(聞き手)
発災直後の出来事についてお聞かせください。
(菊池様)
平成22年5月に会社を退職して、翌年の4月1日から独立しようと準備をしていました。アドバイスしてくれた方もいて、リースの事務機の搬入と設置の業務を基軸にした仕事を開始しようとしていました。震災が起きたのはまさにその矢先で、独立は一端休止になりました。
当時は2階建ての賃貸住宅に住んでいました。2階が自宅で、1階を事務所に使っており、発災時は自分の部屋にいました。
そして、4月からお世話になる予定だった社長の倉庫も、地震で大変なのではないかと思い、
車に乗り込み手伝いに行こうとした際、津波に襲われたのです。
国道45号を仙台方面に向かいましたが、道路は
渋滞していました。逆に、仙台から塩釜方面に向かう
車線は全く混んでいませんでした。
渋滞に巻き込まれた中でふと左を向いたら、水が少し流れてきていて、水道管でも破裂したのかと思っていましたが、しばらくすると、津波の水が一気に来ました。何が起きているのかわからず、あっという間の出来事でした。
車が水に浮いて流されてしまいました。
周りを見ると、自分と同じく
車に乗ったまま流されていく人や、
車の屋根に這い上がっている人がいました。
車の中にも水が入ってきて、携帯電話で110番をしたのですが繋がらず、一瞬のうちに肩の手前ぐらいまで水が入ってきました。
水圧でドアが開かず、どうしようかと思いましたが、冷静さを取り戻し、運転席と助手席に全部水が入ればドアが開くのでそれまで待つことにしました。そうしているうちに、住宅に
車がぶつかった衝撃でガラスが割れたため、何とか脱出する事が出来ました。
出た時にはもう足は地面に付かないくらいの水深になっていました。すると、20代前半の女性が「助けてー」と叫びながら流れてきました。タイヤや
車など色々な物が混じっている中、私は手を伸ばしてその人を掴み、持ち上げながらしばらく一緒に流されました。
そして、物置のような所の上に大学生らしき人が立っており、手を貸してもらって引き上げてもらいました。
周囲には2階建てのアパートがあったのですが、1階部分が全部水に浸かっている状態で、あらゆる物が流れていてとても危険でした。アパートの階段まで行けば何とかなると思ったので3人でどうにか泳ぎ、とある部屋のドアをノックしたところ、人がいたため助かったと思いました。
ところが、「この家は女性が3人居るので、女性の方だけどうぞ」と言われました。
濡れている上、雪が降っており、身も震えている状態でしたが、一緒にいた女性を中に入れて頂きました。
私ともう一人の男性は薄手の服をゆずって頂き、着替え、そこの玄関先で一晩過ごしました。
新聞紙をもらい、隙間がないように体中に巻き、寒さをしのぎましたが、寝られませんでしたし、誰にも声をかけてもらえませんでした。
アパートの近所では一晩中、助けを呼ぶ声が聞こえていましたが、体が動きませんでしたし、何をすればいいのかもわかりませんでした。
誰かわかりませんでしたが、3人ほどが乗ったボートが一艘見えて、何回か大声で呼びましたが、振り向いてもらえませんでした。
夜が明けて、翌日の午前10時には膝くらいまで水が引いていたと思います。
いつまでもここにいるわけにいかないと思い、私は自宅に向かったのですが水没しており、近寄れませんでした。
多賀城駅の手前の多賀城郵便局まで行くと、警察官と自衛隊、市役所の職員の方たちがいたため、どこに行けばいいか尋ねると、
避難所である多賀城市
文化センターに行くように言われました。
それまで
避難所の事は頭に全くありませんでしたし、
文化センターの場所が分からなかったので、
車で連れて行ってもらいました。
私は多賀城には20年ほど住んでいますが、今まで行政については興味がありませんでした。長年住んでいながら多賀城の事を何もわかってなかったのだと、その時、自分の無知を感じました。