(聞き手)
津波に対する避難行動について、印象に残っていることをお願いします。
(髙橋様)
ソニーさんのグラウンドに避難する予定でしたが、グラウンドでは駄目で、建物の中まで避難させてもらいました。完全に想定外の災害規模でした。
一端は逃げたものの、その後、家に引き返す途中で亡くなった方がいらっしゃったと聞きます。私の町内では建物の2階に避難した方のほとんどが助かりました。また、川を逆流して来た津波は勢いがありましたが、海から直接来た津波はさほど勢いがなかったという印象が残っています。
(聞き手)
今までの経験を活かして、持ち物などを準備されていたのでしょうか。
(髙橋様)
準備は整えてありました。どこでも歩けるように軽くて丈夫な長靴と携帯ラジオを用意していました。
(聞き手)
多賀城には何年ほどお住まいになられていますか。
(髙橋様)
生まれも多賀城なので、71年ほどになります。
(聞き手)
チリ津波や宮城県沖地震、また、過去の水害などで、教訓や行動指針など、伝承されて来た事はありますか。
(髙橋様)
そういう教訓や伝承は特にありません。まさかそんな大きい地震や津波が来るとは思っていませんでした。
(聞き手)
区長の立場で苦労された点や心配だった点はありましたか。
(髙橋様)
当時はもう夢中でしたが、みんなが一生懸命にやってくれたので、まとまりがありました。
ずっと以前から、毎月、地区の大掃除をしてきているのですが、その時には100人弱くらいの人が集まります。
そこでいろいろとお話するのですが、こうした会話によるコミュニティの形成を普段から頻繁に行っておく事が大事です。
町内会の役員や民生委員などは、被災時には支援を期待されていますので、できる限り、これを果たすべく頑張りたいのですが、実際には、自身も被災するので、支援活動が難しい場合もあると思います。
(聞き手)
皆さんとうまくコミュニケーションができて、避難所もうまく運営できたというのは、普段のつながりが活きたという事でしょうか。
(髙橋様)
普段からのつながりは重要ですし、そのつながりで、うまくいったのだとおもっています。
つながりということと一緒に、もし災害が起きた場合にはどうすればいいかを、めいめい考えておいて行動できるようにしておいてほしいと思います。
私たち区長や民生委員もできる限りは、支援に動きますが、その場にいない事もあるかもしれませんし、大勢では動けないかもしれません。
また、桜木東地区では家が潰れて下敷きになったような方はほとんどいなかったので、津波の場合は、2階に上がれば恐らく大丈夫だと思うのです。2階は物が倒れてこないようになるべくシンプルにしておいて、物をたくさん置かないようにしておく必要があります。そのような備えも大切なことだと思います。あとは3日分程度の備蓄をしておけば、なんとかなるでしょう。その話を、昨日、視察に来られた方々にもお話しました。皆さん、真剣に聞いておられました。
やはり助けを待っているだけでは駄目で、災害が来たらどのような行動をとるかという事を、常に意識して行動するべきです。
実際にそれを推し進めるような雰囲気づくりを区長などもしていますが、最終的には各人が考えていく事が最も必要だと思っています。
(聞き手)
震災前後で、地域のコミュニティ活動はどのように変化しましたか。
(髙橋様)
震災があってからは、さらにまとまりがよくなりました。
70歳過ぎの一人暮らしをしておられる方の家に行って、一緒に片付けをするなど、いろいろ協力し合いました。
(聞き手)
それは区長さんや民生委員の方が提案した活動なのでしょうか。
(髙橋様)
そうです。やはり、一人では何もできません。区長は常日頃から、みんなでやってもらえるような考えを持っていないといけません。人が集まってこその町内会です。
(聞き手)
イベントやおまつりも開催していますか。
(髙橋様)
はい、いろいろとやりました。そういった活動を積み重ねていくと、徐々に人が集まってきます。
先ほどお話した町内清掃も、朝6時半から開始しますが、それでもご年配の方も含めて100人近く集まってくれるのは、まとまりがある証拠だと私は思っています。常日頃から人が集まるムードを作っておき、そこでみんなと会話を交わすうちに、自然と協力してくれるようになります。
(聞き手)
多賀城市の企業や産業の復興について、どうお思いですか。
(髙橋様)
多賀城は今まで工場地帯が主でしたが、時代の移り変わりとともに、工場地帯も古くなったように感じられます。
昔の華やかさが失われ、1か所にまとまっている分、今回のような震災などが起きた場合には、一気に会社や工場が減ってしまう事態ともなります。
そこを、観光産業など、別な分野も取り入れ、無理のないように緩やかに変えていかないといけないのではないでしょうか。
経済面も踏まえつつ、その点を幅広く考えて、何かあっても大丈夫なようにすればよいと思います。
個々の企業経営も同じです。
昔は一つの事業をしていれば安泰という時代でしたが、今はそうではありません。
お客様の変化が早いため、私の会社でも、一つの事業に偏らないように様々な品物を扱うようになりました。
市も特長を活かしつつ、そうしたことを考えないといけない時代になってきているように思います。
時代に合わせて少しずつ変化させていくことが必要ではないかと、私はそう思っています。
無理に変化させることはありませんが、その都度の見直しが必要でしょう。
その変化はすぐに出来るものではありません。思いがあれば自然と変わっていきますし、大変なところや苦しみの中から、新しいものや良いものが生まれます。
震災後、私の会社は、銀行から融資を受ける事になり、それを元手に再開へ動きました。
津波により、建物の下半分と、機械のほとんどが駄目になりました。一時休業を挟んで、震災から約3カ月後の7月1日から、一部操業を再開しました。津波により、周囲の電信柱がほとんど流されていたため、電力会社に無理を承知でお願いし、電話も、光通信を使いました。
所属していた仙塩多賀城地区連絡協議会では、国からのグループ補助の話があり、私の会社も数億円の補助が出ました。利子も届け出れば無利子で通る制度があったので助かりました。
機械を買い替えるためにかなりの借金をしたので、市から、グループ補助のお話を聞いた時は半信半疑だったのですが、実際に、補助が出て、とても助かりました。
桜木東区集会所も津波で全部破壊されました。市に建て直しをお願いして、どうにかこうにか新しく建ててもらいました。元々古くなっていたので、修繕することは難しかったでしょう。
(聞き手)
こちらの会社の事務所は、全壊だったのですか。
(髙橋様)
1階は全壊です。今回の震災では、失ったものもとても大きいと感じていますが、得るところもだいぶありました。
震災前の状態に戻るには、あと2年ほどかかると踏んでいますが、私の会社では売り上げなどもほぼ回復してきました。36年経営してきましたが、こんな出来事は二度とないでしょう。
多賀城市もいろいろな事がありますが、この震災を糧にして変わっていかなければいけません。
みんなで団結して、これからの多賀城のためにはどうしたらいいかを真剣に考える必要があります。
世の中を見ながら、市民みんなが少しずつ変わっていかないと、この先の多賀城を良くする事は難しいでしょう。
自然も変わってきていますが、やはり自然には逆らえるものではありません。私たちは自然の中に暮らしているので、津波を高い防波堤で防ごうと言っても無理だと、皆さんわかったと思います。
(聞き手)
後世に伝えていきたい教訓を教えてください。
(髙橋様)
自然の恵みを受けるばかりでなく、たまには被害をもたらすこともあるでしょう。自然被害は、ある程度は抑えようがない面があるので、そうなったら逃げるしかないということです。
(聞き手)
ご自宅でも、今回の震災を経験して、備えや対策はしていますか。
(髙橋様)
今回、自宅は全部解体してしまいました。その気になれば修繕できましたが、築30年の家だったので、修繕するにも建て替えるくらいの金額が掛かってしまいます。
ですので、今は新しく建てています。
新しい家では、シンプルに、物はあまり置かないようにします。本当に要るものだけを置いて、他は片付けようと思います。
(聞き手)
震災後、物を置かないという考え方に変わったのでしょうか。
(髙橋様)
取っておきたかった物も含め、ほとんどの物を捨てました。
そのうち、8割は要らない物でした。
それから、地震が来る時の備えとして、ガラスに飛散防止フィルムを貼っておきましたが、今回の震災では壊れませんでした。
大きめのガラスにはそうしたフィルムを貼っておくと効果があると思います。
ですが、やはり一番の地震対策は、物を置かない事です。
(聞き手)
多賀城市の復旧・復興について、お聞かせください。
(髙橋様)
未来を見ながら、考え方を変えていかないといけません。
よその土地を真似するというよりも、色々と参考にして、良い方向へ変わってもらいたいです。
何度も言っていますが、リスク分散の考え方が必要になると思います。
多賀城市内の地区では、世帯数に最大で4倍近い差があります。
ですから、違う地区で出来ても、こっちの地区で出来るとは限りませんし、お金や人の集まり方も違います。
これは、会社の運営と同じです。
震災がなかったとしても、変化はあります。
良いことを振り返って、変化を踏まえながら、きちんと対応していくことが、今後とても重要になってくると思います。