防災・減災への指針 一人一話

2013年11月06日
地区独自の数々の取り組み
多賀城市 大代北区長
加藤 渉さん

臨時災害FM局の有効性

(聞き手)
 多賀城の住歴を。

(加藤様)
 多賀城にはかれこれ40年程住んでいます。

(聞き手)
この地域の年齢構成は、どのようになっているのでしょうか。

(加藤様)
 65歳以上の高齢者が、およそ36%ほどおります。昔から住んでいる人の多い地区なのです。

(聞き手)
災害の話や教訓などといったものは、教えられてきたのでしょうか。

(対象者)
いえ、そういったものはありません。

(聞き手)
区長さんは、チリ津波や宮城県沖地震、水害などは経験されてきましたか。

(加藤様)
 宮城県沖地震での津波被害はありませんでしたが、チリ津波の時は経験しましたし、津波そのものも目撃しました。

(聞き手)
その時の経験が、今回の震災で何か活かされましたか。

(加藤様)
 いえ、それはありません。何しろ、規模が全然違っています。しかし、大災害の平均周期などのデータはある程度信用していましたので、2009年に災害準備金の積み立てを始めていました。もし何かあったら、その積立金で対応しようと考えていたのです。そのお金で備品を少し購入したり、備蓄用の食糧を用意することを考えていました。ですが、まさか2~3年後にこんな災害に襲われるとは思っていなかったので、当初は、批判も多くありました。「いつ地震が来るかというデータについて、これだけでは乏しいのではありませんか。」と言う方もいらっしゃいました。予測は難しいことなので、誰だってそう考えたと思います。
 代わりに、災害準備金を集めることには抵抗がありませんでした。その前にビデオを作って、もし地震や津波が来たらこうなるということを、集会がある度に流していました。半分は、強制のような形になってしまいましたが、こうした行動のおかげで、事前にそういうものが必要だと分かってもらえたと思います。
 2009年には、大代地区全域で合同防災訓練を行いました。緩衝緑地公園に600人ほどの参加者を集めて、その方たちに、今まで起きた地震の惨状をビデオ化した映像を見てもらいました。そのお陰で皆さんの関心を集める事ができました。地震は周期的に来ているので、いずれ来ることは間違いないという確証を、私は持っていました。そういったデータ収集は、私の得意な分野の一つでもあります。

(聞き手)
 発災してからの対応はどのようなものでしたか。

(加藤様)
 発災時には自宅におりました。私のパソコンは受信機が付いていて、回線が落ちてもインターネットに繋がるようになっています。ですので、情報はテレビより先に確保できました。その後、津波が来るということ以外、海の状況が分からなかったので、南三陸町と気仙沼のFM放送を聞きました。その情報をもとに、多賀城ではあと何分後に津波が来るのか、おおよそ把握できました。
 多賀城市の防災広報は停電で聞こえない状態だったのですが、私のところには、トラックに積み込める広報装置があったので、それを使って地区住民に津波が来ることを知らせ、避難を促しました。また、高台にいる人たちには、そこから動かないように伝えました。情報が早かったお陰か、第一波が来る前に移動は終わりました。ですから、この地区では最低限の被害で済みました。
 その後、指定避難所の東小学校の体育館に向かった方もおりました。体育館は、避難所として開設されましたが敷物がありませんでした。寒さのため、具合が悪くなってしまったお婆さんもいらっしゃいました。救急車を呼んでも来ないため、私の車で坂総合病院まで搬送しました。治療が終わったら連絡するようにとトランシーバーを病院に置いてきました。携帯電話が通じなかったためです。治療が終わったらまた病院に出向いて、その人と一緒にトランシーバーを持って帰ってきました。一番困った事は病人の搬送でした。他にも、薬が切れてけいれんを起こしてしまうような方もおりました。救急車はほとんど来なかったので、3~4日後にはそのような仕事が増えました。同時に、常飲している薬を持っている方には、体調をご自身できちんと制御するように伝えました。
 また、限られた食糧でしたが、考えている通りの食糧配分などをすることができました。水や電気、ガス炊飯器などがなかったので、炊飯すること自体難しかったですが、どうにか米を炊くことができ、集会所で配りました。水もなるべく少量で我慢してもらって、飲料水は一日に20リットルの瓶2本というように決めて配っていました。自分たちでなんとか確保できていたので、他の地区と違って、給水車や食料の配給を持つようなことはありませんでした。

(聞き手)
 電気等のインフラの寸断を予測し、情報不足を防ぐための準備もしていたとのことですが、どのような準備をされていたのですか。

(加藤様)
 前々からそうなるだろうと想定していたので、発電機を起動させて、パソコンやテレビ、ラジオを全て使えるようにしてありました。ですから、情報不足にはなりませんでした。塩釜にはエフエムベイエリアという災害FM局があるのですが、そこに助けてもらった部分がだいぶあります。エフエムベイエリアは、震災の2日後に臨時災害FM局として申請をして、塩釜市役所から情報発信をしていました。その放送が大代北区まで届いていたのです。テレビでは県単位の情報しか流れてきませんが、ベイエリアでは地区単位の情報を聞くことが出来たので、行動の参考になりました。例えばどこの商店で何を配布しているというような情報も知ることが出来ました。災害時は情報を得ることが一番重要です。市では防災放送を防災無線に変えましたが、それも必ず聞こえるとは限りません。災害FM局を早く立ち上げて、ラジオで地域の情報を知らせることで、情報不足を防ぐことにつながるのではないでしょうか。
 区長会のブロック研修会で、先進地の災害FM局の見学のため、気仙沼に行ってきました。気仙沼の防災FM主局は南三陸町の本吉にあります。多賀城市は浜に隣接している地域なので、ここも主局になることができるだろうと考えています。

他地区と異なる防災訓練

(聞き手)
大代北区での防災訓練の様子について、お話しください。

(加藤様)
 大代北区では、防災訓練を年に1回行っています。そして、その防災訓練そのものは他の区と少し違った形を取っています。災害がいつ来るか分からないということを意識し、その時に住民の一番不安なことを確認する内容としています。
 では何をしているかと言うと、発災直後に何が最も困るか、想定意見を出してもらいます。例えば携帯電話が使えなくなり、停電で通信手段がなくなるという想定が出ます。そのために、携帯電話の充電器を40個ほど、私たちの区では用意してあります。また、集会所にいる間は集会所からもらえる情報で間に合いますが、他のところは電気がないと何もできなくなると思われるので、情報収集が出来ません。そのような時に、外へ向けた情報発信が必要だと考えました。トランシーバーは7個ありますが、それを持つ全員に、いざという時の応対を教えてあります。地区で作った防災マップの中にトランシーバーを持っている人の位置が書き込んでありますが、そこに行けば今の状況が分かるようになっています。逆に、よそからもらってきた情報はどうにか録音しておいて、それを後で他の受信機に流し、このような情報が来たと伝えるようにしています。とにかく情報を流すということは、皆さんが希望されていることなのです。

早期完了を願う下水道工事

(聞き手)
 多賀城市の復旧復興についてのお考えをお聞かせください。

(加藤様)
 復旧復興のお話しですが、多賀城市単独で出来ることは限られるのではないでしょうか。今行われている下水道工事ですが、下水道の復旧は特に早く進めてもらいたいと思っています。当時は下水道が壊れて、大代地区にある終末処理場に雨水が入ってしまいました。本来は下水と雨水は全く別なのですが、仮に雨水が入り込んでしまうと、何十倍もの量の水を処理しなければいけません。

パソコンや通信機器による情報共有方法の検討

(聞き手)
 震災後に、記録映像を撮影されたと聞きましたが。

(加藤様)
最初の2日間は指示や物資の配布、運営の手伝いに追われて、全然暇がありませんでしたが、ようやく手が空いた頃に、その辺りを見て回り記録写真を撮っていました。

(聞き手)
 写真はどれくらい撮影されたのでしょうか。

(加藤様)
 たくさん撮りました。当時は河川が壊れて、車も流されていましたし、橋に木がぶつかって欄干が壊れていました。他にも公民館の前にある家に車が飛び込んで家を壊しているような写真もあります。これらの写真を歩いて撮影してきました。

(聞き手)
それらの写真を撮影したのはいつごろですか。

(加藤様)
 確か3日目です。被害がどれくらいだったのか分からないので、撮ってきて、地区の方たちに、こんな被害が出ていると見せました。それ以外については、ビデオを作り、DVDに焼いて残してあります。何かの時に備えて、私たちが持っている記録を使ってもらえるよう、500ギガビットのハードディスクにいっぱい入れてあります。

(聞き手)
 パソコンを使いこなしていらっしゃいますね。

(加藤様)
 仕事でCADを扱っていたので、相当パソコンは使用していました。今では動画を作るなど、ボケ防止の一環としてパソコンを使っています。他にも、例えば防災広報が行われた際に、このパソコンでその放送を受信し、録音できるようにしてあります。こうして手に入れた情報を、ここから地区のトランシーバーへ伝達できます。このような行動が自分でできるということは、みんなの役に立てるということでしょう。Wi-Fiを使って情報共有することもできるので、そういった仕組みと環境を作って、何かあった時に共有させることができればとても便利になるでしょうね。みんなに少しずつでも覚えてもらって、引き継いでもらう必要があると思います。

高齢者と若者の2つの防災組織で対応

(聞き手)
 ではそうしたアプリやソフトを使いこなして、共有するということも教訓として伝えていきたいことに含まれるのでしょうか。

(加藤様)
 それもありますが、私たちは一度災害に見舞われているということを、しっかりと肝に命じ、また来るかもしれないということを分かって頂きたいです。この地区は、障害物がないので、真っ先に津波が到達してしまいます。津波の高さも増せば、被害区域も拡大します。ですから、津波が来るという情報が流れて避難する時は、迷わず高台に逃げるということが大事です。そうすれば、水害時に犠牲者が出なくなると思います。これからの教訓と言うのは、災害が起きたことや、その被害状況を的確に伝えられる仕組みを作ることだと思います。物の被害よりも命が大事です。若い人たちにそうした優先順位を覚えて頂き、その人たちが家族や区民に指導をして頂ければ、安心できると思います。私の地区の防災組織は、二つに分かれています。休日の昼間でない限り、ここには高齢者の方しかほとんどおりません。ですから、高齢者の人たちで構成された防災組織と、夜間や休日に若い方たちが参加する防災組織に分かれてあります。その2組で対応していますが、今回の震災でも、家にいる方が対処しなければならず、高齢者の方が動かざるを得ない場面が多くありました。2日目以降は戻ってきた若い方も含めて活動できますが、それまでの間が最も辛い期間になります。高齢者の方には、力や瞬発力はないので、代わりに、知恵と準備、設備でカバーするしかありません。そのために必要なものは、全て用意しておく必要があります。

(聞き手)
今後の課題はございますか。

(加藤様)
 多賀城市役所で対策を講じてほしいことは、全て伝えています。地区の課題はその中に含まれていますが、要望は予算の制約もあるので、実現は難しいものもあるでしょう。私たちは、震災が来る時期が確実に近付いている事を分かっていたので、ある程度の物を備蓄していました。地区での災害時の取り決めが役に立ちました。

(聞き手)
最後に何かございますか。

(加藤様)
 震災時、実は大代北区では、市から、給水も食糧も、支援を受けませんでした。
 地区の取り組みにはそれぞれ事情があるので、市の支援を受けたものと受けないものとの違いを理解してもらいながら、それらにきちんと適合した支援の在り方を市では考える必要があると思います。ぜひ、今後の公的支援の在り方を考える時のヒントにしてもらいたいと思います。
 津波はまたいつ来るか分かりません。貞山運河や砂押川の堤防の嵩上げや下流部分の壊れた箇所の修理、対策を急いでもらいたいと思います。