防災・減災への指針 一人一話

2013年11月16日
道路の通行を確保することの重要性
多賀城市交通安全指導隊第二班長
大江 冨士雄さん

発災時から3日間の出来事

(聞き手)
 発災時の状況と、そこからの行動を教えて頂けますか。

(大江様)
多賀城八幡小学校近くの薔薇を育てているハウスにいた時に地震に遭いましたが、ハウスの方は大丈夫だと思い、自宅に戻りました。自宅の中に入りましたが、地震直後は特に変わりなく、2階の階段の壁に被害があっただけでした。
隣の方が体が不自由なので、大丈夫ですかと声を掛けて、その後、自宅2階の階段の壁の片付けをしていました。
そうするうちに、「ザワザワザワザワ」という音が聞こえて来ました。今思えば、津波の音だったと思います。その音が聞こえて来たので表門の方に行ってみたところ、津波が来ていました。
 驚いて急いで家に入ると、すぐに水が来ました。
お風呂場にあった下着の入っている入れ物を持とうと思った時に津波が来たので、急いで2階に上がりました。
そこで、ハッと思って2階から庭を見ると、隣の家にも水が来ていました。台所の窓から、隣に手伝いに来ていた男の人も見えました。家族と2人で様子を見に行くと、隣の方は窓から体を出していました。その間にも水があがってきたので、助けなければと思い、家族に「ロープを持って来い」と言ったのですが、既にロープのある1階へは行けなくなっていました。ちょうど地震の時に仕事をしていてハサミを持っていたので、代わりにシーツを持って来させて、ハサミで切って、それを7枚くらい繋いでロープを作り、2人を助け出しました。
助けたのは良いのですが、1人は体が不自由なので、2階の部屋に上げることが出来ません。どうしようと思いましたが、屋根が瓦ではなくトタン屋根だったので、今度は畳を2枚はがして屋根に置いて、3人でその人を上げて部屋に入れました。そのまま一晩か二晩、2階にいました。
ずぶ濡れになり寒かったのですが、それほど気になりませんでした。古い布団がたくさんあったので、それを掛けて寝ました。
次の日まで、まだ水がありましたから、丸2日ほど2階にいた事になります。
3日目になり、長野県の消防隊員の人たちが来て、救助艇に乗せてもらい避難しました。そして、全員で多賀城小学校に避難し、私は一晩だけ泊まりました。電気もありませんでしたし、噂で「泥棒が入るから危ない」というのを聞いたからです。
帰って来た時は水もだいぶ引いていたので、消防団分団の人間も出動しているだろうと思い、今度は市役所通りにある地区の分団の詰所に行きました。その間に、交通安全指導隊の隊員の仲間に会いました。
 私は3日目から1週間、交通整理に出ていました。その間、隊員の仲間5、6人にも来てもらい、交通整理をしました。

(聞き手)
その時に何か印象に残ったことはありますか。

(大江様)
緊急車両の交通だけを許可していましたが、駄目だと言っても一般の車両もかなり入って来たのを覚えています。ですが、自衛隊と消防の車を優先的にして、交通整理をしていました。

(聞き手)
その頃は、緊急車両だけではなく、一般車両でも混雑していたのでしょうか。

(大江様)
市役所通りには水があり、被災した車がたくさんあったので、自衛隊のブルドーザーで全部押して、道路のスペースだけは確保していました。
消防の人たち以外にも、市役所に食糧を持って来る自衛隊の車も結構来ましたので、その整理をしていました。
その間に、一般の人たちも心配してずいぶん来ました。歩いて来る人も多く、自転車で来ていた人もいました。

(聞き手)
ご自宅は、ここ(薔薇を育てているハウス)からどれくらい離れた場所ですか。

(大江様)
ここから2キロくらい離れた八幡地区にあります。砂押川から近い場所ですから、浸水のひどい地域です。
私たちはずっと2階で寝ていましたが、自宅も大変な状態でした。

(聞き手)
津波というのは初めてのご経験だったのでしょうか。

(大江様)
初めてです。中学校の時にチリ地震があり、塩釜に見に行ったことがありましたが、実際に遭遇したことはありませんでした。
今回の津波は凄かったです。
外を見に行って、家の中に戻って来て、部屋に入ると、何もする間もなく、あっという間に腰まで水が来てという状態で、本当に驚きました。

(聞き手)
交通整理したり、隣の家の方を助けたりした時には、どのような事を感じられたのでしょうか。

(大江様)
津波に遭った人と、遭わない人の差がもの凄いと思いました。私たちが救助されて避難したのは3日目ですから、ずいぶん物資は来ていたようです。
しかし、私たちが避難所に行った時は、津波に遭って着るものもありませんでした。
自宅は2階が無事だったので、家族の避難した所へ自分の毛布を持っていったりしました。津波に遭った人は本当に着るものすらなく、地震だけで津波に遭わない人とは、被害に雲泥の差がありました。

在宅避難者と物資配布の問題

(大江様)
物資も、最初は届きませんでした。水もなく、本当に大変でした。
しかし、水が引いてから魚屋さんに行った時、「これ食べられるから持って行け」と言われ、段ボールに、いろいろな食糧を頂くことが出来ました。
そして、2晩自宅で過ごし、避難していた全員で3日目に避難所に行き、物資をもらう事が出来ました。

(聞き手)
 多賀城には何年くらい住んでいらっしゃるのでしょうか。また、どのような備えをしていたのでしょうか。

(大江様)
多賀城市には生まれた時から住んでいます。
備えや対策については、特にしていませんでしたが、農家なので、米はありました。8.5水害の時も自宅は床下浸水になりましたが、その時は飲み水には不自由しませんでしたから、あまり備えというものは頭にありませんでした。
今回の被害では、飲み水をずいぶんと頂きました。私の親戚に井戸を持っている人がいるので、そこから頂いたりもしました。

(聞き手)
過去の災害の教訓伝承はありますか。

(大江様)
 教訓伝承のようなものはありません。私は昭和61年の8.5水害を経験しましたが、今回の津波被害とは全く違います。
8.5水害の時は雨による被害だったので、流れてきた水は真水でした。しかし、今回は、汚いという言い方はおかしいかもしれませんが、津波による被害で、流れてきたのは塩水で汚い水でした。
 ハウスも塩水に浸かりました。
ハウスの中にフグなどの海の魚がいたくらいです。
薔薇は塩水に弱くはありませんが、株の頭から浸かってしまったものは駄目になってしまい、半数以上が被害に遭いました。
また、断水で水が来なかったのも、薔薇がだめになってしまった大きな要因です。

震災後の子供たちの変化

(聞き手)
 震災後、交通安全指導隊の活動を通じての変化は感じましたか。

(大江様)
交通安全指導隊は、毎月決まった日に道路に立って、登校時間の見守りをしていますが、子どもたちがあいさつをしてくれるようになりました。今までは子どもたちは黙って歩いていましたが、「こんにちは」と声を出すようになりました。顔も覚えてもらっています。
このような変化は震災以降のものです。
子どもたちにとっても、津波の記憶は凄まじく恐ろしいものだったと思います。そのため、津波の後は、全然話をしなくなった子も結構いましたし、川を見ると震える子どももいました。

(聞き手)
そういうお子さんには、どういう声掛けをされていましたか。

(大江様)
「おはよう」や「こんにちは」と言う事しかできませんでした。
私の孫もここに来ていた時に地震に遭いました。孫の自宅は利府なので、すぐに帰しましたが、それから地震になると少し怖がりますので、地震の後遺症は大きいと思います。

(聞き手)
多賀城市に対しての要望などはございますか。

(大江様)
要望という事ではありませんが、交通問題や避難所のルートについて市と話し合っています。地区の人の意見を聞いて、検討会で話し合います。頻繁ではありませんが、交通安全指導隊の幹部が話し合い、交通問題等の意見を市に伝えたりもしています。

国道以外の道路の確保の重要性

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧復興に向けての考えがあれば教えてください。

(大江様)
復興といっても、今進んでいるのは復興住宅だけだと感じていますし、建物を建てるスピードも遅いと思います。
復旧復興という意味では、多賀城市では瓦礫もなくなり、一応はずいぶんと復旧復興したと感じています。
交通安全指導隊として毎日道路に立って思ったことは、多賀城近辺の道路の確保は早かったと思いますが、狭い道路も早く通れるようにした方が良かったのではないかという事です。
主要道路の国道45号の車の撤去が早かったので、45号は早い段階で通れるようになりましたが、狭い道路は自転車も通れず、歩くしかありませんでした。

(聞き手)
 後世に伝えたい事はございますか。

(大江様)
月並みかもしれませんが、水、食糧、そして着るものを確保しておかなければならないと思います。備蓄は1階にばかり置いては駄目で、2階に置く必要があります。また、電気のコンセントも、少し高い所に付けないと駄目だなと感じました。

(聞き手)
お孫さんのような世代の方に伝えたい教訓はありますか。

(大江様)
まずは、「津波になったら逃げろ」という事です。高い所に逃げろと言う他ありません。

(聞き手)
交通安全指導隊をしている中での教訓や、今後の指導隊の方へ伝えたい事はありますか。

(大江様)
連係プレーが大切です。今も連係プレーは取っていますが、緻密な連絡をしないといけません。

(聞き手)
 これまでの質問以外の内容で話しておきたいことがございましたらお願いします。

(大江様)
避難広報は早くしてもらった方が良かったように思います。
津波が来ることは全く知りませんでしたし、ラジオを聞いていても、あまりよく聞き取れませんでした。
そのため、交通安全指導隊も、情報を聞く側になってしまったのかもしれません。