防災・減災への指針 一人一話

2013年12月05日
住民間の交流と復興で変わりつつある地区
鶴ケ谷区長 鶴ケ谷親和会会長
滝脇 修さん

発災時の行動

(聞き手)
 発災直後の行動を教えてください。

(滝脇様)
 発災時は自宅におりました。
そして、とても強い揺れを感じました。後から聞いた話では、あの時、3分間ほど揺れが続いたとのことですが、実際は5分間ほど続いたように感じられました。
その後、外に出てみたら悲惨な光景が目に入ってきました。土手に上がって周囲を見ると、土手の堤防が縦に裂けて砂押川方向に大きく崩れていました。あまりの出来事に「これはただごとではない」と思い、すぐにラジオをつけました。そして、ラジオから6メートルの津波が来るという情報が流れたので、急いで無線機のスイッチもオンにしました。 当初、無線機はスイッチを入れてもなかなか通じませんでした。
 ラジオで大津波警報が出されたということでしたので、皆に早く逃げるように言って回りました。アパートなどを含めて地区内を2周ほどした辺りで、買い物に出ていた妻が帰って来ました。
その頃にはもう、周囲の方たちは天真小学校に避難を始めていました。そうしている間に、隣の家から助けを求める声が聞こえてきました。隣の家におばあさんが1人で住んでいまして、デイケアセンターの方が回って来ているところでした。
そして、センターの方が「近所に誰かいませんか」と叫んでいたので、私は塀を乗り越えて家の中に入りました。そうしたら「この人を一緒に連れて行ってください。私は次の所に行かなくてはいけません」と言うので、私はそれを引き受けました。
おばあさんは腕を骨折していたのですが、その時はわかりませんでした。それから、妻の手を借りて、必死におばあさんを天真小学校まで連れて行きました。
 その後、皆さんが車を高台に移動し始めたので、おばあさんの事は妻に任せ、私は車の移動に向かいました。天真小学校に車を移した頃に無線機が通じるようになったので、お互いの状況を確認し合いました。
鶴ケ谷には、鶴ケ谷みまもり隊という地域の安心・安全のために活動する団体があるのですが、無線が通じるようになったおかげで、そのみまもり隊の隊長(震災時は、当時の鶴ケ谷区長である我妻氏が兼務)の統制も取れてきたので、指示や状況報告が入るようになり、互いの所在がわかるようになりました。
しかし、携帯電話などは繋がらない状態でした。
震災直後の1時間くらいはこのような行動をしていました。
 それから、隊長からの指示で、笠神新橋の少し上にある山の上から堤防の水位を観測していました。そして、その結果を何人かの隊員と一緒に隊長に報告していました。

(聞き手)
 その時の行動で印象に残っている事はありますか。

(滝脇様)
 天真小学校では市の避難所としての体制がまだ整っていませんでした。
あの頃、天真小学校には必死になって逃げて来た人たちが大勢集まっていまして、最終的には1,500人くらいの人たちがいらっしゃいました。
私の妻は、昔、養護教員をしていまして、避難所では救急のお手伝いをしていました。災害で重傷を負った人がいましたので、その方のお世話をするためにしょっちゅう行き来していました。だいたい1週間~10日間くらいは通っていました。
天真小学校が避難所として使われたのは4月10日頃までです。その間、私たちは自宅が床上浸水の被害を受けたという事で、みまもり隊としての活動を免除されました。
そのような中、私が一番印象に残っているのは最初の晩の思い出です。
市の無線機は電池がなくなったり、壊れたなどの理由で使えなくなったりしました。
結局、連絡を取り合う手段は私たちが持っているトランシーバーだけでしたので、本当に大変でした。
私は天真小学校には二晩お世話になりました。
そして、それ以降は自宅の2階で寝るようになりました。
一晩目は動かずに留まっていたのですが、11時頃からずぶ濡れの人たちが何人も来ていました。この辺一帯は天真小学校が避難場所に指定されていたので、砂押川近くの歩道橋の上に逃げた人たちが、水がある程度引いたので、腰まで水に浸かりながらも逃げて来たのです。
その頃には、既に雪が降ってきていましたので、工藤さんという方が提供してくれた発電機1台でどうにか凌ぎました。
寒くて暖も十分に取れていませんでした。
保健室にあったのでしょうか、子どもたち用の予備の下着などを誰かが運んできたので、濡れて来た人たちに渡しました。無茶な話だとは思いますが、そこで私は「誰か毛布を貸してくれる人はいませんか」と叫びました。
歩道橋から来た人たちは全身に水を被っていて見るに堪えかねる状態でした。
そうしたら、高校生か大学生くらいの女の方が来て「自分は我慢しますから、使ってください」と言って、自宅から持って来た毛布を提供してくださいました。その行為には涙が出ましたね。人間の優しさを痛感した出来事でしたので、今でも強烈に印象に残っています。
 また、天真小学校はJX日鉱日石エネルギーさんの仙台製油所から直線距離で3キロ弱ほどの所にあります。
その頃にはもう精油所火災が発生していて、不気味なほど真っ赤に燃えていました。
そして、ある人が「爆発したら衝撃波で窓が割れるかもしれないので、教室のカーテンを閉めてください」とおっしゃいました。「いや、閉めなくても大丈夫だ」という情報も併せて飛び交っていましたが、その時の心のざわめきは強烈なものでした。
 私は翌朝に自宅に戻りましたが、小学校に居た人たちは次の昼か夜まで食べる物がなかったと思います。しかし、3日~4日目になるとどんどん食べ物が出てきました。

震災で気づかされた住民の優しさ

(聞き手)
 その他、印象に残っている出来事はありますか。

(滝脇様)
 自宅では、電気と水道が10日間ほど復旧しませんでした。そんな状況の中で有難く思えた事は、おにぎりや野菜の差し入れをしてくれた人がいた事です。それから、電気や水道が通るようになった同じ鶴ケ谷地区の方たち数人が、毎日ではありませんが、温かい物を運んできてくれました。
もちろん、ある程度顔見知りでないとそういう事は出来ません。
それでも、まさか食べ物の事まで心配してくださるとは思っていませんでした。本当に頭の下がる思いでしたので、それをどこかでお返ししなければいけないと思っています。
テレビで誰かが「日本人って本当に優しかったのだな」と言っていましたが、私も改めて、鶴ケ谷の人たちの優しさを実感しました。

(聞き手)
 逆に、区長として、苦労された点や、改善すべきと思った点はございますか。

(滝脇様)
 コミュニティの問題については、震災のお陰でプラスに改善された事の方がはるかに大きいと思います。
ですが、組織として普段から備えるべきものが多くあるとも感じました。
そして、市がそこのところを全面的に協力してくれる事になり、各地区に倉庫を作ってくださいました。
それから、電話回線を利用していた防災広報装置(拡声器)が全て使い物にならないという意見を聞いて、無線型の広報装置に切り換えられ、さらに53カ所に増設されました。多賀城は比較的、復興が早い方だと思います。
 私は以前、学校関係の職についており、3年ほど志津川に勤めていたことがあり、単身で、志津川にはよく行っていました。
ですから、震災後にも10回以上は足を運びました。復興はまだまだのようです。被災した車がその辺に転がっているような状態です。3年も経つのにどうしてこのような状況なのか多賀城市内に住んでいる人たちにはわからないかも知れません。
ですが、中には、怖くて近くの砂押川さえ見に行けない人たちもいました。
私は震災で新しいステージやレベルでのコミュニティが出来上がっていると思う反面、震災の現状を全く分からない人たちがいるという事実に気が付きました。
鶴ケ谷は岩盤の上に立っている地域と、河川敷のような土地を埋め立てて出来た地域の、両方の地帯が存在します。
同じ震災でも、河川敷側の人たちは酷い揺れに遭いますが、岩盤の上の人たちはコップが倒れる程度で済みます。
それだけ乖離している部分があるので、地域で何があったのか、あまりわかっていない方は今でもいると思います。
しかし、少しずつ皆さんも行事に参加されるようになってきたので、お互いの意識のずれは、少しずつ解消されていっていると思います。

普段からのコミュニケーションが、訓練につながる

(聞き手)
発災当時の対応でうまくいった、または大変だった事を教えてください。

(滝脇様)
 自宅では2階にあるタンスが倒れましたが、食器戸棚やピアノ、座敷の家具などは全て支えを付けていたので倒れずに済みました。それは自慢出来る事です。
 それから、ガソリンがなくなりましたので、これからは備えておこうと思いましたが、ガソリンはストックする事が難しいので、私は車を軽油使用のディーゼルに変えました。
軽油ならば、ある規定量を超えなければ家に置く事が出来ますので、そのような対策を講じました。

(聞き手)
 多賀城市には何年ほどお住まいですか。

(滝脇様)
 こちらに家を建てたのが昭和50年頃なので、36年ほど住んでいます。

(聞き手)
 地域の年齢構成についてお伺いします。
昔からこの地区に住まわれている方の割合はどのくらいなのでしょうか。
また、高齢者の方はどのくらいこの地区に住んでいらっしゃるのでしょうか。

(滝脇様)
 市が敬老会への参加を呼び掛けているのが77歳以上なのですが、鶴ケ谷地区では、今年度では142人になります。
全住民が1,500人少々なので、1割弱が77歳以上という事になります。多賀城市の他の地区から見れば、鶴ケ谷は高齢者の比率は高い方だと思います。
他の地区と比べてマンションが少なく、持ち家の方が比較的多いのです。大きなマンションは2つしかありませんし、アパートも減ってきました。
 ただ、震災後は空き地が増えました。そして、同時に家が建ち始めました。近所では町内会の班を一つ廃止することになりました。
そこは元々アパートでしたが、震災で壊れてしまったので、そこの人たちが仮設住宅やみなし仮設住宅、あるいはそれ以外の別の所に移って行きました。ですから、用地は転売されて、新しい別なアパートなどが建っています。

(聞き手)
 チリ津波や宮城県沖地震、水害などの経験はありますか。また、今回の震災で活かされた事はありましたか。

(滝脇様)
 震災前年のチリ地震があった時には、222名で避難訓練を実施しました。そして、実際に行った避難もスムーズに出来ていましたので、訓練は普段から順調に進んでいました。それが今回の東日本大震災にも活かされたのではないでしょうか。

(聞き手)
皆さん、避難訓練には積極的に参加していらっしゃいましたか。

(滝脇様)
そうですね。この前(平成25年11月)、総合防災訓練を市で行ったのですが、うちの地区では150名ほどの方が天真小学校への避難訓練に参加されました。避難時の行動も混乱が見られなかったので、きちんと声を掛け合って、コミュニケーションが取れているように見受けられました。

教訓を伝える手立て

(聞き手)
 今回の経験で後世に伝えるべき教訓は何ですか。

(滝脇様)
 ここは昔から水害によく遭う地域です。ですから、市でもポンプ場を設置するなど対策を取っていますが、治水対策に関しては、まだまだ完全ではないと思います。今年も台風16号が来た時に、水が溢れましたので、一部の地域を通行止めにしました。
また、水害が起きた時のために、私の自宅では、通行止め用のバリケードと土嚢を用意しています。30~40センチほど冠水した場所を車が無理やり通ると、低い土地に住む民家のドアが水の振動で壊れてしまう事があります。ですから、車を通さないように気を付けています。
震災によって、この辺一帯の地盤が30~50センチ下がっていると聞きますので、これからどうなっていくのかわかりません。
そういう排水や雨水をどのように処理していくのか、市でも考えているとは思いますが、広域にわたる問題ですから、解決するのは難しいと思います。
平成25年7月31日に市長さんとの懇談会が開かれたのですが、市への要望事項として治水が挙げられていました。
震災の時には大代にある下水処理場が使えなくなりましたので、水が流れずパイプが詰まってしまいましたが、今では改善されています。
市では下水を高圧で清掃してくれている様子なので、そういう面ではいろいろと対策を取ってくれているようです。

(聞き手)
 震災前に、親や親戚、近所の方から震災の教訓や体験談などを伝承されてきましたか。

(滝脇様)
 私は志津川に3年間住んでおりました。志津川では毎年5月24日に津波訓練を行っていましたので、それに毎回参加していました。
ですが、今回の津波は20メートルと予想外の大きさで、電信柱の頭よりも高く波が来たわけですから、教訓があってもどうしようもありませんでした。
多賀城で言うと「末の松山 波越さじとは」のような話は聞きますが、結局、人間は忘れてしまうのでしょうね。
それが人の定めなのだろうと思います。
ですから、鶴ケ谷集会所の脇に宮城大学の学生さんたちが作った波来の碑がありますし、石巻の子どもたちも色々と津波が来た事を忘れないように形にしてくれています。こうした伝承を一世代、二世代先まで伝え続けていければいいなと思います。
 この前、ニュースで見たのですが、中学生の生徒さんが1千万円を集めて石碑を作ったり、募金活動を修学旅行先で行ったりと、自分たちの体験を基にして生きた活動をしていました。ですから、何かを成し遂げようとするその小さな行動がいくつも積み重なっていく中で、教訓が残っていくのだろうと思いました。
今は色々なイベントを行っていますが、震災前より後の方が多くの人が集まるようになったと感じています。来てくれる人たちが少なくなると予想していたので、本当に有難い事です。皆さんが顔を合わせることに対して、楽しいという気持ちを持つようになったのだろうと勝手に解釈しています。住民同士の繋がりも、それぞれの愛好会も、行っている事が増えているように感じます。集会所の使用日数なども増えてきています。

自主防災組織の在り方

(聞き手)
 自主防災組織についてはどのような現状でしょうか。

(滝脇様)
 鶴ケ谷みまもり隊は2~3名減りましたが、隊員活動はボランティアの一環であり、子どもたちの安全を守り、この服を着て回る事により防犯に繋がればいいと思っていますので、この組織はこれからも続けるつもりです。

復興住宅入居者へのサポート体制

(聞き手)
 今後の復旧・復興に向けての考えがあればお聞かせください。

(滝脇様)
復旧、復興という事を考えると、物理的な面と精神的な面で色々とあると思いますが、物理的な面に関して言えば、市は一生懸命動いてくれていると思います。
ただ、私が最も懸念している事は、災害公営住宅に入居される方の精神的ケアです。
多賀城市は500戸以上の災害公営住宅を作る予定らしいですが、そのうちの過半数が鶴ケ谷地区に建つ事になります。
そして、市は、そこへ入居された人たちの精神面をどのようにサポートしていくのか、私たちには見えていません。
今は、住宅を建てて入居させますが、この先、3年~5年後の事までも考えていく必要があるのではないかと思います。

(聞き手)
 この地区でも住民が増えてきていらっしゃいますか。

(滝脇様)
 災害公営住宅の完成で、これから間違いなく増えます。ですが、町内会としてのパワーになってくれる人たちではなく、町内会の手を借りたい人たちが集まると思います。ですから、5年~10年後先まで考えると、後期高齢者の方が中心になると思います。

(聞き手)
建物の中に、高齢者の方をフォローする機関は入るのでしょうか。

(滝脇様)
 管理人を必ず入れてくださいと言っています。東松島や塩釜ではチームを組んで管理人を務めるという話を聞きました。
それから、先頃開催された災害復興住宅の地元説明会では、建物の説明をしたのは応援で来た別の自治体の職員さんだったので、担当者が変わると我々も不安になりますから、一貫して組織を変えず、5年くらいそのままの組織で面倒を見るような行政体制を作ると良い方向へ進むのではないかと考えています。

無線通信や避難も訓練が大切

(聞き手)
 これからの災害に対する心構えについてお聞かせください。

(滝脇様)
 災害はいつやって来るのかわからないので、家族とは常に連絡を取れる状態にしておく事が必要だと思います。
地区としては、いつでも無線を使えるようにしておくべきだと考えています。
そして、鶴ケ谷みまもり隊の通信訓練こそが大切な訓練だと思うので、これからも継続していきたいと思います。
通信訓練は、災害時のコミュニケーションの基本だと思います。鶴ケ谷地区は、これがあったからこそ揺るぎない行動を取れたのだと思います。

(聞き手)
 前の職場は教育の場だったそうですが、教育現場へ教訓や伝承したいことなどありますか。

(滝脇様)
 避難訓練は毎年行っていたのですが、よく言われるのは「何かをする時には自分が経験した事以上の事は出来ない」という事です。
誰かがそれを「経験値以上の事は出来ない」と言い換えていました。学校では複数の避難通路を確保するなどして、最優先で子供たちの安全を考えるわけです。
また、避難訓練は地震を想定した訓練と火災を想定した訓練でタイプが違ってくるので、そのための訓練を年に何回かは必ず実施していました。
ですから、今でも避難訓練時には何から手を付ければ良いのか、頭の中で段取りが出来ているつもりです。
いかに子どもたちを安全に逃がす事が出来るか、いかに住民の安全を確保する事が出来るのかは共通の使命だと思っています。これからもその経験値を基にして行動したいと思っています。

(聞き手)
そういった訓練を、この先も教訓として続けていくべきだという事でしょうか。

(滝脇様)
 やはり避難訓練として続けていきたいです。場所を変え、品を変えという事で、隣家の人を1人連れて逃げるような訓練もしてみたいと考えていました。
 こういった訓練は、隣同士の理解が深まっていないとなかなか困難だとは思いますが、できる人たちから行っていくことができればと思います。
(聞き手)
行政と住民の方が手をつないだ時にも、大きな事ができるのでしょうね。

(滝脇様)
 そうだと思います。お祭りをする時などは市長さんが必ず来てくれますし、案内状を出せば必ず顔を出してくれます。
住民にとっては大きな励みです。
市長さんは気軽に話せる雰囲気をお持ちなので、顔を合わせた時には声を掛け合う事ができます。