防災・減災への指針 一人一話

2013年11月19日
被災企業としての思い
福島印刷工業 東北事業部 事業部長
遠藤 太市さん
福島印刷工業 東北事業部 次長
佐々木 俊さん

被災した中での製品供給

(聞き手)
震災当時の対応についてお聞かせください。

(遠藤様)
宮内地区の工場が壊滅状態でしたので、本社のお客様及び事業部のお客様への供給責務を果たすべく奮闘していました。
社長が陣頭指揮をとり、お客様に対しての供給状況や材料供給から生産工程などを命令されて動いていました。当然、東北事業部は工場が被害に遭い待機状況でしたが、工場の2階にあったデータ関係を本社工場へ移管し、それをもとに製品を供給する準備をしていました。

(聞き手)
市民の方との関わりはありましたか。

(遠藤様)
多賀城市や工業団地と、物資などを体育館や避難所等々に提供するという協定を結んでいましたので、本社から送られて来た救援物資について、従業員の分を確保した上ですが、余剰分を多賀城市に供給しました。ブルーシートより段ボールが重宝され、梱包材としてだけでなく、床や壁の代わりに使えて、寒さもしのげましたし、このような物資を送るといった面で市民の方と関わっていました。

(聞き手)
 対応の中でうまくいったことがあればお話ください。

(遠藤様)
うまくいったことは、お客様に対して早急に対応でき、滞る事なく供給が出来た事です。それを受け、平成24年5月に、ソニー様からは、お互いに被災者という立場であったのですが、感謝状を頂きました。

(聞き手)
うまくいかなかったこと、大変だった事はありますか。

(遠藤様)
機械が壊滅状態で、設備が整っていなかった事が大変でした。
また、救援物資を持っていき皆さんに配るのですが、こちらで必要だろうと揃えたものと、現地で欲しがっているものが一致せず、苦労したという事はありましたが、大体は供給出来たと思います。

(聞き手)
 多賀城市内へは、いつから勤務されていますか。

(遠藤様)
 平成元年5月に社員として東北事業部に入社しました。

(佐々木様)
多賀城市に来たのは、昭和52年くらいだと思います。

(聞き手)
震災後の従業員数は何人くらいでしょうか。また、再開した時期はいつ頃だったのでしょうか。

(遠藤様)
31~32人です。再開したのは平成24年5月の連休明けです。

(聞き手)
発災前に、備えや対策はしていましたか。

(遠藤様)
震災前の地震対策は、避難経路の確認や防火訓練など基本的な事で、備蓄はしていませんでした。

(聞き手)
他に経験された災害はありますか。

(佐々木様)
水害に遭った時は大変でした。まわりの道路が冠水して車が出られない状態でしたので、従業員と会社に泊まった事がありました。

避難手段の徹底

(聞き手)
今回の震災では、津波が来るという意識はありましたか。

(遠藤様)
平成23年3月9日の昼に震度5の地震が来て津波警報が出ましたが何も起きませんでした。
東日本大震災はその翌々日の事なので、また被害はないのかなと思い、自宅にいた両親は、歩いて近くの幼稚園に避難したそうです。

(佐々木様)
私は、会社まで津波が来ると分かったので、従業員と外に出ました。津波が来たとしても、足元程度の水かさで、大丈夫だろうと話していました。     
まさかあれ程の津波が来るなど思ってもみませんでした。
幸い、従業員は全員無事でしたので帰宅させました。従業員からは「帰してもらって良かった」と言われましたが、もしも途中で何かあった場合の事を考えると、誰が責任を取るのかという事になりますので、今になって、帰してしまったことは間違っていたと思います。

(遠藤様)
弊社は、帰宅させる判断が早かったと思います。中途半端に待機させて、10分、20分と遅れていたら、交通渋滞に巻き込まれていたかもしれません。

(佐々木様)
弊社は2階建てで、1階が3メートルほどある建屋なのですが、2.80メートルの津波が来ましたので1階部分は壊滅しました。
従業員が1名だけ自宅の鍵を忘れて会社に戻って、2階に上がり、出ようとしたら津波が来たので、そこで一晩過ごしていたところ、工場の陰に流されていた人を救助して、2人で過ごしたという報告を受けています。

(聞き手)
震災前の防災訓練は今回の震災で活かされたのでしょうか。

(佐々木様)
地震や火災の訓練はありましたが、津波の訓練というのは今まで一度もした事はありませんでした。
震度7の揺れの中、腰が抜けて歩けなかったという人もいたので、正直なところ、活かされた事は何もありませんでした。

マニュアルか、現場の判断か

(聞き手)
マニュアル等があったと思うのですが、その中で活かされた事は何かありましたか。

(佐々木様)
マニュアル等ではなく、各々のリーダーの指示で、会社の中に残らず全員一旦外に出て、待機していました。その場のリーダーの判断が功を奏したと感じています。

(聞き手)
 これからの多賀城の震災復興に、どのような思いをお持ちですか。

(遠藤様)
多賀城市に期待することは、防潮堤を作り、工業団地の活性化をしていただきたく思います。
また、飲食業界などの企業に対する早期立ち上げの協力に注力し、早く復興して頂きたいところです。

(聞き手)
多賀城市の復興のスピードはどのように感じていますか。

(遠藤様)
多賀城市は他に比べれば早いと思います。
弊社も、震災後、ソニーさんの建屋内にある復興パークに入居していましたが、こんなに早く、1年足らずで復興出来るとは思っていませんでした。

(聞き手)
現在は、震災前と大体変わらないくらいの業務になっているのでしょうか。

(遠藤様)
以前通りの業務ですが、震災と不景気で、受注がかなり減っているというのが現状です。

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたいことや教訓などはありますか。

(遠藤様)
私は、震災時、東京にいたのですが、やはり情報の把握が大事だと感じました。
また、工業団地として企業全体で避難訓練を実施すべきだと思います。
それと、人命第一という事を考えれば、車での避難というのは避けなければならないと感じています。
自宅の2階にいれば助かったのに、車で避難し、亡くなった方がたくさんいらっしゃいますので、その教訓は心に留めておかなければならないと思います。

(聞き手)
津波に対する意識と教訓を生かした行動が大事という事でしょうか。

(遠藤様)
皆さん、今までは地震だけと認識していたのでしょうが、今回の経験で地震イコール津波という考え方に変化したと感じています。

(聞き手)
これから入社する方に、伝承や教訓を残すとしたら、何を伝えて行きたいですか。

(遠藤様)
やはり、第一は、避難して人命と安全を守るという事です。
私たちは月1回必ず訓練をしていますが、会社や個人それぞれで、防災の意識を高めていければと思います。