防災・減災への指針 一人一話

2013年10月10日
現地班として避難所運営に携わって感じた課題
多賀城市役所 市民経済部市民課 (当時:新田中班現地班長)
菊田 忠雄さん
多賀城市役所 市民経済部収納課 (高崎班小班長)
高木 豊さん
多賀城市役所 (当時:浮島班現地班長)
遠藤 誠さん

現地班としての活動内容

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(菊田様)
私は現在、市民経済部市民課におりますが、発災当時は市民経済部商工観光課に所属していました。発災直後は、4階の商工観光課内におりました。最初の地震の時、隣の管財課にテレビがありまして、そこに緊急地震速報が流れてきたのです。それを見て驚いた後に揺れが始まり、急いで立ち上がりました。後ろにちょうど食器棚があり、揺れ始めてから食器や物が落ちてきました。窓から見える裏手の丘をずっと見ていたのですが、アカマツの木が左右にものすごく揺れていました。
 発災当時、私は新田中班という班の現地班長をしていました。多賀城市の職員は班に分かれて、班ごとに地区のパトロールや避難所の運営などを行うことになっているのです。
新田中班は市役所周辺を巡回していました。市道の回りの崖崩れや道路の陥没、水道管の破裂、屋根からの瓦の落下などの被害がないかどうかの確認を、2人一組で車に乗って20分ほど行いましたが、ほとんど被害がなかったようなのでそのまま市役所に帰ってきました。
その後、市役所の4階に上がると、非常用電源で、建設部道路公園課にあるテレビがついていました。
そのテレビに映し出されていたのが、自衛隊の人が撮ったという、閖上地区に津波が押し寄せる場面です。「あれ見て!」と言われて、これは大変だと感じました。
それまで大きい津波というものは私たちの意識にもありませんでしたし、経験したこともありませんでしたので、「この先どうなるのか」と話したことを覚えています。
発災当時から市役所が避難所になったので、主に1階のロビー、3階、6階に避難場所を設定し、避難者をそこに案内しました。夜になってからは、寒い時期だったので、毛布の支給などを行いました。それが震災当日の夕方6時くらいまでの私の行動です。

(高木様)
私は震災時には保健福祉部介護福祉課に所属していました。私は高崎班という現地班所属なのですけれども、私が出先から市役所に着いた時には発災から1時間近く経過していたため、現地班の人は全員もう出動していました。
そこで、車で現地班の集合場所である高崎集会所に行きました。最初に現地班長からの指示を受け、もう1人の職員と2名で高崎周辺の状況を確認していました。
その時に、住民の方が砂押川沿いの土手に沢山いたので、何事かと、そこに行ってみました。
ちょうど私が行った時には、津波の第一波が来て引いた頃でした。
普段の砂押川の水深は場所によっても違いますが、私のいたところだと、普段は大体足首、深くても膝くらいまでです。
しかし、その時は何メートルもある土手の高さの9割位まで水がきているような状況でした。
ちょうどそのときに、川下の方から徐々に水が増えてきたのが見えましたので、第二波か第三波か分からないのですが、また津波が来ているということがわかり、川を見ている市民の方に「すぐ避難してください」と職員2人で叫びました。
それからすぐ、高崎集会所に公用車で戻りました。距離的には大した距離ではないのですが、みんな一斉に高崎エリアなどの高いところに避難するので、その避難する人の車で道路が大渋滞になり、集会所に戻るのにだいぶ時間がかかったような感じがします。戻ってからしばらくして、高崎中学校に避難者の方が集まってきているということで現地班もそちらに向かい、避難所の開設業務が始まったというのが当日の流れです。

(遠藤様)
私は発災当時も現在も、市民経済部生活環境課に所属しています。発災直後は生活環境課におりまして、トイレから戻り、自席につこうかというところで揺れが始まりました。
通常の地震よりかなり長かったので恐怖を感じました。いつもの地震とは異なる恐怖を感じました。昭和53年の宮城県沖地震以来です。
宮城県沖地震の時は、私はまだ20歳で、入庁して2年目で、防災の仕事をしていました。今でいう交通防災課の仕事をしていました。
ですから宮城県沖地震当時の記憶が蘇ってきました。当時、事務処理をすべて終えるのに2年くらいかかったことを覚えています。
今回、私は浮島班の現地班長だったので、班員が揃った時点で最初に浮島公民館に行きました。そこに無線機などが置いてありましたので、着いてからすぐに避難所の開設をしました。本来、その地域の大規模災害時指定収容避難所は城南小学校の体育館なのですが、浮島公民館にも避難している方がいて、そのまま放ってはおけませんので、最初の1週間はそこにいました。
浮島には津波被害がなかったので、班員には地区内の建物の被害状況の調査をさせました。
その後、城南小学校に津波の被害に遭われた人達が地区外から次々入ってきたので、班員を半分に分け、片方は城南小学校、片方は浮島公民館という配置にしました。浮島公民館は1週間くらいで閉鎖して、その後は全員で城南小学校に詰めました。
津波被害地域の状況は全然わかりませんでした。
震災当夜、浮島公民館から海側の方を見ると空が真っ赤になっていたので、製油所で火災があったのだと思いました。浮島公民館にテレビはあるのですが映らなかったので、津波の被害は後から知ったような気がします。
私自身が砂押川から南側の場所に足を踏み入れたのは、避難所が閉鎖された1カ月以上後でしたので、4月下旬頃まで、実際の津波の被害は見ていませんでした。
ずっと避難所詰めだったで、役所と避難所、または避難所と自宅の往復しかしていなかったのです。
実際に足を踏み入れたときは驚きました。

(聞き手)
避難所を城南小学校に統合したと聞きましたが、浮島公民館に来ていた避難者からは苦情は出ませんでしたか。また何人くらい来ていたのでしょうか。

(遠藤様)
苦情は出ました。浮島公民館には3月15日の時点で38人がいました。段々と避難する人が増えていきましたので、浮島公民館を閉鎖して城南小学校に移ってもらうということに決まりました。
早く知らせなければと思っていましたが、避難してきている方は、公民館だと自宅から近いため、遠い所に移すとなると抵抗があるだろうとは思いました。
浮島地区の区長さんと一緒に説得にあたりましたが、中には城南小学校に行かずに家に帰る人もいました。
家は住めないような状態ではないのですが、避難所にいれば食料が貰えるからという方が浮島公民館にもいました。どこの避難所でも同じだったと思います。

浸水地域を想定したライフジャケットやウェットスーツなどの不備

(聞き手)
 当時の対応で上手く行ったことや、大変だったことはありましたか。

(菊田様)
発災当日の話です。
砂押川の南側に津波が来ていましたので、災害対策本部からは、新田中班員で、そこから避難してくる人たちを救急搬送してくれと言われたのです。
文化センター、あるいは東北学院大学の礼拝堂が避難所になっていたので、そちらに新田中班は回ってくれということで、そこから朝までずっと寝ないで、搬送していました。どのくらい先まで行って助けていたかは暗くて分からなかったですけど、自衛隊や消防団の人たちがゴムボートを使って助けた人たちを、夜の間、ずっと、私たちが車で搬送しました。
 夜が明けた時には、製油所の燃えているタンクの煙がこちらに来たので、どうなるのかと感じていました。
搬送している最中に、最初に津波が到達した場所から何メートルか水が引いていきました。
ただ電気もついていませんので、周囲が真っ暗で、先の状況が全然わからなかったです。
朝になって初めて、車があるためにボートが通れなかったというのがわかりました。
1回ボートで助けに行くと、1時間半から2時間くらいかかるので、これでは遅いと焦っていたのですが、あの状況を見れば、難しい状況だったのが分かりました。
市民の方に「自分の子供が残っているかもしれない」などと言われたこともあったのですが、行くにしても、装備が何もないから行けないですし、ライフジャケットや長袖のウエットスーツなどがあったら、助けに行けたのではと、今でも少し思っています。
そういった避難者搬送の仕事は、次の日の朝の9時から10時には終わりました。
その後は遺体の搬送を手伝いました。
道路は車が通ることができない状態だったので、消防団と市役所職員4、5人で歩いて行き、遺体を手で抱いて運びました。
それから車に乗せて、遺体安置所になっていた多賀城市体育館まで運び、また戻ってくるというような状態でした。消防団はやはり生存者優先といった感じで動いていたので、亡くなった方のご遺体回収は、その他の手が空いている者で行うことになったのかもしれないです。
それが落ち着いてからは、文化センターの避難所が手薄だということになりまして、新田中班の職員は全員そちらに移動しました。文化センターには、私が行った時で、1800名の避難者がいると言われました。実際に見てもそれくらいいたようでした。

避難所運営で大変だったこと

(聞き手)
 避難所などで苦労されたことは、どんなことでしたか。

(菊田様)
文化センターの避難所ではペットと一緒に避難している方もおり、そのペットに怒っている方もいましたので、ペットを飼っている方はペットと一緒に、一箇所に集まっていただいた方が良かったのかなと思いました。
最初は地区ごとに人を分けていて、その中にペットもいるという状態でした。
最終的には、文化センターの出演者控室に、ペットを飼っている方に集まっていただくという形になっていきました。
ただそうするまでには、時間がかかってしまいました。
また、高齢者や認知症の方、薬を常に飲まなければならない人もいらっしゃいましたので、職員が夜ほとんど眠れない状態でした。とにかく24時間次々と何かが起こり、眠れないまま夜が明けたということを覚えています。

(高木様)
私がいた高崎中学校の近隣は津波被害がなく、周りの景色は何事もなかったような雰囲気でした。
時間の経過とともに少しずつ多賀城市内や東北の被害状況を聞いたり、あるいは携帯電話のワンセグ放送などで情報を見せてもらったりして、徐々に被害の深刻さがわかっていきました。
学校の教職員の方々が非常に協力してくださって、迅速に学校を開放してくださいました。
各教室も開放してくださり、避難されてきた方々は体育館や教室に入ることができました。徐々に暗くなり、避難されてきた方の中には懐中電灯を持っている方もいましたが、持っていない方が多くいました。その時に、手作りのロウソクだったと記憶していますが、学校で保有していたロウソクを、教職員の方が各教室に提供してくださいました。やはり真っ暗の中では、ロウソク1本でも大きな安心感がありました。そのロウソク1本が未だに私の記憶に大きく残っています。
また、発災当日は雪も降っていて本当に寒かったのです。着の身着のまま避難された方もいらっしゃいました。
毛布などの防寒品はまだ配布されていませんし、停電により暖房も使用できませんでした。
その後、近隣から避難された方は、日中は家の片付けで家に戻っていました。
避難所の食糧配給は、最初のうちは1日1回か2回でした。初めの段階では、職員は寝ずに数日間過ごしました。その後、地域の方に運営協力をいただき、大変助かりました。
今になって考えてみると、初めは市の主導で運営しなくてはならないのですが、ある程度の時期が過ぎたら地域連携して役割分担していかないと市職員だけでは限界がありました。
避難所生活も後半になり、他県からの応援の職員の方々が来てくださったことは大きな助けになりました。
応援職員の方々の支援により、精神的にも肉体的にも市職員の負担が減りました。高崎エリアの避難所は4月上旬に閉鎖しました。ほとんどの方が自宅に戻り、一部の方だけが文化センターの方に移動するということになりました。
避難所生活で一番大変だったのは、トイレです。
高崎中学校ではプールが屋上にありましたので、先生や生徒の方々の協力のもと、その水を汲んできてトイレに使用することができました。高崎中学校の先生方には全面的な協力をいただきました。また、仮設トイレは和式でしたので、高齢者等の体に障害がある方にとっては、使うのが大変そうでした。

被害状況に応じた避難者の心情の差違

(遠藤様)
先ほど話した通り、最初の1週間は、浮島公民館避難所運営に従事していました。そこでは区長さん以下役員の方々が本当に協力的で、随分助かりました。これは地域性なのではないかと思います。
たまたま私も地元が浮島で、区長さんとも顔見知りなので、話しやすかった部分があったと思います。
浮島班の職員も協力的でしたし、その辺は恵まれていたかなと思います。
上手くいかなかったことは、こちらが考えていることが、避難された皆さんになかなか伝わらなかったことです。被災された方には、気を遣って接していましたが、その思いがなかなか伝わりませんでした。
当時の状況下では、仕方のないことだったのかなと思います。
発災から1週間後に、浮島公民館を閉鎖して城南小学校の体育館に移った時には、津波被害にあった桜木地区の方なども来ていましたので、避難者の状況と緊張の度合いが全然違いました。
職員に向ける視線も違いました。こちらはなるべく感情的にならないように相手の気持ちを逆撫でしないようにと、気を遣いながら話しているつもりでしたが、被災者の方の精神状態も高ぶっておられたのだと思います。
「情報を掲示するのが遅い」、「便所が汚い」など、少しのことでもお叱りを受けました。
皆さんに協力を呼びかけると、動いてくれる方もいて助かりましたが、先程、高木さんも言っていたとおり、トイレはひどいものでした。1回汚くなるともうダメです。
他県からの応援の方には助けられました。城南小学校の先生方も協力してくれまして、感謝しております。
それから、避難所にいる時はあまり疲れを感じませんでした。緊張していたのかもしれません。とにかく常に動いていたので、眠いという感覚もあまりありませんでした。

(聞き手)
少し時間が経ってから疲れが出ることもあるかと思いますが、どうでしたか。

(遠藤様)
私は市役所に戻ってきてすぐ、被災者相談業務に回ったので、疲れを感じる暇はありませんでした。その業務が終わると今度は自分の課で、火葬と埋葬関係の仕事がありました。
全てが落ち着いて、身体や精神的に影響があったかというと、幸い、私には何もなかったです。

感謝の言葉に励まされる

(聞き手)
一時期、燃え尽き症候群のようになった方のお話も聞いたりもしましたが、大丈夫でしたか。

(遠藤様)
あの時はそこまで物事を複雑に考えないようにして動いていたので、大丈夫でした。
ですが、少しのことでも避難所ではトラブルになってしまうので、被災者の方に配慮しました。
城南小学校で学校が始まることになり、そこから移動する必要が出てきた時にも、どうしてまた移動させるのかと怒られたことがあり、辛い気持ちになりました。
被災者の方の気持ちを第一に考えて仕事をしていたつもりですが、実際には、100人のうち1人か2人に喜んでもらえれば良い方だったのではないでしょうか。一生懸命に仕事をしていても、相手方にはそう映らなかったのかもしれません。
 一番困ったのは給水車による給水の時のことです。給水タンクの容量にも限界はあります。何度か給水時の補助をしていれば、どこで水がなくなるかおおよそ見当がつくようになり、「ここ以降の方には申し訳ありませんが給水できません」と伝えるようにしました。ですが、それでも皆さん帰らないのです。もしかしたら水がもらえるかもしれないと、ずっと待っているのです。結局、水がもらえないと、「お前は仕事をしているのか」などと怒られます。さすがに腹が立つこともありましたが、黙って聞いていることの方が大事だと思いましたので、職員は色々言われても耐えなければいけないと感じていました。

(聞き手)
感動したこと、嬉しかったこと、勇気が湧いたなどの話はありましたか。

(菊田様)
震災が発生した次の日の朝6時か7時ぐらいに歩いて避難してきた人がいました。
その方は工場地帯にあるポリテクセンターで働いていた方で、自分のストッキングで靴が脱げないように結びつけて、手にはほうきを持っていました。30分くらいかけて歩いてきたということで、前の日から何も食べていなかったそうです。私は文化センターに搬送の仕事で行った時に、避難者が使うかもしれないと思いパンなどを持ってきていました。
そこで、そのパンと飲み物を差し出したところ、涙を流されて、「やっと食べられる」と言っていました。
「どこに行ってもマンホールの蓋が開いていて、側溝の蓋も全て開いていて、いつ落ちるかわからない状態でここまできてやっと助かった」というお話を聞きながら、車で文化センターまでお連れしました。
文化センターに着いた時に、「ありがとうございました」と一言言われたのが、今でも一番嬉しいです。

(高木様)
感動したエピソードは、正直、思いつかないです。
しかし、そういった部類ではないでしょうけれど、個人的なことで1つあります。
昔、市内の児童施設で勤務していた時に担当していた子が2人ほど高崎中学校に避難してきていました。
当時、5、6歳の子供だったので、今はもう20代になっています。
なので、顔を見てもわからなかったのですが、あちらから声をかけてもらい、昔話や今どうしているのか、これからどうしたいのかなどの個人的なことについて話ができました。

(遠藤様)
城南小学校の避難所が閉鎖された時に、すっかり空になって、元の体育館に戻ったのを見て、ホッとしたことが、正直な話をすると嬉しかったです。

被害想定と備蓄の大切さ

(聞き手)
 東日本大震災以前に、何か他の災害を経験したことはありますか。

(菊田様)
今回の震災の前だと私自身は宮城県沖地震ぐらいしか知りませんでした。
津波の経験がなかったので、津波が来るという感覚がありませんでした。東日本大震災のちょうど1年くらい前にチリ地震で津波が来ましたが、気仙沼や石巻に20センチから30センチくらいしか来なかったのを覚えています。
今回もそれくらいだと高を括っていました。
周りの方も、そういった意見の方が多かったのではないかと私は思っています。
ですので、地震の被害の想定はありましたが、津波の被害は全く考えていませんでした。
自分の家でも、準備は懐中電灯や卓上コンロぐらいで、1日から2日ほど過ごせる準備しかしていませんでした。1日から2日くらいで電気やガス、水道が復旧するだろうという見込みで用意していました。
今回のように、水が出るまで3週間以上かかるということまでは想定してなかったです。ですから、震災の状況をテレビで見て、この先どうなるのかと思ったのが本心でした。

(高木様)
私は、宮城県沖地震の時は高校2年生くらいだったと思います。
記憶の中の津波も大きなものではなくて、以前から再来すると予測されていた宮城県沖地震も、その高校生の時に経験した地震ぐらいかなと思っていました。その高校生のときの地震の記憶が曖昧なのですが、電気も水道もさほど止まらず、何日間かで復旧した記憶がありました。
私の家では、東日本大震災が起きる何年か前に、防災セットを購入して玄関の片隅に置いてありました。ただ、今回の震災で家中の物が散乱したので、そのセットは暫くの間見つからず、結果的にすぐには役に立ちませんでした。地震でライフラインが止まるのは長くても数日間ではないかという認識でいました。

(遠藤様)
宮城県沖地震を経験していたからといって、次の地震の備えとして水や防災グッズをあえて用意していたかというと、私はしていませんでした。
もちろん、今では用意しています。
風呂の水の残りを貯めたり、懐中電灯やロウソクを決めた場所に置いたりということをしています。
業務面での過去の災害の経験は、形としては役に立ちませんでした。ただ、被災者の気持ちを逆なでにしてはダメだという気持ちは、こういった大きな災害の時は常にありますから、精神的な面で過去の災害の経験を活かしたものはあります。
しかし、行動は、その時の災害の状況を見てケースバイケースでやるしかないと思います。
過去こうやったから今回もこれが通じるというのは、全くないわけではないですが、災害のパターンが違うと対処のやり方も違ってくるのではないかと私は思います。

全職員による防災点検の定期的な実施

(聞き手)
 これからの復旧、復興についてのご意見と、今回の震災を通じて後世に伝えたい事をお聞かせください。

(菊田様)
後世へ伝える経験については、人は忘れていくものだと私は考えていますので、職員の経験を引き継いでいくのはなかなか難しいと思います。
私は、昨年、市長とお礼も兼ねて関西方面に出張したことがありました。
その時、その町の職員の方が、東日本大震災をきっかけに毎月11日を防災の日に設定し、職員全員がその日は作業着で出勤していると聞きました。
その日は必ず、懐中電灯を点検する、発電機を動かしてみるなどの実務をすると話していました。
そういったことが大切なのだと思います。
できれば多賀城市でもそういうことを実施してほしいと思います。
何年か経つと職員の退職などで、前のやり方がわからないなどということが出てきます。
毎月とは言いませんが、半年に1回ぐらい、全職員が防災点検などをやるべきです。
自分の生きる方法や糧としての技術を身につけるため、そして市民の方を助けるために、色々な機械・機材の使い方、物がどこの倉庫に入っているか、どこに備蓄品があるかなどを全員が必ず確認し、実際に使用してみることが必要ではないでしょうか。
それが東日本大震災の伝承になっていくのではないかと私は考えています。
将来そういった計画を立て、単なるイベント的な防災訓練ではなく、実務的な訓練をできるようになればいいと思います。

要援護者の救護体制の整備

(高木様)
震災以前から要援護者の救護をどのようにするかについて取り組んでいましたが、今回の震災ではそれがほとんど機能しなかったと思います。
要援護者である高齢者、障害のある方を、いざという時に地域で安否確認や避難を支援していくこととしていましたが、今回の津波では十分に機能しませんでした。
地域の支援者の方も被災者であり、今回の大きな被害状況からは困難な状況だったと思います。
今後は市全体での協力体制を築く必要があり、何かあった際には皆で助け合える体制が充実してくるといいと思います。

若い世代への防災教育

(遠藤様)
復旧復興と言うことですが、被災された方が1日でも早く元の生活に戻れたらいいと言う気持ちは、誰もが持っていると思います。
また、将来を見据えた復旧復興はこれからの時代を担う若い世代の人たちの役割に関わって来ると思います。
将来的に、やはり防災に関する教育を一生懸命しなくてはならないでしょう。
若い世代への防災教育に力を入れるべきと思います。
 伝えたいことは、特に災害時は、自分さえよければいいと言う考えを捨てることだと思います。
災害時にこそ、人と人とのつながりが、時として安らぎを生むという効果もあり、次のステップの復興へのきずなという連携にもつながっていくはずです。
私が所属している生活環境課は様々な要望苦情を受ける部署なのですが、震災後は特に自分が言いづらいことは、市役所から相手に言って欲しいと言うような内容が多くなりました。
例えば、隣の庭の木の枝が自分の敷地に入って来たから隣に話してくれと言うようなものです。
近所同士の関係から直接相手方に言えない事情があるのかもしれません。
それはわかりますが、震災後は特にそう感じます。
自分さえよければ的な一面は、誰の心の中にもあるでしょうが、利己主義が堂々とまかり通る世の中にはなってほしくないのです。