防災・減災への指針 一人一話

2013年10月10日
現地班として避難所運営に携わって感じた課題Ⅰ
多賀城市役所 建設部復興建設課(元下馬班現地班長)
熊谷 信太郎さん
多賀城市役所 市立図書館(元笠神班現地班長)
丸山 隆さん
多賀城市役所 保健福祉部国保年金課(伝上山班現地班長)
郷古 潔さん

現地班としての活動内容

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(熊谷様)
震災発生から10日間くらいは、家にも帰らず、家族がどこにいるかも分からない状況で、多賀城市体育館避難所運営をしていました。
避難所で困ることは、トイレの処理です。ニュースには出ませんが阪神淡路大震災の教訓から知っていました。トイレを見たら、やはりひどい状況になっていたので、溜まっている水を上手く使って率先して掃除を行いました。それを1日、2日続けて、その後は皆さんでして下さいというように動機付けをしたというのが印象に残っています。
また、震災直後は誰かリーダーを決めて、指示していただくのがいいと聞いていたので、各フロアでリーダーを決めて作業してもらいました。
一方で、当時の私の担当業務が公共交通だったので、避難所運営の傍ら、所属先である市長公室に戻り、市長から「多賀城仙台間のバスと仙石線が不通なので、多賀城仙台間のバスを3日以内に走らせてほしい」との指示に対して、2日間で多賀城仙台間を走らせることができました。さらに、その後、4月11日に避難所を統廃合するため、もう一度避難所に戻って仕事をしたということがあり、非常に苦労しました。
その際、住民の意識が初期のころと全く変わっていて、自立再建している人はもう自宅に戻ったりしていたのですが、自宅での生活が再建できず困っている人だけが400~500人集まっていました。そこで再び頼まれて、3日間だけという条件で作業していたのですが、結局、社会福祉課の職員が来て代わるまで一週間ほど居ました。

(丸山様)
3月11日は子どもの卒業式の日でした。学校のある笠神で震災に遭い、実家の大代まで戻り、30分後に津波が来るということで高台に避難していたのですが、津波で高台の外周全部を囲まれてしまいました。 4時間半くらい吹雪の中にいて、波が少し引いた頃に、近くにあった建物に移動しました。そこでは100名以上の方が避難されていたため、皆さんのお世話をしていました。
震災当日の夜、精油所が爆発して二次避難が必要になったので、自衛隊多賀城駐屯地に車で搬送されました。
2日間寝ることができないまま、3日目の夕方に、市の避難所である東豊中学校へ着きました。
避難所となった東豊中学校の体育館内は雑然としていて職員も歩けなかったので、卒業式で使用し、そのまま置かれていたたくさんのパイプ椅子で区分けした通路を作り、夜も巡回できるように対応しました。
 中学校には高架水槽があったので、3日目までは水は通常通り出ていましたが、4日目から出なくなりました。
近隣でも既に断水していたので、プールを開放してバケツで水を持って来られるようにしながら、トイレの対応などをしました。
最初、職員で荷物を運んでいたのですが、寝ずに作業をして倒れるのも時間の問題だと思い、A班B班C班等と、避難所の中を4つに区切って担当割を決めて、荷物の搬入や、それぞれの班の取りまとめなども避難所の人達の手伝いを借りて行いました。また、避難所に配布された食糧ということで、職員は気が引けて食べないで動いていたので、避難所の人達を守るのだから遠慮しないで食べるということと、睡眠も4時間から5時間は取れるように枠組みをつくりました。
とにかく睡眠を取らせて、食べさせて、常に職員が元気な状態を保つように努めました。
災害派遣で来た他自治体職員や、学校の先生にも食糧を分けて、食事と睡眠はしっかりとってもらうようにしていました。
冬の災害と夏の災害では食糧の調達にしても保存にしても、まるで違うので、まだ冬でよかったなと思いました。それと、笠神地区の人たちが連日、炊き出しをしてくれたので、温かいものが食べられたというのもよかったと思います。燃料に関しては、自衛隊から支給されていたので助かりました。あれがなかったら冬の寒空の中、体育館でどう過ごしていたのかと思うほど、燃料問題は大きかったと思います。寒くて寝られない日は、夜中になるとストーブの周りに10~20人くらいのご年配の方が集まっていたので、夜の懇談会と称し、暖を取りながら話をしました。被災者同士なので気持ちが共感でき、避難所にいた300人くらいの全員と話をして過ごした1ヶ月間だったという感じです。
 ですが時々、施設内でも喧嘩があって、仲裁に入るこちら側が厳然と対応しないといけないと思う時がありました。携帯電話の充電がしたくて、大勢でコンセントを使うので体育館の電源が落ちるということが3~4回も続きました。
今度、電源が落ちたらつけないということにし、それでも落ちた時があったので、1時間ほどブレーカーを上げず、その後、全部の携帯の充電をやめさせました。そうしないと、被災者だからということで甘えがでてしまいます。
職員側がしっかり統率力を持って厳然とやらないといけないと思いました。
苦しい部分もありましたが、最後は、避難所の皆さんにとても感謝され、皆に挨拶してもらい、清々しく職務を全うすることができました。

(郷古様)
私は発災当時、税務課にいました。あの頃は、たびたび小さな地震が起きていました。3月11日は、はじめの小さな揺れがだんだん大きくなっていくので、頼むからいつものように収まってくれと心で祈っていました。
しかし、揺れがどんどん強くなって、その後、大きな揺れの波が2回3回きた記憶があります。事務室の大きい窓が本当に割れるのではないかというくらいにその揺れとともに大きくたわんでいたのを覚えています。その窓から見える民家の漆喰壁がストンっと落ちるのが見えたので、その時は来ると言われていた宮城県沖地震が来てしまったのだと思いました。そのようなことから、現地班という意識もあったので、命令がなくてもすぐ地下にある更衣室に行って作業服に着替え、現場に行く準備をしていました。ほどなく、現地班としての業務につくよう指示がありました。集合した現地班員とともに公用車等を手配して現地に向った途中の車窓からは、屋根瓦が少し崩れている家屋はあったものの、倒壊しているような家屋は見当たらなかったので、やはり建物は宮城県沖地震に備えて建築基準や耐震補強などの効果があったのではないかと感じました。現地班詰所である市民プールに行って、区域内の被災状況の報告を受けたところでは、ブロック塀の一部が倒れて道路通行に若干支障をきたすようなところが一か所あったということ以外には、家屋の倒壊などの報告はありませんでした。ですので、地震による建物などの被害はそれほど大きくないのでは、とその時は思っていました。停電していたため、テレビもつかない状態だったので、津波の被害というのも全然わからずにいました。その日の夜、プールに避難されてきた方が100人近くいて、その方々から仙台市の荒浜に何百人というご遺体があるという話を聞いて驚きましたが信じられませんでした。
夜になっても停電していたので真っ暗だったのですが、市民プールから仙台火力発電所の方に小さくオレンジ色の明かりが見えました。発電所に電気がついたならこの辺もまもなく電気がくると思ったらその明りが煙とともに大きくなり火事だったことに気付き、大変なことになったと思った記憶があります。
当時このような災害において、一番最初に備えなければならこととして頭をよぎったのがトイレとゴミの問題です。水道も断水していたので水洗のトイレは使えない状態でしたが、プールには水がたくさんあったので、水洗トイレを使ったら必ずプールからバケツに水を汲み上げて用意しておくということで対応できたので、トイレの不自由はありませんでした。ただし、施設の管理者からは、衛生上の問題から、多数の出入りや施設外への持ち出しは控えて欲しいとの指示でした。その日は、小雪がちらつき、とても寒かったので、私は自宅から温風ヒーターと、普通の石油ストーブ、電気ヒーターなど、あるだけの暖房用具を持ってきました。当然、停電の時は使えないものと使えるものがありますが、石油ストーブは24時間、何日間もつけっぱなしにして、避難された方々に少しでも暖をとっていただけてよかったです。
当時、他にも大変だったのが、私たち現地班は、市民プールと、大規模災害時指定収容避難所になった多賀城小学校の両方が担当だったことです。小学校はピーク時で600人くらい、プールには150人くらいの方が避難されていたのですが、現地班の担当は我々10名しかいなかったので、当然、小学校の方に多くシフトをいれて6:4や、場合によっては7:3にしてプールの方は少ない人数で担当していました。私は主にプールの方の担当でしたが、そこではペットの問題がありました。ペットを連れてくる人がいたので、その方たちはみなさんが避難するための場所としていた館内のロビーとは別にして、離れた会議室にペットとともに避難していただいたのですが、やはり目が届かないところでの振る舞いについて、全体との公平性などから対応に悩んだことを記憶しています。プールの方は、実際津波に遭われて来られた住民の方々はそれほど多くはいらっしゃらなかったので、だんだん人数も減って5、6日後には、50人くらいになり、多賀城小学校のほうが避難所としてはメインになってきていました。そこで、我々と災害対策本部で色々と相談し、この際、プールと多賀城小学校を統合させてくださいと申し入れ、許可を得て、プールに避難されていた方々に説明をして小学校に移動していただきました。ただ、プールにいた方々というのがほとんど近隣の地元の方々だったので、実際に小学校へ移動されたのは4人か5人だったと記憶しています。そういった形で現地班員の対応人員を少しでも削減することにより、私は1週間後の17日に税務課に戻り、自転車を借りて17日と18日に津波が来た地域全部と他の市内各所を回って、どういう調査が必要なのかということを把握するために、現地の被災状況の確認をしました。税務課の職員もほぼ全員避難所に行っていたので、動きはとれませんでしたが、なんとか一人、対応できる職員を都合していただき、19日からようやく二人で調査が始まりました。非常時に対応すべき職務が重なった部分もあり、その辺りが大変でした。
1週間から10日ほど経つと、避難所での集団生活にどうしても馴染めない個人の要求が強まってくるのかなと感じましたが、現地班員が適切に運営して、仮設トイレに小学校のプールから水を運ぶ作業を、避難された方が主体的に取り組めるよう率先して働きかけたおかげで、避難所の方々が自主的にトイレの照明設置や掃除をしてくださったことなどにつながり、非常にありがたかったです。それと、当初、市民プールにいた時も、翌日から地元の伝上山地区の皆さんに炊き出しをしていただき、避難された方々にも食糧の配給をして頂いたことはとてもありがたかったです。ただ、市民プールというのが大規模指定収容避難所から見ると少し規模が小さいので、本部からの現地班員に対する食糧の配給はなかなかなく、小学校の現地班員に配給された乾パンを少し分けてもらって、プールに配置された職員はなんとかそれで食べつないだという苦しい時期もありました。

被災者の状況調査の重要性

(聞き手)
避難所生活の中で、活かされた防災計画やマニュアルがありましたら、問題点や今後の課題という部分も合わせてお話しください。

(熊谷様)
避難所に避難された方々に対して、どこでどう被災したのか、ご自宅には戻れないのか、家族構成や連絡先などを対話形式で聞ければよかったと思います。そうすれば、インフラの復旧に伴い自宅に戻れる被災者も分かり、避難所の人数も相当数減ったのではないかと思います。行政職員が声をかけて自立を促す意味でも、被災者の状況確認というのは重要だと思います。

支援への感謝の気持ちを共有することによる一体感の醸成

(丸山様)
避難所ではペットと高齢者対策をしました。初日、大勢の方がペットを連れてきたので、学校に許可を得て一部屋だけ開けていただきました。ペットを飼っている方の部屋を作ることでトラブルやアレルギー、臭いといったものは解決できました。大変だったのは、高齢者の方を、寒さがしのげる東豊中学校の武道館に優先的に移動させるということでした。
それ以外には特になく、ボランティアの方たちや、支援の方が炊き出しをしてくださったりして避難所の人にすごく喜んでもらえました。青森から少年野球チームが、また、福島から老夫婦が救援物資を持ってきてくれたりしました。避難所の皆さんのために沢山の人が来てくれているということを毎晩、夕食後などの人がいる時間にお話しして、感謝の気持ちを持つようにしたおかげで一体感が生まれた気がします。喧嘩というのは1、2回ほどで、皆さん非常に協力的でした。職員がほとんど何もしなくても、清掃やトイレ掃除も全部行い、物資がきた時も自主的に手伝ってくれていました。例えば午前中に物資が来たときはA班、夕食はB班がというように自分たちのことは自分たちでするという意識がありました。

避難所におけるペット管理の問題

(郷古様)
私の担当した避難所での反省点は、ペットの隔離に関してです。動物アレルギーの方もいらっしゃるので、非常時における人命人身優先ということからすれば、できればペットは部屋に入れるべきではなかったとも思います。もし今後そういったことがあるとすれば、人とペットの部屋を区切って、さらに理想を言えば、飼い主の名簿を作るなどして、管理する必要もあったと思います。また、給水関係でも苦労しました。給水車が来る時間になると大勢の方が並びます。パニックや混乱を避けるため、会場整理をしなくてはなりませんでした。給水車が来るまで、寒い中ずっと並んで待っていた方が大勢いらっしゃった一方で、給水のために避難所に滞在していた方もいらっしゃったので、避難所の方とそうでない方を分けるなどして効率を考えるべきだったと思います。
伝上山地区というのは津波被害がなく、3日、4日後には電気が来たので、小学校との統合の際、プールにいた方の9割が自宅などに移動されたのですが、小学校には他の地区からも多くの方が来ていたので規律を保つのが難しい状態でした。そのような中、顔の見える関係というものを大切にすることによって、それが、ある程度統制をとれる働きになったような気がします。

津波被害に対する意識不足

(聞き手)
 これまでの災害の経験で、活かされたことはありますか。

(郷古様)
台風や大雨による水害は局地的なもので、地形や経験からどこが水害になるのかというのはだいたい予測ができ、ある程度の対応は可能です。しかし、一旦、冠水などの被害が発生した場合は、被害が収まるまでは道路を通行止めにするなどの対応を取らざるをえないのですが、今回の東日本大震災は極めて大規模で被災者も多数ですから、これまでの備えやコントロール機能は通用しませんでした。通常の非常配備の体制では対応しきれないことだったと思います。物資も何も全く無いという想定外のことが起きたわけですから、日ごろから想定訓練をして、災害に対する意識付けをしっかりするべきだと思いました。

(聞き手)
頻繁に起こる水害に対して高い意識があったようですが、津波に関してはどうでしょうか。

(郷古様)
確かに、津波による水害に対しての経験がなかったため、津波の意識がなかったのだと思います。大雨や台風による水害はこれまで何度か経験していますが、まさか海水が海から直接多賀城に押し寄せて来るとは思いませんでした。昭和35年のチリ地震津波がありましたが、皆さん昔のことだと感じていると思います。
また、意識としては平成22年のチリ地震の時に大きな津波の警報が出たにもかかわらず、それほど大きな津波が来なかったこともあり、今回も大きな津波はこないという考えがあったようにも思います。震災後、あらためて地図を見ると自分の家と海が直線距離で2キロほどしかないということが初めて分かりました。海が見えなかったことで津波がくるという意識が低かったと思います。

(丸山様)
陸前高田市が壊滅状態になったとラジオで聞いても状況が想像できなかったのですが、10日ほど経ってからようやく全貌が把握できました。それくらい情報が錯綜し伝達網もなかったということです。私は、仙台新港にまもなく津波が到達するという時に逆走していたのですが、まさか桜木まで津波が来るとは思ってもいませんでした。

(郷古様)
三陸や海辺の町では、チリ地震などの経験から、それを想定した訓練も行われていて、津波に対する警戒意識があると思いますが、多賀城ではわれわれの記憶の範囲では、それほど大きな津波はなかったので、あまり認識していませんでした。
私が小さい頃に伯母から、昔、八幡にある末の松山の袂まで津波が来たという言い伝えは聞いてはいましたが、幼心にもこんなところまで津波が来るとは信じられませんでした。いずれ、津波に対する警戒心の認識はほとんどありませんでした。
今回の地震は東北全域に及びましたし、誰も経験したことのないことですので、県や国も混乱していたという部分があったと思います。

基準となるマニュアルと想定外に対応できるような個人や組織の検討

(聞き手)
 これからの復旧、復興についてのご意見と、今回の震災を通じて後世に伝えたい事をお聞かせください。

(熊谷様)
緊急事態になってから急に動き出すのではなく、日常時にきちんと考えておく必要が十分にあると思います。非常時になってから慌ただしく決断したのでは、人によって受ける対応に個人差がでてきてしまうので、しっかりした基準を決めておくべきだと思います。また、職員同士の連絡先の交換が十分になされていなかった部分もあったので、連絡体制を全体的に整えることも重要だと思います。

(丸山様)
もしも今日、お昼に地震がきたらすぐに対応できるのか、教訓が活かされているのかと思います。避難所開設の冒頭から、同じことを繰り返すのではないかと思っています。ですから、防災計画等の見直しを進めていく必要性を感じます。後世に伝える部分では、今回の震災は、東北の冬の災害でしたが、これが南の地方の夏の災害で、体育館に大勢の人がいた場合、どれほどの人が具合を悪くされるのだろうと想像します。全国で様々な角度からこの被災を見ていますが、冬の災害だったということを意識して考えていただきたいと思います。水の問題、食糧の問題が夏だとすべて逆になります。ですから、季節が関係するということを認識して想定していく必要があると思います。

(郷古様)
今回ほど津波災害の膨大な量の映像が記録された災害はないとは思うのですが、口伝えというのが驚くほど頭の中に印象づいているということを改めて感じました。しかし、私の場合、それが先人からの「戒め」としては受け止めてはいませんでした。物資があっても輸送方法が確保できないなど、様々な想定を組み込んで防災計画の見直しなどが行われています。その中で私は、新たなマニュアルの作成とともに、一人ひとりが自分にできることを考え、それをマニュアルに盛り込んでいくことの双方が大切になってくると思います。マニュアルというのは全て想定された上での対処ですが、そのマニュアルに縛られて、想定に反することが起きて役に立たなかったということでは意味がありません。そういった、マニュアルが機能しない場合に求められるのが、臨機応変に対応できる個人のイマジネーションと、判断力、そして行動力だと思います。マニュアルも大事ですが、自分がだれのためにどうしなければいけないのかという部分も考えなければ、マニュアルも活かされないと思います。要するに一人で判断する、しなければならない部分を考慮しつつ、必要最低限のステップは明示しておくということも必要ではないかと思うのです。今後、いつ災害が起きるかは分かりませんが、今回の教訓を活かして、組織の体制と機能の見直しを考えながら役立たせていこうと思います。
また、足腰が弱い高齢の方や車椅子の方は洋式トイレがないと困りますので、避難所にはこちらも用意できたらいいと思いました。

(聞き手)
最後に何かあればお話し下さい。

(丸山様)
 避難所に子どもたち向けの図書やぬいぐるみを段ボールで持ってきた職員がいました。子どもたちがそこから本を借り始めて、とても助かりました。大人にはそういう目線がないので、子ども目線の対応には助けられました。災害時の図書の影響力の強さを知りました。