(聞き手)
東日本大震災以前にしていた備えと、過去の災害の
経験などについてお聞かせください。
(矢部様)
震災当時は多賀城
中学校に赴任して1年目で、生徒指導主事という立場でした。
通常の避難
訓練などに毎年取り組んでいましたが、生徒たちを避難させることに集中していたため、住民の方々の誘導や、避難所の運営に関しての備えはあまりありませんでした。
子どもたちを避難させることに対しては、何度も
訓練していたので、その形態だけは出来上がっていたと思います。
しかし、震災当日、多賀城
中学校は子どもたちが帰宅していたため、子どもたちを避難させるという状況にはなりませんでした。
私は宮城県沖地震の時には宮城県に住んでいなかったので、大きな地震の
経験はありません。
しかし、多賀城市はかつて水害が多数発生していたので、その時には子どもたちを避難させて、登下校に関して、保護者とのやりとりをするという
経験はありました。
(峰岸様)
私は、宮城県職員として、多賀城市
学校給食センターに勤務しています。
赴任して1年目の時に東日本大震災を
経験しました。
宮城県沖地震の時は東京にいたため、電話がなかなか通じなかった事は覚えています。
水害に関して、今まで大きな
経験をして来たことはありません。
給食センターに赴任して来た年は色々な事があったため、避難
訓練などが出来ませんでした。
津波の
訓練ではなく、火災が発生した際の
訓練は計画されていましたが、その年は
訓練をしていない状態で震災に遭遇してしまいました。
そのため、どこに逃げるかなどの
判断がとても難しかったです。
途中から
判断をしなくてはならない立場になってしまい、責任を感じた部分がありました。
(聞き手)
発災直後の行動や出来事で、印象に残っている点があれば教えて頂けますか。
(矢部様)
3月11日は卒業式当日で、生徒たちを全員帰宅させて、看板などの片付けを校門近辺の駐車場でしていた時に地震に遭いました。
他の先生方は職員室に残っていて、卒業生に卒業証書を渡して、一息ついていた時の事でした。
揺れの最中は、停まっていた車が揺れで動き始めたと同時に、地面にヒビが入っていくのが見えました。
街灯もススキのように揺れ動いていたり、理科室のガラスが割れるのが見えたりとそんな状況でした。
そして5分くらい経ってから、すぐに職員室にいる先生方に、テニスコートに出るように声を掛けたのを覚えています。
みんなが出て、揺れが収まってから5分くらいおいて、校舎点検をしようと声を掛け合って、校舎の中に一斉に戻りました。
余震があることを想定したら危険だとは思ったのですが、カメラを持って、校舎の中の壊れた所はないかを撮って歩きました。
そのうち津波が来るという話が聞こえていて、サイレンも鳴り始めていました。最初は消防車のサイレンかと思っていました。
その時に、携帯電話のワンセグ放送で、名取の映像を見て、初めて危機感を覚えました。
パソコンが水没するのを防ぐために、みんなでパソコンを持って3階へ上がり、校舎の上でもワンセグ放送を見て、大変な状況であることを把握しました。
また、多賀城
中学校の生徒指導主事の立場としては、
安否確認がとにかく大事でした。
当時は様々な方法を使って安全確認をして、全校生徒518名全員の命が無事だと確認し終えたのは、3月15日の午後4時のことでした。
(聞き手)
多賀城
中学校は避難所になりましたが、市民の方の様子はどうでしたか。
(矢部様)
初め、体育館に避難されてきた方は少しでした。
津波の映像を見た段階で危険だと校長先生が
判断したと思うのですが、多賀城
中学校は避難所になっていましたが、過去に水害に遭ったことがあったため、ここも危険なのではないかということで、20人か30人くらいの避難者に声を掛けて、多賀城
中学校より高い所にある天真小
学校に上がってくださいというお願いをして、移動して頂きました。
1週間くらい前にも地震があったため、市民の方はさほど混乱していませんでした。
(峰岸様)
私は多賀城市
学校給食センターにいました。
多賀城
中学校の卒業式に出席して、給食センターに帰ったのが午後2時半頃でした。
そして、一息つこうと思っていた時に揺れ始めました。
地震の時は狭い所が安全なので、2畳くらいの着替え室に移動しようと思ったのですが、揺れが大きかったため、すぐに外に出ました。
給食センターの隣に、大きい食品工場があるのですが、そこから100人単位の方が逃げていたのを見て、上司が逃げるように
判断し、私たちと調理員総勢30名くらいが、所長が指示した場所に向かいました。
そこに行く途中、私たちの姿を建物の中から見ている人たちがいて、津波が来るから危険だと言われました。
津波が来ると聞いていて、砂押川からの津波も心配だし、市役所まで逃げようかというように
判断に迷いました。
しかし、私も以前、多賀城市内に勤めていた事もありましたし、委託業者の方も多賀城の居住歴が長い人だったので、天真小
学校に行こうという
判断をしました。
そこから、仙塩総合病院のところを通って、小走りで逃げました。
その辺りに集合住宅などもあるのですが、集合住宅の20人から30人くらいの人がグラウンドのようなところに出ていましたが、逃げずに様子を伺っているようでした。
ですが、自分自身も津波の情報は半信半疑で、声を掛けるのも余計なお世話なのではないかと思い、とにかく、私たちは逃げることにしました。
逃げている途中に、石巻に5メートルから7メートルの津波が来ているという情報が聞こえました。
私は先頭の方で逃げていたのですが、全く
経験がないので信じられないという気持ちでした。
天真小
学校に着いたのが、午後3時45分か50分くらいでした。
天真小
学校の体育館は、住民の方が沢山いて入ることができなかったので、木の下にいました。そこから30分くらい経つと、教室も開放されて、私たちは教室に避難できました。
私は、毎日、砂押川沿いを通勤していて、潮の満ち引きで水位が高くなったり低くなったりしているのを見ていたので、多賀城は海が近いだろうなとは思っていました。
しかし、給食センターの辺りから海は全く見えないので、本当に津波が来るのか半信半疑でした。
砂押川にかかる笠神新橋を渡って、天真小
学校に逃げれば大丈夫だという思いで逃げました。