(聞き手)
発災後、
消防団員としてすぐに出動されたとお伺いしました。
(津田様)
災害時には地域の安全を確保することに努めています。危険が迫っているとの判断で即座に出勤しました。
分団員はポンプ車で津波警報の広報活動をし、私はラジオから流れる報道に驚きつつも、砂押川の水位を鎮守橋の上から確認していました。
そうすると、沖の方から真っ黒い油のような水が大きく波打って迫ってきて、船尾も橋げたにぶつかりました。
慌てふためいて、
消防団第五分団のポンプ小屋に戻ろうとしたところ、国道45号から大きな波とともに数台の乗用車、大型トラック、パトカー、そして、人が流れてくるのが見えました。
まるで映画のワンシーンのようで、事の重大さに足がすくんでしまいましたが、フッと我に返り、
区長としての業務をすべく、避難所となっている八幡公民館に向かっていました。
そこは250人くらいの人でごった返していました。
横にもなれず、座ったまま一夜を過ごしました。
ちょうど、八幡公民館は工期を早めて耐震工事を終えていました。
この災害の事を予期していたかのようです。
私の弟が手がけた工事でした。
(津田様の奥様)
震災時、主人と一緒に、孫の卒業式に出席し、外で昼食を終えて、イオン多賀城近くの集合店舗の駐車場でものすごい揺れを感じました。
すぐ、車で帰宅しました。
その時、主人の弟は仕事現場から二回ほど、主人が経営する工務店の事務所に来たのですが、主人はすぐに
消防団に出勤したので会うことができませんでした。
いつも笑顔の塊のようだった弟が、珍しく落ち込んだ様子で軽トラックに乗る後姿が走馬灯のごとくよみがえってきます。
主人は退院したばかりだったので、弟は「兄貴は? 兄貴はどこ行ったの?」と心配した言葉が、私の聞いた弟の最後の言葉でした。
(聞き手)
宮内にある八幡神社の隣が弟さんの自宅でしょうか。
(津田様の奥様)
はい、そうです。
自社の倉庫兼作業所も隣接していましたが、全て被災しました。
弟は八幡にある事務所から宮内の家族のもとに戻り、家族5人が車2台に分乗し、イオン多賀城の手前辺りで津波にのみこまれたようでした。
弟の妻は仕事や休みで自宅におり、長女は里帰り出産で退院し、初孫は生後20日目でした。
長男も仕事が休みで彼女と逢っている時に地震にあい、すぐさま自宅に戻ったとの事でした。
いつも仲の良い家族だったので5人一緒に逃げたのでしょう。
2日経っても連絡が付かず、嫌な予感がしていました。
遺体捜索のため、
ガソリン不足の中、お隣の利府町にあるグランディ21に毎日通いました。
1か月後、それぞれ別の場所で発見された5人が変わり果てた姿で帰ってきました。