防災・減災への指針 一人一話

2013年12月03日
震災の教訓を伝えるために必要なこと
八幡花園幼稚園園長
鎌田 俊昭さん

発災時の行動

(聞き手)
 震災前には、どのような備蓄や備えをしていたのでしょうか。

(鎌田様)
 お恥ずかしい話ですが、備蓄に関してはまったく備えがありませんでした。
たまたま震災の時は、うちの幼稚園だけインフルエンザが流行していて、給食が大量に余っていましたので、それを震災の夜と翌日に食べる事が出来ました。
近所にある多賀城八幡小学校が大規模災害時指定収容避難所になっているのですが、小学校でも何の備蓄もなかったようで、先生たちが何か食べる物はないかともらいに来ました。
 震災直後は、気が動転し、津波の事を想定する余裕はありませんでした。
移転前の幼稚園では、水害に遭った経験がありました。
今から30年近く前、俗に言う8.5水害です。
その時は、床上15~20センチくらい浸水しましたので、ここを作る時にもそれを意識して設計していれば良かったのですが、うっかり設計士に伝える事を忘れていたため、今回も10センチ弱ですが水を被ってしまいました。
 従来も、6月には地震の避難訓練を行い、1月には火災の避難訓練を実施してきましたので、震災時にも、きちんとマニュアル通りに避難させる事が出来ました。
震災以降、避難訓練を頻繁に行うようになりましたが、回数は大事ではないのかもしれません。あまり頻繁に行っても、今度は慣れが生じて緊張感がなくなる可能性があるからです。
 震災当時の話に戻りますが、園内には先生達の他、園児が60人くらい残っていました。
まず机の下に潜って、地震が少し収まったところで先生の引率により園庭に出ました。それから、寒さを防ぐためにビニールシートを被っていました。
そこで想定外だった事は、私が地震のニュースを見ようと思い、携帯電話でワンセグ放送を見たところ、牡鹿半島で10メートルを越えるような大津波が来たということを伝えていました。
それで園舎2階に上がるように指示を出しましたが、子どもも先生も園舎に入るのを怖がりました。「また中に入って、地震が来たらどうするのですか」と言った先生もいましたが、津波から逃げる事を優先に考えて、そのまま指示を変えませんでした。
 以前、私は多賀城跡調査研究所に7年ほど勤務していた事がありまして、城南地区を発掘する機会がありました。
その時に30センチほどの砂の層を発掘して、同僚と「これは貞観の大地震の時の津波で出来た地層なのかな」と話をしたことがあったので、とっさに2階に逃げるという発想を思いつきました。
多くの人は、目の前に津波が来るまでわからなかったようなので、変な言い方ですが、歴史学者の判断は確かなものかもしれません。

(聞き手)
震災当日の夜はどのように過ごされたのですか。

(鎌田様)
 私には、二人の息子がいるのですが、震災当日の夜、長男は濡れても大丈夫な格好をして、私の寺から携帯用のコンロを持ってきてくれました。次男も色々な物を取りに行ってくれて、何とか、園舎で夜を過ごしました。
私はあまり寝なくても大丈夫なので、揺れがあるたびにろうそくが倒れないように何回も掴んでいました。子どもたちは皆熟睡していました。1人インフルエンザの子がいたのですが、不思議な事に、あの狭い空間の中で誰にもうつりませんでした。それには驚きました。

(聞き手)
 こちらの幼稚園には、周囲の住民の方は避難されてきましたか。

(鎌田様)
 そのような事はありませんでした。恐らく、皆さん、学校に行ったのでしょう。
しかし、私が住職をしているお寺には、最大で50人ほどの避難者の方が来ました。お寺の近辺は停電が長く、市役所近辺と近くの浄水場周辺ではすぐに灯りが点きました。これらの場所は、最初に電気が通ったのですが、私のお寺の周辺は津波の被害を大きく受けたので、10日以上は停電していました。

(聞き手)
水道についてはどうだったのでしょうか。

(鎌田様)
 完全に断水するまで時間があったので、衣装ケースやバケツに水を蓄えることができました。それでも、一晩経つと、水が使えなくなったので、トイレの問題には頭を悩ませました。
 話は変わって、幸いだったのは、帰りの通園バスを出さなかった事です。道路は寸断されていましたし、信号も停電していて大渋滞を起こしていたので、バスは出さない方が良いという判断からでした。
もしバスを出していたら、津波に流されていたかもしれません。助かった人と助からない人の話を聞くと、本当に紙一重だったと思いました。

防災無線の重要性

(聞き手)
 鎌田先生は地震後、テレビのニュースや発掘調査の経験から、津波が来ると意識されたとのことですが、その意識を持っていたことと、持っていなかったことが、大きな別れ道になったのでしょうか。

(鎌田様)
 その通りです。また、これは皆さんも言っている事だと思いますが、多賀城市では防災無線が一切鳴りませんでした。私の妻はちょうど、塩釜市との境目にある坂総合病院で薬の処方を待っていた時に地震に遭いました。塩釜市は過去にチリ津波で被害を受けている事もあり、防災行政無線がけたたましい音をたてて鳴ったようです。
妻は三陸育ちですから、高い所を通って逃げる事がわかっていたので、多賀城の山沿いをつたって帰って来たとの事でした。
そして、多賀城に戻って来た途端、防災行政無線の音が一切聞こえなくなったようです。防災行政無線が多賀城市でも鳴っていれば、だいぶ助かった人もいたと思います。それが残念です。

引き渡しのための名簿とマニュアル

(聞き手)
 当時の対応で良かった事、大変だった事をお聞かせください。

(鎌田様)
 まずは、お話ししたように、帰りの通園バスを出さなかった事が良かったと思います。同系列の桜木花園幼稚園では、保護者がお迎えに来て帰られた3名の園児が亡くなりました。
それから、平成24年8月に日本仏教保育協会の全国大会というのがあり、その場で発表したのですが「今どきの建物は簡単に壊れないので、沿岸部の幼稚園や保育園はとにかく高い場所に逃げろ」と、口を酸っぱくして話しました。
そういう意味では、当園では一部2階建てにしたので、結果的に助かる事が出来たので良かったと思います。
それから、当時を思い出すと、慌ただしい状況でしたので、残っていた園児の名前を記録していませんでした。
翌朝には名簿を作ったと記憶していますが、保護者の方が迎えに来た時にチェックできるような在園児名簿を作成しておくというようなマニュアルがなかったので、そこが反省すべき点だったと思います。
今後の課題としては子どもの氏名をチェックする事と、親元に帰したかどうかの確認をきちんとすべきだと考えています。

(聞き手)
当日は、職員の方は何人いらっしゃったのでしょうか。

(鎌田様)
 私を含め12~13人が残っていたはずです。あの時は、何回も揺れが起こり、気が動転していたので上手く対応できませんでしたが、今後、地震が起こった時には、きちんと対応しなければいけないと思っています。
それから、ある幼稚園マニュアルを見せて頂いたのですが、震災に関しての注意書きが、それこそ1冊の本になるくらい沢山書いてありました。
しかし、それでは逆効果だと思います。小冊子を隅々まで読み込む時間は緊急時にはないと思うので、私は1枚だけ作りました。
震災直後に作ったので不完全だとは思いますが、あまり沢山書いても仕方ないと思います。

遠くへ向かうより、「高い場所」を探す事

(聞き手)
 多賀城には高い場所が意外と少ないという意見がありますが、鎌田先生もそのように感じておられるのでしょうか。

(鎌田様)
沿岸部には、イオン多賀城店をはじめ、マンションや工場がありますので、そういう建物をうまく利用すればそれなりに逃げられると思います。
地震などが来たら道路が使えなくなるでしょうから、「バスを放棄してでも、子どもたちを連れて、運転手さんと添乗の先生とで子どもたちをより高い場所に避難させなさい」と、ことある度に言っています。

(聞き手)
マニュアルがあっても、それを実践出来るかどうかは、職員一人ひとりの意識というのが一番大事なのですね。

(鎌田様)
 そうです。避難に関しては第一次避難、第二次避難という体制をとっています。
例えば、津波を想定して行った場合、第一次避難は外に逃げて、第二次避難はより高い場所へ移動します。年に1~2回の避難訓練でも、3~5歳児はきちんと行えますので避難に関してはあまり心配していません。津波の時は、より高い場所へ逃げるとしか言いようがありません。
 ただ、あまり子供たちに、恐怖心を抱かせるのも良くないと思っています。
震災の後に子どもたちの間で「津波ごっこ」が流行りましたが、そういう遊びは放っておいた方がいいと前にテレビで見た事があったので、先生方にも放っておくように言いました。
ですが、恐怖心を与えず、災害が来た時の行動を教えるだけでは効果はあまりないと思うので、その加減は難しいですね。今でも震度4くらいの揺れでは、パニックになり、大泣きしてしまう子もいます。

(聞き手)
どこへ逃げたらよいか分からないというお話もありますが、それについてはどうお考えですか。

(鎌田様)
私の壇家の方で、津波から助かった人がいます。
この方は石巻出身で、小さい時から津波の話は聞いていたとの事でした。
仙塩病院の近くで地震に遭い、津波が来そうだという時に、他の人たちは遠くに逃げたのですが、この方は高い場所に逃げようと、仙塩病院の上階に逃げたそうです。
結果的に、そのおかげで助かったのです。
ですから、より高い場所に逃げるという事を、大きな地震に遭った時は肝に銘じておかなければいけません。

(聞き手)
 高い建物や山などの避難場所が必要ではないかとおっしゃる方もいますが、その件についてはどうお考えでしょうか。

(鎌田様)
 確かに、沿岸部に、高くて屋根がついている施設があれば便利だと思います。
この幼稚園でも避難訓練を実施したところ、2階会議室に立った状態でしたら200人ほど入りました。スペースが狭くても、思いのほか入れるものなのだと感心しました。

(聞き手)
 これからの多賀城市の復旧・復興に向けてのご意見はございますか。

(鎌田様)
 震災以降、防災行政無線がすごく増設されました。
私の寺のすぐ隣にも設置され、とても騒々しいですが、そんな事も言っていられません。あのくらい充実させておかないと、いざという時には役に立たないかもしれません。
 復旧・復興は、見た通り、かなり進んできています。
私の檀家の人たちも、自宅を直して仮設住宅から戻ってこられる方がちらほら見受けられるようになりました。
幼稚園の修繕に関しては、国と県の直轄の補助金が3分の2ほど出まして、他は保険金と義援金で賄う事が出来ました。
個人や民間の中小企業では、手立てがなくて大変なようです。行政に頼りたいといってもなかなか上手くいかないようです。
今は、多賀城に震災の面影がほとんどありませんから、非常に早い復旧だと感じています。
平成24年秋に南相馬市に行きましたが、原発の影響で復旧が進んでいない様子でした。
田んぼの中に車が放置された状態でしたし、警察官の巡回が多く、空き巣も多いようでした。
私の場合の震災の影響は、桜木花園幼稚園と、この八幡花園幼稚園の2つに津波を受けた事と、生活する場である寺が避難所になったという事くらいです。不便ではありましたが、何とか凌ぐ事が出来ました。
しかし、ここよりも酷い所はまだまだ残っているという事を、いつも心に留めるようにしています。

目に見えるものだからこそ伝えられる教訓

(聞き手)
 最近、震災の経験の風化が問題視されるようになりました。経験を風化させないための取り組みなどについて、お考えはありますか。

(鎌田様)
 私は平成25年夏、初めて広島の原爆ドームや記念館を見に行きました。そして、とても心が痛みました。
当初、原爆ドームを残す事に大反対があったようです。私たちのような考古学や歴史を学んでいる人間からすれば、全て残さなくても1つか2つ残っていれば、次の世代に何があったのか伝える事が出来ると考えます。それこそ生きた教訓であると思います。
更地にして綺麗に整備された土地で「ここに津波が来ました」といくら説明しても、わかる訳がありません。
私は、震災から1カ月ほど経ってから、気仙沼の知り合いのお見舞いに行ったのですが、その時、関東ナンバーの車が道路を遮って止めてあり、そのドライバーたちが、物見遊山に写真を撮っていたので、頭にきて、それを止めさせたことがありました。
しかし、これからは、逆に、色々な方に来て頂いた方がいいと思います。
ですから、友人が全国にいるので、彼らがこちらに来る時には、少し足を延ばして、震災の影響が残っている所を案内するようにしています。

震災を語り継ぐ手だてとして重要なモニュメント

(聞き手)
 園舎を復旧するまでは、どれくらいの時間が掛かったのでしょうか。

(鎌田様)
 ここを建てた建設会社に電話をして、すぐにクリーニングしてもらいました。ですから、震災翌月の4月1日に預かり保育だけは再開する事ができて、4月23日には入園式が行えました。
八幡花園幼稚園は、さほど被害が大きくありませんでしたが、桜木花園幼稚園は被害が大きかったので、ボランティアに来た方たちには非常に助けられたようです。
やはり最終的には人力が一番必要不可欠だと思います。ボランティアの力は凄いです。
その後、夏休みと冬休みに本格的な修理を行い、平成24年4月には完全復旧が出来ました。
八幡花園幼稚園は、とりあえず震災の1カ月後には再開したと言うと、皆さん驚かれます。

(聞き手)
 震災から3年が経ちますが、今現在のお気持ちをお聞かせください。

(鎌田様)
 テレビで津波の様子を見ていて、思わず言葉に詰まってしまう時があります。
幼稚園以外に津波の被害を直接受けた訳でもないですし、目の前で見ていた程度なのですが、それでもかなりの恐怖心があります。
ましてや、保護者の方の中には、津波に巻き込まれた方もいましたし、子どもの中にも間一髪助かった子もいます。
何かあった時には、私や先生方がきちんと避難させる事を常に心掛けるくらいしか出来ないかもしれません。
他に伝えたい事は、先ほども言ったように、何か、震災を伝えるためのモニュメントを残すべきだという事です。
東日本大震災の津波で、気仙沼市の市街地に打ち上げられた第18共徳丸は撤去してしまいましたが、個人的にはあれは残しておくべきだったと思います。