(聞き手)
発災時にはどちらにいたのですか。また、発災後は、どのような行動を取ったのでしょうか。
(我妻様)
発災時は自宅居間におりました。それから、すぐに通信機で連絡を取りました。
今考えると反省すべき点ですが、当時はテレビが全く点かなかったので、代わりにラジオを聞くという発想を思いつけませんでした。
避難指示についての事ですが、市の
防災行政無線は聞こえませんでした。
しかし、私はすぐに、この地震の強さだと津波が起こるだろうと予測出来ましたので、代わりに自宅の庭先から避難指示を出しました。
その時ちょうど、私たちのグループの1つが八幡でボウリングをしていました。
その時に地震が起きたので、危ないながらも車で逃げたそうです。
国道45号をまっすぐ来て、笠神新橋を渡ると、堤防が切れているのを見つけました。
そこで、すぐに私に連絡が来て、堤防が切れている状態を知らされました。
そこで鶴ケ谷3丁目の人たち全員に、トランシーバーで避難指示を出し、早めに対応する事が出来ました。
前年にもチリ地震で津波の予測が出ていたので、その時は222名の人たちが避難しました。その経験もあったので、同じように、鶴ケ谷3丁目と鶴ケ谷集会所付近の人たち全員を避難させる事にしました。
当時は隊員の第1班が天真小学校の下校パトロール中でした。
その時、隊員のお一人が、
子どもたちの下校をストップさせていました。
その時に取った行動が、後に桜木の
子どもたちを助けた大きな要因になりました。
もし、下校
時間が10分早かったら、
子どもたちは全員、笠神新橋を渡り、桜木または八幡の自宅に帰ろうとして大変なことになっていたでしょう。
私は隊員の
情報を正確に分析し、行動指示を発信しました。
(聞き手)
指示を出す人の存在は大事なのではないでしょうか。
(我妻様)
私が指示した内容も記録にまとめています。自宅の庭先で報告を受け、指示を与えてメンバーを全員動かしました。メンバーの一人は民生委員でもあって、足や体の不自由な人の家を回って確認し、全員退避が終わったという報告も私が受けました。
今考えると、この一連の行動をしていなかったら、恐らく津波が来るまで、津波が来ているとわからなかったかもしれません。
また、地区では家に置いてあった車が流されました。
しかし、在宅している方もいたので、私は「車を運転出来るなら、車に乗って早く天真小学校に上がりなさい」とその家の方たちに伝えていました。パトロールを立てて、渋滞している車の交通整理を行いました。
私は雪深い青森県や、昭和38年に起きた新潟の豪雪による雪の災害対策を行ったことがあり、
時間との戦いが命を救えるかどうかの分かれ道になる、というところまで経験済みです。
ですから、人間というのは死ぬ寸前まで戦った人間と、そういう境遇に遭っていない人の差があるのです。
その経験を体の中で覚えているものですから、30秒、3分、30分という言葉が出て来ます。
時間との戦いが
重要なのに、これでいいからこの辺で止めようという事では良くない訳です。