(聞き手)
発災直後の行動を教えてください。
(滝脇様)
発災時は自宅におりました。
そして、とても強い揺れを感じました。後から聞いた話では、あの時、3分間ほど揺れが続いたとのことですが、実際は5分間ほど続いたように感じられました。
その後、外に出てみたら悲惨な光景が目に入ってきました。土手に上がって周囲を見ると、土手の堤防が縦に裂けて砂押川方向に大きく崩れていました。あまりの出来事に「これはただごとではない」と思い、すぐにラジオをつけました。そして、ラジオから6メートルの津波が来るという情報が流れたので、急いで
無線機のスイッチもオンにしました。 当初、
無線機はスイッチを入れてもなかなか通じませんでした。
ラジオで大津波警報が出されたということでしたので、皆に早く逃げるように言って回りました。アパートなどを含めて地区内を2周ほどした辺りで、買い物に出ていた妻が帰って来ました。
その頃にはもう、周囲の方たちは天真小学校に避難を始めていました。そうしている間に、隣の家から助けを求める声が聞こえてきました。隣の家におばあさんが1人で住んでいまして、デイケアセンターの方が回って来ているところでした。
そして、センターの方が「近所に誰かいませんか」と叫んでいたので、私は塀を乗り越えて家の中に入りました。そうしたら「この人を一緒に連れて行ってください。私は次の所に行かなくてはいけません」と言うので、私はそれを引き受けました。
おばあさんは腕を骨折していたのですが、その時はわかりませんでした。それから、妻の手を借りて、必死におばあさんを天真小学校まで連れて行きました。
その後、皆さんが車を高台に移動し始めたので、おばあさんの事は妻に任せ、私は車の移動に向かいました。天真小学校に車を移した頃に
無線機が通じるようになったので、お互いの状況を確認し合いました。
鶴ケ谷には、鶴ケ谷みまもり隊という地域の安心・安全のために活動する団体があるのですが、
無線が通じるようになったおかげで、そのみまもり隊の隊長(震災時は、当時の鶴ケ谷
区長である我妻氏が兼務)の統制も取れてきたので、指示や状況報告が入るようになり、互いの所在がわかるようになりました。
しかし、携帯電話などは繋がらない状態でした。
震災直後の1時間くらいはこのような行動をしていました。
それから、隊長からの指示で、笠神新橋の少し上にある山の上から堤防の水位を観測していました。そして、その結果を何人かの隊員と一緒に隊長に報告していました。
(聞き手)
その時の行動で印象に残っている事はありますか。
(滝脇様)
天真小学校では市の
避難所としての体制がまだ整っていませんでした。
あの頃、天真小学校には必死になって逃げて来た人たちが大勢集まっていまして、最終的には1,500人くらいの人たちがいらっしゃいました。
私の妻は、昔、養護教員をしていまして、
避難所では救急のお手伝いをしていました。災害で重傷を負った人がいましたので、その方のお世話をするためにしょっちゅう行き来していました。だいたい1週間~10日間くらいは通っていました。
天真小学校が
避難所として使われたのは4月10日頃までです。その間、私たちは自宅が床上浸水の被害を受けたという事で、みまもり隊としての活動を免除されました。
そのような中、私が一番印象に残っているのは最初の晩の思い出です。
市の
無線機は電池がなくなったり、壊れたなどの理由で使えなくなったりしました。
結局、連絡を取り合う手段は私たちが持っているトランシーバーだけでしたので、本当に大変でした。
私は天真小学校には二晩お世話になりました。
そして、それ以降は自宅の2階で寝るようになりました。
一晩目は動かずに留まっていたのですが、11時頃からずぶ濡れの人たちが何人も来ていました。この辺一帯は天真小学校が避難場所に指定されていたので、砂押川近くの歩道橋の上に逃げた人たちが、水がある程度引いたので、腰まで水に浸かりながらも逃げて来たのです。
その頃には、既に雪が降ってきていましたので、工藤さんという方が提供してくれた発電機1台でどうにか凌ぎました。
寒くて暖も十分に取れていませんでした。
保健室にあったのでしょうか、子どもたち用の予備の下着などを誰かが運んできたので、濡れて来た人たちに渡しました。無茶な話だとは思いますが、そこで私は「誰か毛布を貸してくれる人はいませんか」と叫びました。
歩道橋から来た人たちは全身に水を被っていて見るに堪えかねる状態でした。
そうしたら、高校生か大学生くらいの女の方が来て「自分は我慢しますから、使ってください」と言って、自宅から持って来た毛布を提供してくださいました。その行為には涙が出ましたね。人間の優しさを痛感した出来事でしたので、今でも強烈に印象に残っています。
また、天真小学校はJX日鉱日石エネルギーさんの仙台製油所から直線距離で3キロ弱ほどの所にあります。
その頃にはもう精油所
火災が発生していて、不気味なほど真っ赤に燃えていました。
そして、ある人が「爆発したら衝撃波で窓が割れるかもしれないので、教室のカーテンを閉めてください」とおっしゃいました。「いや、閉めなくても大丈夫だ」という情報も併せて飛び交っていましたが、その時の心のざわめきは強烈なものでした。
私は翌朝に自宅に戻りましたが、小学校に居た人たちは次の昼か夜まで食べる物がなかったと思います。しかし、3日~4日目になるとどんどん食べ物が出てきました。