけてくれます。たびたび招集されるので、そうしていくうちに自分の担当する地区が分かるのです。

生命に関わる事柄を優先した応急対応

(聞き手)
 その頃、澁谷さんは災害対策本部にいらっしゃったのですか。

(澁谷様)
 はい。市役所2階の201会議室という会議室を災害対策本部の部屋にします。本部長は市長ですので、その下に私たちがいる形になります。

(聞き手)
災害対策本部内で何か、印象に残っていることをお聞かせください。

(澁谷様)
 各々が一生懸命にやっていました。私が一番苦しんだのは食糧確保でした。発災時に1万人以上の人が避難していました。1000食程度ならどうにかなるのですが、多賀城市内の3分の1が浸水して、砂押川の南側はほとんど被害を受けていました。食糧供給元は大半が浸水した地区にありましたので、どうやって食糧供給をしようかと、非常に悩みました。

(聞き手)
 食糧不足に気が付いたのはいつ頃ですか。

(澁谷様)
 不足していることはすぐ分かりました。避難者が1万人以上いたのに対して、乾パンなどは、3000~4000食しかありませんでした。しかも、職員の大半がすでに避難所などへ出動していたので、食糧を届けることができませんでした。
友好都市の天童市からパンが7000食程度届いたのが、震災後2~3日後のことでした。学校給食のパンを天童市で作ってもらって、多賀城まで運んでもらいました。それが最初の食糧支援になります。
 それから燃料の手配です。国道沿いのガソリンスタンドが使えなくなってしまって、何とか手配できないかと策を尽くしましたが、なかなかできませんでした。
その後、被害に遭わずに済んだガソリンスタンドでは、市の許可証を提示すれば、給油できるというような形式になったのですが、自然と、命に関わる人が優先されます。一般市民からは、どうして私たちには給油できないのか、とすごく責められましたが、どこかで判断しないといけないので仕方がなかった部分がありました。
 あの頃に、利府町にあるグランディに遺体安置所を移すという話があって、遺体安置所までの車を手配してくれないかと言われたこともありました。送迎車を出したかったのですが、亡くなった方よりも、生きている方、避難所にいる方、透析が必要な方などの対応をせざるを得ませんでした。

(聞き手)
 どこを基準に判断するというのは、災害対策本部で決めたことなのですか。

(澁谷様)
 災害対策本部である程度の基準は決めますが、その都度、優先順位を諮るわけにはいきません。生きている方や治療を受けている方を最優先にして許可証を配っていました。現場の判断でした。

自治体の活動の限界と自衛隊への協力要請

(聞き手)
 今後のために、今回の東日本大震災、そしてそれ以上の被害状況を想定し、異常な状況下における現場の動きも踏まえてマニュアルを作る必要はあるのでしょうか。

(澁谷様)
 今回の震災をもとにマニュアルを作るのはとても大変なことです。電気、ガス、水道、ガソリン、交通機関、鉄道、電話の全てが駄目になった状況を想定して作るのは非常に厳しいことです。
 一番怖かったのは、建物に突っ込んでしまったタンクローリーを引き上げるから市役所も手を貸してくれと言われたことです。役所の力でどこまでできるのかと考えると、限度があるのだと感じました。
そういう意味では、陸上自衛隊多賀城駐屯地が市内にあったので、すぐ要請して来てもらえたことが良かったと思っています。自衛隊とは常に訓練などを一緒に行い、幹部同士が顔見知りなのです。そこで市長と、自衛隊連隊長とのコンタクトがうまく取れたことも、自衛隊との連携が深められた要因でしょう。

(聞き手)
 顔の見える関係だからこそ、防災にも役立って、日頃の訓練にも活かせるということですか。

(澁谷様)
 そうだと思います。水道がまだ使えなかった当時、被災地域の方たちがお風呂に困っていましたので、自衛隊に臨時のお風呂を設置して頂いて、それで皆さんが入浴できたのは特に大きかったと思います。

非常用発電装置の重要性

(聞き手)
 本来でしたら市庁舎は避難所にならないとマニュアルにありますが、今回、臨時的に避難者を受け入れたように、今後も臨機応変な対応をしていくことについて、現場としてはどう思われますか。

(澁谷様)
 当時は停電で、電気がすべて消えてしまっていました。ここの庁舎はたまたま自家発電装置があったので明かりが点いていましたが、明かりがあるということで、避難者の方たちがここに来たのだと思います。
市役所で避難生活をしたのは一週間ほどでしたが、廊下や会議室まで全て避難場所にしていたので、復旧・復興のための業務に支障が出てしまうとの判断から、その後、文化センターや東北学院大学に移って頂きました。文化センターにも自家発電装置があるので、初めからそちらに避難した方もいました。自家発電装置がある施設に、比較的人が集まっていました。
 そのため、震災後、学校にも非常用発電装置などの設備を置くようにして、テレビも非常用発電装置で見れるようにしました。
また、食糧の分散も見直しました。当時の3000~4000食の備蓄から、今では15000食ほどの備蓄食糧を準備するようになりました。
今回の震災と同クラスの震災が、再び起こらないとは限らないので、このような備蓄をするようにしました。

(聞き手)
 市職員の安否確認はどちらの部署が行っておられるのですか。

(澁谷様)
 総務課人事係ですが、私はそこまで指示は出していませんでした。後から確認したところ、職員自身に人的な被害はありませんでしたが、ご家族を亡くした職員が、十人以上いたというのが分かりました。
ですので、ご家族に対してとても申し訳なく感じました。
職員も、ご家族が亡くなっているのによく働いてくれたと思います。しかし、当時は、優しい言葉をかける余裕すらありませんでした。

非常配備職員は市内在住者を中心に編成

(聞き手)
 非常招集訓練や救助訓練の必要性についてお聞かせください。

(澁谷様)
 発災時刻が昼間でしたので、今回は比較的対処ができたと思っています。毎回思っていますが、水害などの場合、夜中や休日に発生したとなると職員の招集が非常に難しくなります。
ですから非常招集訓練は必要だと前々から感じていますが、手当や休日の関係で、なかなか実施には至れませんでした。
総務部長をしていた頃には一度実施しておきたいと考えていましたが、今では無理やりにでも実施しておけばよかったと反省しています。災害は必ずしも平日に起こるとは限りませんし、もしあの震災が夜中の2時頃に起きたとしたら、職員はどうやって集まったか、交通機関を使わずに何人が市役所まで来られるのかと考えたら、恐ろしいことになると思います。

(聞き手)
 水害の場合でも、平日・休日を問わず招集を掛けるのですか。

(澁谷様)
 以前に防災担当だったことがありますが、夜中の水害発生もありました。招集を掛けたのですが、職員が集まるのに1~2時間ほど掛かってしまいました。

(聞き手)
 水害や台風は少し前には来ると分かって、心構えをする余裕があると思いますが、地震は心構えをすることができません。そのための訓練の必要性はあるとお思いでしょうか。

(澁谷様)
 地震の場合は、震度が一定以上であれば自動的に職員が出勤するようになっています。そうなれば、職員は、休日でも出勤するという癖が染みついていると思いますが、万が一交通機関を使わずに出勤してきてくれと言われた場合は、来られるのかという疑問は残っています。
 非常配備職員は、出勤距離を考えて、多賀城市内に住んでいる職員で多数を占めるようにしてあります。
ですが、職員も定数を削減しており、最低限の人数を確保できているのか、災害時の対応が難しくならないかという点が問題視されるようになりました。

地域住民やボランティアとの役割分担と協力

(聞き手)
 定数削減で職員が不足した場合、地域住民などの支援を受け入れることはできるのでしょうか。

(澁谷様)
 市では、有事の際に、地域で中心となって動いてもらうよう「地域防災リーダー」を各地区に一人以上配置しています。
会社関係では多賀城市災害防止連絡協議会というものを立ち上げていただき、そこの方たちが発災すると駆けつけてくれるような連携は取れています。
今回も被災車両の移動や瓦礫の撤去、家屋の解体などもしていただいて、ずいぶん助かりました。

(聞き手)
 このまま人員削減が進んで、もし人手が足りなくなったときに、どのように人手をカバーすれば良いとお考えですか。

(澁谷様)
 震災後、1~2日ほど経った時に、東京から来たボランティアの方たちから、市職員が避難所に関わったら、市の仕事が何もできなくなるから関わっては駄目です、と言われたことがありました。
最初は言われていることの意味が分かりませんでした。
職員としては避難所に食事を配って、避難者のお世話をしないといけないと職員全員が思っていましたから、必死でお世話をしました。
それからある程度、日数が経過したら、今度は、役所内の仕事を片付けないといけなくなります。そこで、職員を避難所から引き上げようとしたのですが、なかなか引き上げられない状況が起きてしまいました。あの言葉の意味は、地域の方などに、避難所運営をお任せすることができれば、職員は早期に市役所での復旧の仕事に復帰できるといったことなのだと思います。地域の方への支援を重視すると、本来の業務が滞ってしまい、結果的に、悪影響が出てしまう可能性があります。
例えば市民の方に災害の情報を伝えるにしても、職員が原稿を作らないといけません。もし人の手を借りて配布するにしても、その段取りは職員がしないといけません。
それを、職員が足りない中でやってもらったので、本当に頑張ってくれたと思います。ボランティアとして高校生の力を借りるなど、人手が足りないなら足りないなりに、職員が知恵を働かせてくれた結果でした。職員は本当によく知恵を出してくれたと思います。

本部の責任と職員の知恵

(聞き手)
 出された知恵は、職員の方の経験則なのでしょうか。

(澁谷様)
 私は経験則ではなく、どうすればいいのかと追い詰められての末に、知恵が出てきたのだと思います。各部署で、自分たちでやるべきことをやってもらいました。

(聞き手)
 そのように仕向けるのには、どのような指示を出すと良いのでしょうか。

(澁谷様)
 私の場合、あまり具体的な指示は出しませんでした。何かあったらこちらで責任を持つから、いいからやってくれとしか言っていません。

(聞き手)
 「責任を持つ」と言ってもらえるのは、職員にしてみれば一番楽になることです。今回アイデアがたくさん出たのは、それが理由なのではないでしょうか。

(澁谷様)
 細かいことを言っている場合ではありませんでしたから、職員を信頼して任せる他ありませんでした。
あの災害時に臨機応変な対応ができたので、今ならもっと臨機応変に対応できるのではないかと思います。

災害の目印を伝え残すことの大切さ

(聞き手)
 多賀城市のこれからの復旧、復興に関して、要望や意見はございますか。

(澁谷様)
 多賀城の復興のためには、産業や経済がしっかりしないといけないと思いました。
企業も人も、多賀城市に来て頂きたいです。
 当時、JTBさんから被災地を見学したいという要望がありました。担当課は気乗りしていないようでしたが、私は絶対にやった方がいいと言いました。ただし、条件付きでした。多賀城市内で食事をしてください、多賀城市内に泊まってください、多賀城市に一人1000円寄付してくださいとお願いしました。ある程度この流れができれば、職員から案内ボランティアに引き継ぐ際の収入源にもなりますし、人が来て、お金が回る流れができるのではないかと考えたのです。
そして、被災地見学を実施したおかげで、たくさんの方に来て頂いて多賀城のPRにもなりましたし、物も色々買って頂けました。
また、現在、産業振興のための企業誘致も進めています。
 それから、民間でやれる部分は民間で、行政が行うべき部分は行政と、分担を分けるべきだと思います。先ほどのJTBさんの例でも、最初は市職員が担当しても、その後は市民に任せる形を取るべきなのではないかと感じています。

(聞き手)
 今回の震災の経験から、後世に伝えたい教訓はございますか。

(澁谷様)
多賀城市はほとんど海に面していませんが、海から近い立地ではあります。869年に貞観の津波というのがあったのですが、その時の津波の到達地点と、今回、津波によって砂押川へ船が押し上げられたところがほぼ同じなのです。
ですから、ここまで津波が来たのだという目印を残しておく必要があると思います。
八幡地区には「末の松山」という歌枕の地がありまして、そこには「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは」という歌が詠まれています。
歌の意味は、末の松山の手前まで津波が来たが、末の松山までは届かなかったというものです。津波が来た目印を残すというのは、こういうことなのだと思いました。
職員としては、非常招集の危機管理が必要なのだと感じました。
今回の災害は日中に発生しましたが、夜中だったらどうしようかと思いました。
また、自治体からの応援は強みになりましたが、逆を言うと、もっと早く指示を出していれば職員が楽になったのかとも感じます。
職員は自分でやった方がいいと判断して、遅くまで仕事をすることがあります。その後の仕事を考えたら応援を受け入れる方が絶対に良いはずです。
今回は市長同士の繋がりで、応援をもらったことがずいぶんありました。多賀城市と、あるいは、市長と交友関係があったので来てくださった自治体もありますし、市長が当時、会長をしていた、全国史跡整備市町村協議会からも、会長である市長のところへ応援したいということで来ていただいた自治体がありました。そういった、人と人の繋がりが大きかったのだと思っています。

他自治体との友好・交流という確かな絆

(聞き手)
 応援自治体の職員の方が来たとき、市職員は、どう感じたのでしょうか。

(澁谷様)
 自分の業務を任せることに不安があったとは思います。ですが、一生懸命に手伝ってくださる応援自治体の職員の方々に心から感謝していました。

(聞き手)
応援自治体の配置はどちらの部署が行ったのですか。

(澁谷様)
 総務課人事係で行いました。

(聞き手)
 もし応援自治体や友好都市に災害が起きた時には、多賀城市からも応援職員を出すようなお話はありますか。

(澁谷様)
 もちろんです。食糧や寝泊りの用意などの道具一式を準備してありますので、すぐ向かえるようになっています。
震災を経験して、天童市や太宰府市、奈良市に国分寺市など、皆さんが助けてくださいました。
もし、それらの自治体に何かあったら、自分たちが行かねばと思っています。それくらい職員たちの気持ちが変わりました。太宰府市からトラックで救援物資を早期に送って頂けたのは、市長同士の繋がりがあったからだと思います。
太宰府市長さんがいち早く物資を送ることを決めてくださったそうです。
国分寺市も、市長同士が親しかったので、その繋がりです。そのおかげで職員がたくさん応援に入ってくださいました。国分寺市の職員の方には、一番大変な家屋解体の受付をしてもらいました。

(聞き手)
 今回の応援自治体へは、多賀城市から応援を求めたのですか。それとも他自治体からの申し出ですか。

(澁谷様)
 応援自治体さんから応援のお話をいただきました。
実を言うと、最初に応援のお話を頂いた時には、宿泊してもらう場所がなかったのです。
最終的に、「学校や文化センター、総合体育館や避難所などで泊まりながら手伝ってもらえるのであれば」と尋ねたところ、「それでもいい」とおっしゃっていただいて、来てくださいました。
 災害対策本部に詰めていた国土交通省の方たちは、大崎市古川にある国の官舎に泊まりながら、毎日、片道一時間半ほどかけて通いながら、手伝ってくださいました。とても良い方たちで、不足しているものを分けてくれたりもしました。

応援職員やボランティアの宿泊場所の確保

(聞き手)
 今後、応援職員を受け入れた場合のお考えをお聞かせください。

(澁谷様)
 東日本大震災のような災害が起きた時、泊まる場所を確保することは無理だと思います。
今後、私達が支援に向かう場合は、泊まる場所は自分で確保しなければいけないと思いました。寝袋を持って行ってお手伝いするような形になるでしょう。
ボランティアの方々は、何を貸してくれと言うわけでもなく、全て持参して、ボランティアをして、黙って帰っていく、それが本当のボランティアなのだと、あるボランティアの方に言われて、そうなのかと思いました。
寝る場所はないですが、それでもボランティアにはお願いして来てもらうべきです。
しかし、当時は申し訳なさと宿泊所不足という考えが先行してしまって、そんな発想はありませんでしたが。

(聞き手)
 ボランティアの方は、どのように過ごされていたのでしょうか。

(澁谷様)
 避難所の手伝いをしてくださったボランティアの方たちは、避難所の方から優しくしてもらったそうですが、職員へは厳しい対応もあったと聞いています。ある程度やむを得ないのでしょう。避難された方や被害に遭われた方からすると、その感情を誰かにぶつけたいのです。
私も電話ではずいぶん言われました。その電話で、明日来てください、話し合いましょうと言って、翌日に来て頂くと、態度もだいぶ変わります。やはり、顔を合わせて話すと変わります。
私は、特に面倒な電話対応を全て引き受けていましたので、直接話し合うこともしました。

効果を発揮した携帯電話の基地中継車

(聞き手)
 一週間ほど電話が通じにくかったと思いますが、携帯電話は使いづらくありませんでしたか。

(澁谷様)
 あの時に、KDDIさんが多賀城市役所に移動基地局を設置してくれまして、携帯電話を20個ほど置いて行ってくださいました。こちらから特に求めたわけでもなく来てくださったのですが、私たちにとってはまさしく渡りに船でした。運転手さんが一人で基地中継車を持ってきてくれました。そこで初めてauの者です、基地局を置かせてくださいと言われて、携帯電話もご自由にお使いくださいと置いて行ってくれました。

(聞き手)
中継車はどの程度の期間、置かれていたのですか。

(澁谷様)
 1か月前後だったと思います。携帯電話をかけ放題で使えたのはありがたかったです。当時、自分の携帯電話の通話料は月に7万円ほどかかっていました。携帯電話にはソフトバンクの一部以外、減免措置がありませんでしたから。

(聞き手)
それだけ電話を頻繁に使われたということですか。

(澁谷様)
 連絡と言えば電話ですし、携帯電話が結構通じるようになっていたのでそうなりました。KDDIさんが来られてからは、その携帯電話の番号をできるだけ教えるようにしました。

(聞き手)
 その後、市役所で、公用の携帯電話を用意したのですか。

(澁谷様)
 震災後、衛星携帯電話を用意しました。衛星回線なので、震災時にも使えるようになっています。月に1回、そのための訓練も実施しています。また、災害用として、一般的な携帯電話を何台か購入しました。

今後の課題は職員が責任を持って行動できる環境づくり

(聞き手)
 震災時に送付された物資や、その仕分けの状況について、教えてください。

(澁谷様)
 生ものの肉や冷凍の魚を使ってくれと言って送ってくださった方もいるのですが、水が出ませんでしたから調理できませんでした。
電気も来なかったので、冷蔵庫の食材は全て駄目になってしまいます。どうせ駄目にしてしまうなら役所に使ってもらおうという気持ちはありがたかったのですが、炊き出しに使ってほしいと言われてもできませんでした。せっかく送ったのに使ってもらえなかったというようなお話を聞きますが、使いたくても使えなかったというのが実情でした。
 それと、当時はカップ麺もたくさん送られてきました。
ですが、水がなくてお湯も沸かせない状況でした。カセットコンロなども送られてきましたが、それらは避難所に優先して回すようにしました。小高い山のように積み上げられるほどの物資が送られてきました。そこで、東北学院大学工学部にも救援物資をお渡ししました。
多賀城市の救援物資だからもらえませんと言われましたが、工学部に避難された方たちのために使ってくださいと言って、お渡ししました。

(聞き手)
 震災という究極の状態で様々な対応をして、許容範囲を超えるほどの仕事をこなして、震災前より業務の効率が上がったり行動が違ってきたりというようなことはありますか。

(澁谷様)
 発災当初は、職員がみんな自覚を持って色々なことをどんどんしました。その発想はとても良いものだと思います。つまり知識ではなく、知恵を出した部分が良かったのだと思います。震災がある程度落ち着いた現在では、自己啓発の研修や、全員が責任を持って行動できるような職場環境づくりの研修がさらに必要になると思います。