防災・減災への指針 一人一話

2013年11月06日
系統的な指導が求められる防災教育
多賀城市立第二中学校
粟野 和彦さん

リーダーシップを発揮して

(聞き手)
 当時整備されていたマニュアルが活かされた場面はありましたか。

(粟野様)
 マニュアルは整備されていましたが、マニュアル以前に、校長先生のリーダーシップが大きいという印象を受けました。校長先生の判断は明確で素早く、迷うことなく行動することが出来ました。
マニュアルの内容について、大体は頭の中に入っていましたが、詳細までは入っていなかったと思います。

(聞き手)
 発災直後の行動や出来事で、印象に残っている点があれば教えてください。

(粟野様)
 卒業式が終わり、教員数名でトラックに乗って、近くの小学校から借りていたパイプ椅子を返却しに向かう途中でした。
地震警報が鳴ったので車を停めて降りたところで揺れが来ました。
コンビニから人が出て来たり、下校途中の小学生が軽いパニックになっていたりしたことを覚えています。

(聞き手)
粟野様は宮城県沖地震を高校生の時に経験されていらっしゃるとの事ですが、今回の地震をどのように感じましたか。

(粟野様)
地面が揺れているのを初めて見て驚きました。周囲の人もパニックになっていて、小学校2、3年生らしき男の子が泣きながらこちらに来たので、建物のない場所まで誘導し、大丈夫だとなだめました。

(聞き手)
 かなりの揺れでしたが、その時に津波の事は考えていましたか。

(粟野様)
 津波の事まで考えが及びませんでした。揺れ自体は強いものでしたが、津波が来る事になるとは思っていなかったのです。学校に戻って来てから校舎内が悲惨な状況になっているのを見て、すごい揺れだったと改めて思いました。
発災直後はここまで大惨事になるという感覚はありませんでした。徐々に状況が入ってくるにつれて、とんでもない事だったのだと感じました。
うちの学区は海から遠いので、子どもたちも直接津波の被害には遭いませんでしたし、海辺の学校とはまた違った状況だったと思います。

避難所運営の負担は収容人数で異なる

(聞き手)
 発災当時、学校では震災や防災での役割分担というのは決めてあったのでしょうか。

(粟野様)
まずは暖を取らなければならないという事で、校庭に穴を開けて火を焚きました。女性教員には買い出しに行ってもらいました。すぐ向かいの山王地区公民館に住民の皆さんが避難し始めて来たので、夕方から夜中まで、その車の整理をしていました。
山王地区公民館の駐車場はいっぱいになったので、学校の校庭にも誘導してという作業を、その日は夜中過ぎまでやっていました。

(聞き手)
 先生方は、とても苦労をされたというお話をよく聞きますが、いかがでしたか。

(粟野様)
今の教員の中には亘理方面に勤めていた教員もいますし、ヘリコプターで救助されるまで屋上にいた教員もいますので、その人たちに比べたら、たいした事はありません。
もっともっと大変な思いをされた方や、ご家族を亡くされた方もいますから。
 学校における避難所の運営は、市職員を責任者にして運営してもらおうと決めていました。これにより、私たち教員はその手伝いをしながら学校の復旧に当たることとしました。
上手く仕事を分担できたので、それほど負担を感じる事はありませんでした。

(聞き手)
だいたい何人くらいの方が避難のため、来られたのでしょうか。

(粟野様)
 100人くらいだったと思いますが、他の学校はもっと桁が違うと思います。
別の中学校などは、校舎の中にまで避難者を収容していましたが、こちらはそこまでではありませんでした。
教員の負担は、学校によっても、全く違うと思います。

(聞き手)
 避難されて来た方が、全員退出されたのはいつ頃でしたか。

(粟野様)
 記録では4月9日まで避難所になっていたと書いてあります。
4月7日の強い余震で、皆さんがここから退出されて、自然と避難所ではなくなりました。
 老朽化している体育館で、寒い日が続いたもので、目張りをしたり、窓が割れていた部分にはベニヤ板を張ったり、壁の隙間を雑巾で埋めたりしました。

(聞き手)
粟野様は教員という事で、家族のことを省みる事はなかなかできなかったのではないでしょうか。

(粟野様)
 震災の日は、心配だったもので、夜中に1時間だけ帰りました。家族全員で、自宅近くの中学校に避難していたので、安心してまた戻って来ました。
子どもたちに、何かあったら近くの中学校へ行くようにという事は伝えてあったので、それが最終的な拠り所になりました。
自宅に誰もいなくても、どこにいるかの目星がつきました。そういった、家族内での決まりごとのようなものは日頃からありました。

ポイントは明確な役割分担

(聞き手)
 当時の対応でうまくいったこと、うまくいかなかったことは何だったのでしょうか。

(粟野様)
役割分担が非常に初期の段階からはっきりしていたので、何をやらなければならないのかを把握した上で行動出来たことが、一番うまくいったところです。
 大変だったことですが、個人的にはトイレ掃除が辛かったです。仮設のトイレが出来たのが随分後で、最初は水も流せないので、避難されていた方も、用を足すのがやはり一番大変だったのではないでしょうか。 貯水していた水も、寒いのでタンクごと凍って、水が流れなくなる事がありました。タンクを温めるために雪が降る中、雑巾を巻くといった対応をしました。
食事に関しては、比較的早い段階で支給されてきたので、そんなに大変ではありませんでした。
それでも、最初の2日ほどはパン1個程度のものしか配れませんでした。
その後は、ボランティアの方が来てラーメンを作ってくれるようなことがありました。
避難された方達には、温かい食事を摂れて良かったのではないかと思います。

在校生がボランティアとしてサポート

(聞き手)
 中学校生徒さんに関するエピソードはございますか。

(粟野様)
 在校生のボランティアにはとても助けられました。新3年生を中心に、トイレ掃除などをほとんど毎日してくれていたので、我が学校生徒ながらたいしたものだと思っていました。
いつの間にか集まって来て、毎日交代しながら避難所の世話をしてくれました。
私たちが指示したわけではないのですが、他の避難所に行って手伝っている生徒もいたようです。
この地区は被害が少ない方だったので、ボランティアを頑張っている子どもが比較的多くいたようです。
後日、校長がその子たちに感謝状を出していました。

全市一斉の防災訓練の課題

(聞き手)
先生という立場から、防災教育に関して、ご意見はございますか。

(粟野様)
 ちょうど先日、多賀城市の総合防災訓練がありました。
全市を挙げて一斉にという訓練があったようなのですが、初めての試みだからか、連絡がうまく行かなかったようで、生徒も一緒に大々的な訓練を出来れば良いのかと思っていました。
各地区をまとめきれなかったところが残念です。もっと色々な人を巻き込んで出来ればいいという事は感じました。

防災教育の系統的指導の必要性

(聞き手)
 多賀城高校で防災系学科が設置されるということで、防災に関しての注目が全国から多賀城に集まって来ています。
防災は最終的には個人個人の防災意識を高めないと前進していかないと思いますが、粟野様は生徒の防災意識を高めるためには何が必要だとお考えでしょうか。

(粟野様)
 やはり教育でしょう。訓練も実施していますが、単発的にならないよう、年間を通して系統的に指導できるようにしないといけないと思います。
それと、先ほども言いましたが、学校だけでなくて様々な地域を巻き込んで、地区と校区が連動した動きが出来るようになると、防災意識の高まりが顕著になるのではないかと思っています。
今回の震災でもそうでしたが、結局は、地区ごとに自宅へ帰っていたので、学校の訓練とは違うパターンでの避難だったのです。学校だけで訓練していれば良いというものではないような気がします。

(聞き手)
 最近は震災の風化という言葉がよく聞かれます。震災の経験を伝承していくために、何が必要だとお考えでしょうか。

(粟野様)
 まだそういう段階ではない気がします。
いまだ震災を引きずっている子どもも多いので、そのケアも大切です。
震災から2年経った頃からが、心の問題が表に出てきやすいとおっしゃる専門家の方もいます。
もちろん風化の問題も考えていかないといけないですが、まだやらねばならないことが、今から出てくる可能性があるような気がしています。

(聞き手)
 震災を経験しての教訓は何でしょうか。

(粟野様)
 想定外という事は許されないと感じました。マニュアル作りもそうですが、できる限りのあらゆる場面を想定しておく事が必要だと感じました。
全て想定することは不可能ですが、考えられるだけの想定は危機管理の上で必要なのだろうと思います。
特に私たちは教員なので、子どもたちの命を守る事が第一義です。

震災を話題とする事への抵抗感

(聞き手)
 授業の中で、今回の震災に関わる話をする事はありますか。

(粟野様)
いえ、まだ言えません。直接被害を受けている子もいるので、直接的な話というのは出来ていません。
ただ、例えば作文を書かせたりすると、そういうことを書いてくる事はあるので、それをみんなに紹介する事はあります。
しかし、こちらからは、震災の時は大変だったとか、あの時何していたとか、そういう話を切り出すのは、まだ抵抗があります。

(聞き手)
 他に何か言っておきたい事がありましたらお願いいたします。

(粟野様)
 震災時は、毎日、教育委員会に行っていたのですが、市の職員が避難所運営も含めて、私たち以上に昼夜を問わず頑張っていらっしゃった姿を見て、頭が下がる思いでした。個人的にも、とても感謝しています。