防災・減災への指針 一人一話

2013年10月02日
災害時における総務部門の役割
多賀城市役所 総務部総務課
柴田 光起さん

引き継いだ記録に従って対応

(聞き手)
 これまで、他の災害を経験した事はございますか。また、その際の経験はどのように活かされましたか。

(柴田様)
 他の災害の経験がどのように活かされたかという事なのですが、震災の1年ほど前にあった2010年のチリ津波の時に、避難された方や出勤した職員への食事の手配対応を私がいた係で行いました。その時の記録が残っていたので、地震があったらそうした事をしなければいけないという意識を持っていました。食糧協定を結んでいる店舗が市内のどこにあるのか、どのような書類のやり取りをしていたのか、どう手配するのかといったことはある程度頭に入っていたので、一年前の経験がある程度活かされたとは思っていますが、今回は規模が全く違うので、その場その場で対応せざるを得なかったと思います。

(聞き手)
 その教訓をマニュアル化したものは無いのですか。

(柴田様)
 マニュアル化されてあったものに基づいて行動しました。もし災害が発生した時にはこう動くという事は、今のポジションに移った段階で前任者の方から引き継ぎがあり、頭に入っていました。ですが実際にはマニュアル通りだけでは対応しきれなかった事の方が多かったように思っています。例えば、協定を結んでいるお店とのやり取りです。協定上は、要請用紙に品目と個数を書き込んでFAXで送る事になっており、チリ津波の時には避難者の方の人数、出勤していた消防団や職員の方の人数を把握した上で用紙をFAXで送り、それに基づいて食糧を提供してもらったようでした。
 ですが震災の時は、電気が使えずその方法が使えませんでしたので、実際にお店まで足を運び、書類のやり取りは後回しにしたりもしました。店舗によっては後日の書類もいらないので、食糧を持っていっていいとおっしゃって頂いたなど、対応が違う事もありました。

(聞き手)
 発災直後には、どちらにいらっしゃったのでしょうか。

(柴田様)
 発災直後には、総務部長室で打ち合わせをしていました。地震が起きて、書類をそのままにしておく訳にもいかないので、とにかく書類をかき集めて、その場で揺れが収まるのを待ちました。その時も食糧担当の庶務班をしていたので、食糧供給の役割担当の責任者として、すぐに動かないといけないと思いました。津波について、当時はよくわかっていませんでしたが、避難所が開設されるだろうと思いました。電気も落ちてしまって、避難所開設の時にどういう対応をしなければいけないのかと、書類を確認しました。規模がとてつもなく大きかったので、食糧を集められるだけ集めていました。
 食糧の供給はまず市民の方を優先的に配布して、その上で職員の分もある程度は確保してありました。マニュアルの上では、職員は地震があった場合には3日分の水と食糧を持って、避難所などに赴くようになっています。ですが、それに備えて備蓄などをしていた職員は恐らくごく僅かだったと思いますので、備えはあまり出来ていませんでした。
市民の方々への食糧供給ですが、最初の何日間かは1日1食ずつの配布でしたが、徐々に2食、3食と増やす事が出来ました。ただ、在宅の状態で被災された方や自宅避難者の方への食糧物資の供給は、うまくいかなかった事だったので反省しています。今後の防災計画の見直しも進んでいますが、具体的にどのように対応するのがベストなのかはまだ見いだせていません。

(聞き手)
 震災直後の行動は、ご自分では冷静に行動出来たと思いますか。それとも、パニックに陥ったところもありましたか。

(柴田様)
 自分では冷静に、やるべき事をしたつもりでしたが、振り返ると、出来ていたかは疑問です。例えば、物資が沢山集まってきた時に仕分けが大変でした。私が倉庫に行って指示を出していたのですが、その間にも支援のお申し出があったり、どこに何が足りないと言われたりとてんてこ舞いで、私が仕分け現場にいては仕事が回らないと上司に言われ、そこで初めて、自分は自席にいなければいけないのだという事を意識しました。最初からそのように、自分の役割をもっと冷静に認識していれば良かったと思います。

(聞き手)
もしも次に同じような規模の災害が起きたら、冷静にご自分の役割が出来そうですか。

(柴田様)
 もし同じような災害が来たら、冷静に行動出来ると思います。あの時の経験を活かして、席に残って連絡を受けて指示する、繋ぐ役割を果たしたいと思っています。当時も、もう少し俯瞰した視点で見る事が出来たら良かったと思います。とにかく一生懸命、がむしゃらに動いていたので、全体を見る視点がありませんでした。そこは反省点です。

在宅避難者への食糧配給手段

(聞き手)
 在宅避難者の方に食糧が配られなかった事の原因や問題点に関する見解をお聞かせください。

(柴田様)
 配るだけの量が無かった事と、配る手立てが不足していた事が原因でした。一度、区長さんを通じて各消防団の分を団の詰所に物資を運び、在宅避難者の方にそこまで取りに来てもらうというやり方を試みました。ですが、震災からまだ一週間ほどで、区長さんご自身も被災され、そんな余裕はなかったのです。そのやり方が駄目になった時に手詰まりになってしまって、それ以上先に進む事が出来ませんでした。
どうしても困っていた方に関しては、避難所に行って貰ってもらうようにお願いしました。また、市の民生委員を通じてお渡しする事はありました。民生委員の方から連絡があって、在宅避難者で困っている方がいて、対応出来ないから食糧を配送してくれと頼まれて、申し出があった地区については民生委員を窓口としてお配りしました。逆に、そういうふうに動いてくださる方がいないと対応したくとも出来なかったのが実情です。

(聞き手)
 食糧配給を手伝ってくれる方がいれば、在宅避難者で困っている方にも配給出来る仕組みをうまく作れたという事ですか。

(柴田様)
 そうなります。地域の中の状況を把握し、買い物にも出られないような、孤立している方の所在を把握してくださっている地域の方がいると、それで初めて成り立つように思います。要援護者の名簿を作るなどの整備も必要でしょう。

(聞き手)
 発災当時の対応でうまくいった事とうまくいかなかった事、大変だった事、それと防災計画や防災マニュアルの活かされ方をお伺いします。また、今後の防災対策における問題や課題などもお聞かせください。

(柴田様)
 防災マニュアルの上では、私のいる庶務班が食糧支援の担当部署になっています。物資支援については福祉班が担当しています。しかし福祉部門の職員は被災者相談などに手一杯でしたし、支援してくださる方々のお申し出も、物資と食糧とで分けて連絡が来る訳でもありませんでした。そこでマニュアルとは違いましたが、私の所で食糧と物資、両方のお申し出を受けていました。マニュアルには従っていませんが、そこはうまく回ったところだと思います。各自治体からの人的支援の受付も、人事担当の私の所で行いましたが、それも何とかうまくさばく事が出来ました。ボランティアのお申し出も当初は私が受け付けていましたが、多賀城は比較的早い段階で社会福祉協議会の方がボランティアセンターを立ち上げてくださって、炊き出しなどのお申し出はそちらでさばいて頂きました。これも良かった事の一つだと思います。
 後は避難生活が長くなるにつれての問題がありました。通常業務が始まるにつれ、本来業務である総務課人事係の仕事量も増え、その中で、避難所の方々の食糧手配などを続けなければならず、負担を感じていました。最終的に避難所や仮設住宅、物資支援は福祉部門に引き渡しましたが、そもそもの役割分担というものを見直すべきたと思いました。今後は社会福祉課が主な担当だと思います。ただ社会福祉課、福祉部門の担当職員だけではその仕事をこなす事が出来ません。初期対応として、他の部門の職員との協力体制や、一人の職員が二つ以上のミッションを持って行動するといった事をマニュアルの中で位置付ければ、よりスムーズに対応する事が出来るのではないかと、今後の見直しで提案した方が良いと思っています。

(聞き手)
 食糧支援という本来の担当を超えて業務を請け負う、その調整の判断をなさったのは、どのタイミングでしたか。

(柴田様)
 こちらからやりますと言って、本部に了承してもらってそのような形になりました。引き受ける事自体はオーバーワークになりますが、それを考えてもこの方法は効率が良かったのです。

ストックとロジスティックスの機能強化

(聞き手)
 ここを改善すればもっと早く対応が出来たというような点はありましたか。

(柴田様)
 物資や食糧などの、支援して頂いたものをストック出来る倉庫が最初からあると良かったと思いました。ストックする場所に特に苦労しました。今では公用車やバスが置かれている場所を使いましたが、それでも足りず、県に掛け合って、県の車庫を使わせてもらったり、庁舎前にテントを立てて、そこに物資を格納したりもしました。もうそれ以上保管しきれない状況でしたので、お断りしたケースもありました。
 また、後から聞いたところでは、各避難所の中では物資がうまく回っていなかったという話もありました。
そうした事を受けて、復興計画の津波復興拠点整備事業の中で、ストックとロジスティックスの機能を持たせる計画になっています。今回の配送という部分に関しては、多賀城市建設災害防止協議会の方々に初期対応として避難所への配送をお願いしましたし、ある程度時間が経ってからは、ヤマト運輸多賀城支店さんと協定を結んで配送して頂く事も出来ましたので、これに加え、ストック機能の強化が図られれば、何とか出来ると思います。

(聞き手)
 今回、多賀城では指定避難所以外に避難所は出来ましたか。出来たのであれば、これからも災害によってはまた出来ると思いますが、それらの想定はされていましたか。

(柴田様)
 新しい避難所は出来ました。想定はしていませんでしたが、大規模災害時指定収容避難所だけでは対応出来ないだろうとは考えていましたので、そこに避難されている方々の把握が出来れば、そこにも届ける事が出来ます。

支援受入れ体制のマニュアル化

(聞き手)
 多賀城市の復旧復興に向けてのお考えをお聞かせください。

(柴田様)
 もし同じような規模の災害がまた起きれば、物資支援にしても食糧にしても、全国各地から支援を頂かなければ、生命を維持していく事が出来ません。支援を受けた時、それを受けられる体制を整えておく必要があると思います。どの時期にどの支援が必要なのか、教訓を活かして備える必要があります。当時は、他自治体から職員派遣を申し出てもらっても、支援をどう受けたらいいのかわかりませんでした。物資支援に関しても、避難所からこれが必要だと言われて初めて、それが必要なのかとわかるのです。それも時期ごとに違ってくるので、そうした支援の受け方や受け入れ体制をマニュアル化しておけば、同じような状況でも、よりうまく対応していけると思っています。

(聞き手)
 時間とともに必要な物資の内容が推移するというお話でしたが、それは市全体で同じように変化するのですか、それとも避難所ごとに違うのですか。また、この時期にこれが支援されると良いというのは、時間軸と内容とをマニュアルに載せる事が出来るのですか。

(柴田様)
 物資の内容は、市全体でだいたい同じだったように思います。マニュアルの件は、どこかの自治体で既にそういう取り組みをされている所があると思います。先進事例を参考に、整備出来ればいいと思います。
 その際に考慮すべき事としてですが、だんだんと高齢化が進んできているので、今回の教訓を基に準備をしても、人口の構成年齢の変化とともに、用意するべきものが変化するのも含めて考えなければいけない事です。

(聞き手)
 応援自治体から人員を受け入れるというのは、本当に大変だったと思うのですが、実際はいかがでしたか。

(柴田様)
 応援に行きますと言われても、どこの部署に何人必要なのかが全くわかりませんでした。先遣隊として入ってきてくださった友好都市の奈良市の方は、色々と避難所等を見て歩いて、こういう支援が必要だと独自に判断して奈良市に連絡し、それを基にした支援を送りますと言われました。そこで初めて、来てくださってありがとうございますと言える状況でした。もし南海トラフなどの災害が起きた時は、まず自分たちの食糧と連絡手段を持たせた先遣隊を派遣して、そこの自治体にどのような支援が必要なのか把握した上で、すぐに送り込む体制を取る計画にしています。先日も国分寺市の防災訓練に参加して、模擬演習をするなど、少しずつ行動を取り始めています。

(聞き手)
 応援自治体職員の方は沢山来られましたが、皆さんとのコミュニケーションや、最初に業務などを教えるのは大変ではありませんでしたか。

(柴田様)
 実際に私が立ち会った訳ではないのですが、大変だったと聞いています。最初は来てもらっても、指示する側は何をどう指示すればいいのか思い描けなかったのだと思います。来て頂いた方に、やることを見つけてもらって、それをして頂いたような状態だったのでしょう。

(聞き手)
 だいぶ落ち着いた時期にも、まだ応援自治体の方が沢山来られましたが、その時に何人受け入れるという判断はどのように下されるのですか。

(柴田様)
当時は、避難所運営、被災者相談、被災家屋調査などの業務に加えて、通常業務もあり、多賀城市の職員はずっと働き詰めだったので、休みも取らせないといけませんでした。罹災証明発行や被災状況調査など、被災に伴って仕事量が増している業務を中心に増員し、職員が休みを取らせてもらうという流れで支援に入って頂きました。災害対策本部会議の中で、ここの部分が足りないというような意見が出るので、それに基づいて、支援を頂く人数をカウントして、全国市長会のホームページを通じてリクエストをかけて、各自治体に来て頂きました。

職員のメンタルヘルスケア問題

(聞き手)
 職員の方のオーバーワークや、メンタルヘルスで取り組まれた事を教えてください。

(柴田様)
 被災に伴う繁忙部署でメンタルヘルスを崩した職員がいました。繁忙部署からの発生でしたので、もっと早くに支援を入れられたら良かったという思いがあります。その後は嘱託医の先生に監修して頂き、ストレス評価アンケートというものを実施しました。発災後の平成23年6月から始めて、年に2回実施します。そのアンケートを基に、ストレスリスクが高い職員に面談を行います。面談の際に、どうしてこんな忙しい時に面談を受けないといけないのかとも言われますが、嘱託医の先生や産業保健スタッフの方に面談して頂くと、職員もちょっとほっとしているように見えます。それをこの2年間続けていますが、阪神淡路大震災の教訓でも、3年後頃からふっと心が切れてしまう方もいると聞いたので、今後もこれは継続しないといけないと思っています。

(聞き手)
 退職された職員の方の支援もあったようですね。

(柴田様)
職員OB会の方が呼び掛けて、ボランティアとして支援して頂きました。退職された方は内部事情もよくわかっておられる方が多いので、助けになって、非常にありがたかったです。

(聞き手)
 職員')">多賀城市職員の数は、応援自治体や応援職員の方も含めて、一番多かった時には何人ほどに増えましたか。

(柴田様)
 職員数が元々約450人で、臨時・非常勤の方が90名ほど。そこからさらに100人ほど入っていたように思います。避難所や相談に回って頂いた方も含めて、多い時にはそれくらい来て頂きました。6万人という人口に比して言えば、それくらい多くないと対応が厳しくなってしまいます。

(聞き手)
 そのピークの時期はいつ頃でしたか。

(柴田様)
5月頃だったと思います。大変な時期でしたが、来てくださる方の意識が凄く高かったです。こちらで指示する前に仕事を見つけて、黙々とこなして頂いたり、あるいは交代する職員同士で、引き継ぎなどもしてくださったりしました。他にも宿舎関係では、皆さんご自分で泊まれる所を探して仙台市内などに泊まったり、早く復旧した市内の宿泊施設を押さえて泊まったりしてくださいました。多賀城や仙台圏は、沿岸部に比べれば早い時期に泊まれる施設が増えたのもありましたが、万が一、泊まる場所を確保しないといけなくなった時のために、市内のホテルの復旧状況を一覧にしたものを準備しておきました。

新規採用者の配置

(聞き手)
 4月に新しく入所される職員の方はどのような対応をしたのですか。

(柴田様)
 既に採用者は決まっていたので、採用前でしたが連絡をして、もし可能であれば支援物資の仕分け作業があるので、来られる人は来てほしいと呼び掛けました。採用前から自主的に来てくれた職員もいました。新人は10人ほどでしたが、平常時であれば実施している新人研修もせずに、全員総務課付けで配置し、物資など運ばれてきたものをさばく仕事や、支援の申し出の電話を受け付けて記録する仕事を行わせました。事務系の職員は、そういった事を中心に2カ月行ってから、6月1日付で、各部署へ人事異動させました。

各職員による個人用の備蓄

(聞き手)
 今回の震災の経験から、後世に伝えたい事や教訓はございますか。

(柴田様)
 自分のための物は自分で用意しておこうと、常に周囲の職員に言っています。職場にいて地震が起きて、すぐに避難所に向かわないといけない場合は職場に備え付けておかないといけません。夜中で自宅にいても、そこからすぐに避難所に行かなければいけないのであれば自宅に備えておかないといけません。市民の方にも広報を通じて、食糧は3日から1週間分を用意しましょうと呼び掛けています。職員も当面の自分の食糧を用意しておくべきです。東日本大震災以前は、水害や台風の対応などで出勤してきた職員に対して夕飯を支給していたのですが、これからは自分で確保しないといけないという事で、支給を止めました。自分で用意しておこうという教訓にしたいからです。
 教訓としては、訓練の大切さです。新聞報道などでもありましたが、訓練をしていた介護施設などは被害が無かったそうです。どうしてそんなに訓練ばかりしているのかと笑われた事もあったといいますが、結果的にそれが役に立っていたのです。災害部門に異動した、交友のある他の自治体職員ともやはり訓練は大切だと話していました。

(聞き手)
 個人用の備蓄はどのような物を用意されているのですか。

(柴田様)
 カロリーメイトや、お湯が使えるかはわかりませんが、カップラーメンなどを自分のロッカーに用意してあります。量はだいたい3日分くらいです。1日1食食べられるならいい、という程度の物です。
 特に組織として斡旋している訳ではなく、個人の取り組みで、皆なでやろうと言っている最中です。ただ、大規模な地震があった場合などは持ち出しも難しいと思いますし、そこで自分だけ持ってきたとしても、食べづらいところはあります。しかし、仕事をするためにはパワーを付けないといけませんし、そのために食べなくてはいけませんから、ここが課題だと思っています。

(聞き手)
 ここで寝泊りしていた方もいたと思いますが、毛布などを個人で備蓄しておくような事はしていますか。

(柴田様)
 していません。ですが今回の教訓から、寝袋をロッカーに入れている職員も見かけられるようになりました。私もその一人です。避難者の方と同じ毛布を使うのも問題になりかねません。

(聞き手)
 その他、今後の備えとして大切な事はありますか。

(柴田様)
 支援を受ける力を高めるために、日頃の関係性が大切だと感じています。阪神淡路大震災や中越地震の時も、多賀城から職員を短期派遣した事はありましたが、継続的な支援をした事はありませんでした。今は、支援を頂いた自治体は親戚のようなものだと思っているので、「あそこの自治体の方が困っているなら行かないと」と思える相手が沢山出来ました。

(聞き手)
友好都市に対しての人材交流は行われていますか。

(柴田様)
 太宰府市へ、交流とまではいきませんでしたが、3人の職員を2週間ほど行かせて、先進的な事例を勉強してくるという試みを、震災前に行いました。それが第一号で、他の都市とも行えたらいいと話しています。やはり、日頃の付き合いが大事なのです。
 また、仙台都市圏では館懇談会という会をつくった自治体と防災協定を結んでいます。沿岸部の自治体はほとんどが被災したので、あまり意味は無いのではないかと言う人もいるかもしれません。ですが実は、協定に基づいて、富谷町が町内のパン工場さんから賞味期限切れ間際のパンを分けてもらって、届けてくれた事があるのです。民間との協定に関しても、今までは配送センターなどはどこの自治体や企業でも1か所に集中させていたと思いますが、食糧工場を内陸に移転させるという事が考えられるので、協定に基づく支援はよりスムーズに行えると思います。当時は店舗にあるものを、店長さんの判断で頂いたり、中には、請求はいいから持っていってくれと仰ってくださった所もあったりしました。大型店で最初に支援してくださったのはイオンさんで、仙台市内の被災していない所に支援本部を立ち上げて、FAXも電話も使えない中、毎日来てくださいました。そこでおにぎりを2万個、カロリーメイトを1万個というふうに紙に書いてお渡しして、それをイオンさんが手配して、中部地方や名古屋などで作った食糧を、あらゆるルートを使って持ってきてくれました。後でまとめて支払う事になっていましたが、実は最終的に、それらは全てイオンさんが負担してくださいました。本当にありがたく思いました。

情報発信力と速度の大切さ

(聞き手)
 今回の震災で防災協定は増えましたか。

(柴田様)
 協定を結ぶ事は有効だと思いますが、全国的な規模で災害が起きた時には、最初にどこを優先させるべきかという疑問はあります。
 ただ、防災部門では意識して、今回の宮城県沖地震とは連動しない場所と協定を結ぶようにしていると聞きました。
 また、情報発信力と、その速度が大切だとも思いました。全国市長会のホームページで、短期支援の情報に関する掲示板を立ち上げてくれる事になった時、最初にそこに載せて頂きました。ですから皆さんそこで見て、まったくご縁の無かった所からも短期派遣に来て頂いたりしました。多賀城市は短期派遣が比較的多く、様々な自治体から来て頂きました。情報発信力とそのスピードの大切さを感じました。

(聞き手)
 情報発信すら出来ない、甚大な被害を被っている場合を想定しなければならないと思いますが、何か考えはありますか。

(柴田様)
 仮に多賀城に直下型地震が来て情報発信すら出来ない時には、協定を結んでいる所から、先遣隊に足で来て頂くしかありません。あるいは、多賀城市と協定を結んでいる自治体さんがそういった状態に陥ったとしたら、リクエストが来ないからというのではなく、とにかく職員が一度向かって状況を把握して、帰って来たら向こうがリクエストしなくても送り込もうと思っています。もし、仮に、太宰府市さんで災害が起き、まず先遣隊として行って来いと言われたら、行きたいと思っています。