(聞き手)
発災直後の対応や出来事などで、印象に残っている点はございますか。
(中村様)
私は高崎中
学校の前は大衡中
学校に勤務していました。山に近い所だったので、長い地震が終わり、揺れている最中はどうなるかという心配をしても、物がどんどん崩れていて職員室から動くことがあまりできない状態でした。
そこで、まずは出口を確保し、職員室の机の下に隠れていました。
子どもたちが卒業式の直後で帰宅したところだったので、
子どもたちを誘導する必要がなかったところは良かったと思いました。理科の先生はビデオを持って、すぐに外に飛び出して、その様子をビデオに収めていました。電信柱や電線などが今まで見たことないような揺れをしていて、大変だったという話は聞きました。
しかし、宮城沖地震クラスの地震が来れば、校舎が崩れてしまうと心配していたのですが、
耐震工事が終わった後だったので、大きな被害は出ずに済みました。
耐震工事によってそれだけ頑丈に作られているということに感心しました。
(狩野様)
平成23年3月11日午後2時46分に地震が起きて、49分には津波警報が出ました。
当時は6メートルという予想でしたが、20分ほど後になって、10メートルに変わったと記憶しています。
沖合の津波計は、あの時に実際は10メートルを観測していたのですが、まだ半信半疑だったのか9.1メートルにしたそうです。
しかし、仮に津波が6メートルだったとしても、卒業式が終わってからイオン多賀城店にみんなで集まろうと言っていた女子生徒がたくさん居たようだったので、生徒たちが心配だと同僚と話したことを覚えています。
他の先生方と校舎の点検をしたら、大人1人では起こせないくらいの重さの暖房機のほとんどが倒れていました。
たまたま生徒も居なかったので、事故が起きずに済み、ほっとしました。
しかし、その時は停電、断水し、ガスが全て遮断されて、ヘリコプターの音とサイレンの音しか聞こえない状況でした。
また、雪も降り出してきたため、当時の校長と大変な事態になったと話した記憶があります。
(聞き手)
生徒の皆さんの
安否確認はどうされましたか。
(狩野様)
体育館に十数名の生徒が居たので、その生徒の無事は確認できました。
しかし、大津波警報が3月13日の朝まで解除されなかったので、2次災害を心配していました。
震災当日の午後3時前には、数名の避難者が来ていて、そこから
学校を
避難所として開設して、最大で1362名くらいの避難者がいました。
後から分かったのですが、発災直後にみんなが着の身着のままで居るという状態は、「災害のハッピー期間」と呼ばれるそうです。
その時はみんなが同じ境遇のため、助け合おうという雰囲気でした。
多くの人が居た中で余震が続きましたが、私たちの
学校は耐震化されていたため、スピーカーで「震度6でも壊れない作りなので安心してください。」と私が言ったら拍手が起きたのには驚きました。避難者の皆さんは不安だったと実感しました。
(聞き手)
狩野先生のその当時の役割は、住民の方へ周知する役割だったのでしょうか。
(狩野様)
私は安全係でした。教務主任には、
無線機を持って市役所に行ってもらいました。安全係というだけで、なぜそのような立場になってしまったか分からないのですが、とにかく、指示を出すような立場になっていました。
午後3時50分くらいに市役所の担当者が来ました。そこから市職員の詰め所づくりなどが始まったのですが、高崎中
学校は非常にうまく立ち上げられたと思います。
また、多少のトラブルは起きたのですが、区長さんたちに集まってもらって、その日の晩には自治会の原型のようなものができました。