(聞き手)
東日本大震災以前に、他の災害を経験した事はございますか。
(菅野様)
元々私は、塩竈で生まれ育ったものですから、1960年(昭和35年)のチリ地震津波は幼少の頃のうろ覚えですが、街の中に船が乗り上がった光景を何となく子ども心に記憶しています。
また、私は多賀城市役所に奉職してから30数年経っていますが、たびたび多賀城は水害で被害に遭っていますので、やはり水害に対する考え方には人一倍関心を持っています。
(聞き手)
震災当時の動きについてお聞きします。
(菅野様)
3・11は平日でしたので、執務をしていました。私は災害対策本部員ですから、地震があってからすぐに災害対策本部に詰めました。災害直後の本部では、市内各所に現地班と呼ばれる職員をそれぞれ配備して、地震の広報をしたり被害の状況を把握したりするような、そういった指示を出しておりました。
(聞き手)
発災後の対応などをお聞かせください。
(菅野様)
震災の発災直後ですけれども、その時私は執務室におりました。私が普段執務している所は、市長公室という部署で、役所の建物の中でも一番震度を感じる場所です。普段歩いていても床がきしみますから、普段から揺れているような所で、かなり大きな揺れを感じた事になります。それから長時間に渡っての振動が続きましたので、通常ですと外に逃げ出さなくてはいけないのですが、中におりました。地震が収まってから、これはただごとではないという事で、私自身は、災害対策本部の本部員ですので、本部にすぐに駆け付けました。実は市長公室というのは震災マニュアルから判断すると、初動体制の時の役割がありません。市長公室という組織の役割というのは、どちらかというと復興計画であったり、復興に対する予算の配分であったり、それから来客対応や、市長の秘書的な部分も兼ねています。財政部門も持っている所ですから、どちらかというと震災直後ではなくて少し間を置いて落ち着いたところで、「さあ、今後どう立て直しをしていこうか」というところからの役割分担になっているのです。
(聞き手)
初動体制の役割がないという事ですが、その中でも少しでも人手が欲しいような状況もあったかと思います。その辺りのご対応はどうされましたか。
(菅野様)
市長公室は、今申し上げた通り初動の段階での役割はないのですが、市長公室の職員の半数以上は現地職員に割り当てられていますので、大半の職員はそれぞれ現地の方に出て行きました。残っていた職員は私と情報連絡員、あと残りは市長公室の部屋で待機をして指示を待っている職員5人でした。彼らについては部屋に待機させました。そのような中で、色々な支援物資や食糧調達などの業務が急務となり、相当の人手も必要とされるようになりました。それらの業務は総務課の業務だったのですが、人員不足だったので、待機していた市長公室の職員すべてを総務課へ付けました。総務課の手伝いをするようにという指示を出して、市長公室に残ったのは、私とその情報連絡員とそれから秘書担当の補佐だけです。秘書担当の補佐は市長に随行する形になりますので、市長公室の私の手助けになる職員は情報連絡員1人だけの体制で、発災直後の数日間は動いていました。
3月11日の段階では役所も停電になりました。ただ、役所は自家発電装置があるので全館が停電にはなりませんでしたけれども、その段階でテレビなどが全部いったん見られない状態になりました。外部の情報が取れるようになったのが数十分後。地震があっても、津波が来るという予想はその段階ではしていませんでした。また、外に出た職員たちからの連絡も、正確な連絡がなかなか入りづらい状態で、発災後しばらくは、市内が地震でどういう被害があったのか、その段階ではきちんと把握出来ていませんでした。そして、職員の携帯のテレビ画像で名取市の海岸に津波が押し寄せている画像を見て、その時初めて、大津波が沿岸部に押し寄せている事を知りました。ただ、停電になったので交通渋滞がかなり起こっているだろうと予測はしたものの、本部としては交通渋滞をどう解消するのかという具体的な手立ては何も講じられませんでした。市内で今、どういう事態になっているのか、正確な情報が手に入りませんでした。
午後4時以降に、多賀城市内で大きな津波被害があったという事を知りました。ただ、人が亡くなるほどの津波被害だという認識は、その段階ではしていませんでした。そして、夜になってからJXで火災が起こりました。6階から仙台市蒲生地区や七ヶ浜町方面で火災が起こっているのは見えましたが、それが正確にどこでどういう規模の火災なのかというのはわかりませんでした。3月11日時点の消防、警察等の関係機関を交えた市災害対策本部会議の中でも、市内各所で津波被害による救助要請している人がかなり出ているという情報が出され、自衛隊や消防団等が救助活動に当たっているという情報はあったものの、どの程度の被害状況なのかは、その段階では把握が困難でした。その日の夜は、この近辺で電気が点いているのは多賀城市役所と文化センターだけという状況で、どんどん被災者が市役所に避難してこられました。市役所内はとんでもない状況になっていましたが、とにかく開放し、避難した方をどんどん受け入れました。また、避難所も色々開設しているものの、その段階ではどれくらい避難している人がいるかわからない状況でした。マニュアルでは避難した方たちの名簿を作る事になっていますが、名簿を作れるような状態でもありませんでしたし、物資や水などが事足りるのか、そういったところもまだ全然その段階ではわからなかったというのが、3月11日から12日未明にかけての動きでした。次の日、3月12日の早朝、外に出てみると、多賀城駅を過ぎた多賀城郵便局辺りが、泥でぬるぬるしていました。その先にコンビニがあるのですが、そこはもう水浸しになり、車が何台にも重なっていた状態で「ここまで津波が来たという事は大変な事だ」と認識しました。その現場を目の当たりにして、とんでもない事態になっているというのを初めて認識しました。そしてその時に、東の空を見ると、JXの火災で黒い煙がもくもくと上がっている光景が広がっていました。
災害対策本部に戻って被害の状況などの把握を始めようとしましたが、断片的な情報しか入ってきていません。その時の本部会議では、警察や消防から、ずいぶん死者が出ていて、今その遺体を収容している事、「72時間の壁」があるので、生存者の確保を第一にして、まずは助けを求めている人たちを救助する事を第一に行う事が確認されました。
役所の中では携帯電話の充電コーナーを設けていましたが、いつも長蛇の列が続いていました。そういう状況で、何時間かごとに本部会議を開きながら情報の共有化を図り、どう対応するかという事を話し合っていました。ですから2~3日くらい、あるいは4~5日くらいはそういう状態でした。備蓄品もほとんど無く、3月11日の時点で1万2000人くらいが避難所にいました。市の備蓄品はすべて放出しました。私たち職員の方は多分2日くらい食べなかったのではないでしょうか。とにかく避難所を優先して、水と食糧は備蓄したものをすべて避難所に提供しました。そうこうしているうちに、多賀城市の友好都市である天童市から、3月15日に、おにぎり数千個を届けていただきました。それから19日まで毎日1万食のパンを届けていただけるという事で、非常にありがたく感じました。その日になってから初めて、名古屋や関東以西のイオンさんなどからおにぎり1万個がようやく届く目処が付ました。そのおにぎりの配給を受けながら避難所の方に配り始めたのが15日だったと記憶しています。さらに、多くの自治体からの応援が駆け付けてきました。各市の消防関係、各県の警察関係、自衛隊、韓国のチームなど様々な応援チームが多賀城に入ってきて、遺体捜索や救助活動が始まりました。現地班の職員は、もうずっと避難所に行きっぱなしで何日も役所に帰ってこられない状態が続いていましたので、本部としては職員の健康状態を大変心配していました。そこで、保育士さんなどの方々も交代要員として何人か交代して、一度、市役所に戻ってもらうという事をしていました
一方、市民との関わりはどうだったのかというと、市民はもうパニック状態で、最初の2~3日はまず自分の身を守る事、そして食料品を何とかしてくれという事でした。とにかく、物資を掛き集めて避難所には送ったものの、数的には足りなかったというのが最初の2~3日の頃の話です。
工場地帯の被災企業の方々も、数日後から、工場の後片付けなどをしなければならないという事になりました。それぞれの各企業のOBの方やボランティアの方々によって、工場地帯の整理などが始まりました。その時に「長靴や軍手といったものがないので、何とかしてくれないのか」という要請があり、各地からの支援物資を活用してその要請に答えました。
一番大きかったのがガソリンの問題でした。あの当時、もうガソリンスタンドがほとんど閉鎖になっていて、多賀城市内でガソリンスタンドを開けていたのは、下馬の体育館の向かい側にある気仙沼商会1軒だけでした。そこは指定給油所として、緊急車両、消防車、パトカーや市の公用車などに限り、一般車両は全部シャットアウトしました。
(聞き手)
具体的に、ガソリンの対応はどのようにしましたか。
(菅野様)
まず、指定車両などの許可証を出しました。それから、その気仙沼商会のガソリンや軽油はどの程度残っていて、明日も給油は大丈夫なのか毎日確認しました。「明日は大丈夫だ」とか、「明日の供給は厳しいので、気仙沼商会の利府の店舗に行くように」とかの情報統括を私がしていました。このような中、「身内が遺体で確認されたので遺体を引き取りに行く」あるいは「確認に行きたいのでガソリンを出してくれ」とか、そのような市民の方々が沢山来庁されましたが、全てに対応する事は困難でした。そのため色々言われ、辛くもありました。
(聞き手)
指定車両の許可証は、庁内で発行されたのですか。
(菅野様)
庁内で発行していました。そのような中、どこからか多賀城市で許可証を発行しているという事を聞いたのか、塩釜市民や七ヶ浜町民も来始めてしまい、長蛇の列になってしまいました。許可証の発行は、瓦礫の撤去等関係者や人工透析を行っているなど、人命に関わるような場合に限っていましたが、沢山の方々がそれぞれの事情のもとで許可証を求めるので、許可証の発行をしていた職員たちは本当に大変だったと思います。ガソリンの問題で、そのような事が1カ月弱は続きました。
今思い返すと、発災から3~4日間は、市民の方は、自分の身内の安否確認や自分の身を守る事に動きました。それから食べる物、飲み物、そういったものに皆な集中して、ガソリンまではまだあまり思い至っていなかったと思います。その段階では、まだガソリンも多分あったと思います。
そういった事もあり、ガソリンというのは本当に大きな問題でした。ガソリンスタンドはほとんど閉まっていたので、市の公用車や救急車などは、燃料をきちんと行政側で押さえないと動かなくなったら大変ですし、その辺の兼ね合いはとても難しいと思いました。
(聞き手)
ガソリン不足という事は、輸送や移動手段の面でも問題があったのではありませんか。
(菅野様)
1週間後に何が起こったかというと、多賀城市は主に仙台市のベッドタウンなので、一般市民が仙台に通勤するため、仙台に行きたいという需要が生まれます。ですが仙石線は不通、東北本線も不通、ガソリンも無くなったという状態でした。「仙台に通勤するのに役所は何もしてくれないのか、何とかしてくれ」という要望が多く寄せられました。
そのため、バスをチャーターして、それを朝と晩に走らせる事にしました。3月22日から多賀城と仙台の直行便を走らせました。午前中は7時からだいたい15分刻みです。それで多賀城駅前に長蛇の列が出来て、これを聞いた七ヶ浜町や塩竈市の人たちもやはり来る訳です。そして、走らせるとなると今度は運輸局の方の許可を取らなくてはなりません。色々手続きが面倒ではありましたが、こういう非常事態なのでどうにか走らせてくださいとお願いしました。その他、仙台から仙台新港に来ているバスがあったので、多賀城駅の方に振り替えさせてもらいました。乗り遅れた人はこちらに乗って頂くようにしました。
(聞き手)
そのような代替バスの手配などは、それぞれの公共交通セクションが対応する事ではなかったのでしょうか。
(菅野様)
公共交通に関する業務は自治体業務の一つですが、仙石線が不通になった場合、代替バスを出すのはJRで考えなければならない事だと思います。しかし、JRはいつ復旧するのか一切わかりませんし、代替バス運行に関しても情報が入ってきません。そうした場合、市民は市役所を頼ってきます。ですので、私たち市役所職員が問題解決に動かざるを得ませんでした。仙台市と多賀城市を結ぶバスを速やかに運行する事でもだいぶ苦労しました。また、仙台駅でバス停の場所がわからないという意見があったので、東北学院大の学生ボランティアの方にバス停の整理をお願いしました。
(聞き手)
支援受入窓口も総括をされていたとの事ですが、支援受入窓口というのは具体的に言うとどのようなものなのでしょうか。
(菅野様)
当時、支援の受け入れや援助といったものの市役所での窓口が、どこなのかがはっきりしないところが実はありました。食糧を調達して配給するのは総務課の仕事でした。食糧以外での様々な形での自治体から支援も沢山ありましたし、民間レベルでの支援もありました。当時、それらの数多く寄せられる支援に関する窓口が大変混乱していました。そのような中で、比較的自由に動き回れる私が対応したという状況でした。これは、事前に役割として決まっていた訳ではありません。
(聞き手)
ボランティアやNPO各種団体からも多数来たと思いますが、その辺りでご苦労もあったのではないでしょうか。
(菅野様)
私自身、被災の時には、NPOやボランティアは、個人的にはどんどん受け入れるべきだという意見を持っています。
NPOやボランティアの方々が多数来られました。ボランティアの受け入れをするに当たっては、市の社会福祉協議会との調整が必要で、その時間も必要となります。しかしながら、ボランティアやNPOについては、せっかく来てくれるのだから出来るだけスムーズに受け入れてきちんと支援してもらうというのは、特に初期には大事な事だと思います。一方、他市町村からの職員の応援の派遣は、市の方が直接受けます。沢山の自治体の応援のもとで、ようやく避難所への応援体制がとれるようになりました。あの時、愛知県、岐阜県をはじめ、様々な所から来て頂いて、本当に感激しました。それで、避難所に張りついていた職員を何人か引き上げ始めた結果、職員不足で被害調査に十分な体制が取れなかった税務課では被害調査に当る事が出来るようになりました。
私はプライベートで、新潟中越地震の時に1週間、十日町市へボランティアに行った事があります。その経験から、ボランティアというのは、それだけの意志ある人たちが来ているので、そういった人たちをうまく活用する事は必要な事ではないかと常々思っていたところでした。したがって、出来るだけ速やかにそういった方々の協力をうまく得て、かつ自主的に行動出来る管理組織の設立を促し、出来るだけ市の職員のサポートをして頂いて、市の方は行政機関としての機能が出来るようにすべきであると感じています。
(聞き手)
ボランティアの速やかな受け入れ体制が課題とのお話でしたが、最終的にはボランティアの方々も受け入れて、主にどういった所で支援して頂いたのですか。
(菅野様)
NPOの人やボランティアの方々は主に、被害、被災家屋の泥の片付けといった事をしていただきました。それとは別に、避難所の方はどちらかといえば色々な自治体の応援を頂きました。
(聞き手)
当時の対応で上手くいった事や、逆に問題になってしまったことなどはありましたか。
(菅野様)
これまで、豪雨などの災害で市内の一部が水に浸かったというのは何回かあります。しかし、今回のような未曾有の災害で長期間に渡る場合ですと住む場所も無くなります。それから瓦礫の撤去であるとか、一自治体だけでは対応しきれないという災害を、今回私たちは経験しました。その中で強く思った事は、やはり職員だけではとても対応出来ないという事です。やはり市民力というのでしょうか。地域の防災力であるとか、常日頃の自分たちの役割分担であるとか、そういったものをきちんと皆なに認識してもらうという事が一番大きい事なのだろうと思っています。よく、自助、共助、公助と言われている話ですが、まさにそれです。
避難所では、市民の方々が市役所の職員に頼りきってしまった事で、次のステップにとてもマイナスになったのだろうと思っています。やはり初期の段階で、避難された住民の方々で自主管理組織を立ち上げるとか、そういう動きを最初にやるべきだったのでしょう。それは常日頃の訓練や、防災に対する意識付けというのがとても大切なのだろうと思います。そして、NPOやボランティアなどから積極的に協力を得ようという視点もあまりなかったと思います。そういった部分ではNPOやボランティア、あるいは市職員のOBの方々の積極的な受け入れが必要なのだろうと思います。
また、多賀城市内のどこの場所がどういう状態になっているかという情報がなかなか入ってきませんでした。これは、市役所の職員が避難所の運営に行っており、災害現場の見回りをするというような役割が出来なかった事が大きな反省点であると思います。
(聞き手)
それについての、何か対策があればお聞かせください。
(菅野様)
1つ目は、情報をしっかりと伝える手段を持つという事です。行政防災無線は、現在、デジタル放送に切り換えて、停電になろうが、バッテリーを2日分くらいは持つようにしました。まずきちんと情報を正確に伝える事だと思います。
2つ目は、正確な情報の収集です。今までの現地班のトランシーバーは2チャンネルまでしか使えませんでした。何班体制かに分かれているのですが、様々な所から色々な情報が混線してしまって聞こえなかったというのがあります。それを今回デジタル化する事によってチャンネル数も増えるので、それぞれの持ち場から正確な情報が、今後収集可能になってくるだろうという部分で改善していく予定です。
(聞き手)
これからの復旧、復興についてのご意見と、今回の震災を通じて後世に伝えたい事をお聞かせください。
(菅野様)
復旧・復興に関しては、多賀城市の復興計画を作りました。多賀城市の復興計画は現地再建で、多賀城市はフラットな地形なものですから、高台移転という選択ではなく、現地再建をするに当たり、いかに災害を減少させるかを重要課題としました。
まず逃げる事を最優先にしました。まず人命を第一に考えるような街づくりにしていきましょうという事を、今回の私たちの復旧・復興計画にしています。そのために、津波浸水区域に当たっては、避難ビルであるとか、そういうものをきちんと整備していく流れになっています。さらに、今回の津波浸水区域から津波浸水区域外の高台の方に、今のところ道路を2本、避難経路として計画しています。そういったもろもろの手立て、それから防潮堤であるとか、ハード面での手立てはそういった事を行う訳ですが、それだけでは事足りません。やはり、ソフト事業として常日頃の防災意識を、これからも未来永劫「多賀城市がこういう被害に遭ったんだ」という事を子孫に伝えながら、そういう土地に私たちは生活しているのだという意識を持って、避難訓練や防災訓練を定期的に行っていく必要性があるのだろうと思います。その辺りが、多賀城市における復旧・復興に関する考え方という事になると思います。
それから後世に伝えるという部分は、今申し上げた通りで、今回の「たがじょう見聞憶」もその一環です。「多賀城市というのは、今から1100年前に貞観の津波があり、1000年に1度大きな津波に見舞われる可能性がある地域だ」といった事を、どう後世に伝えていくかというのは考えなければいけない事なのだろうと思います。
多賀城市というのは元々、水害に遭いやすい地形にある街なのです。やはり津波や地震だけではなく、ゲリラ豪雨もとても問題視されています。市の方でハードの整備はするものの、天災というのは人知を超えたものですから、そういうものが来る可能性はあるのだという事を常に心に持ちながら、対市民の対応や自分がどう動くべきであるかという事を、常に心掛けてほしいと思います。
また、大きな被害があった時には市の職員だけで対応というのは不可能なので、先ほど申し上げた市民力であったり、それからボランティアだったり、NPOだったり、そういった事との協働でどう対応していくのかという事を想定しながら考えてほしいという事に尽きるのではないかと思います。