防災・減災への指針 一人一話

2013年12月08日
復興とまちづくりへの思い
勤労仮設住宅 自治会副会長
菊池 正一さん

津波と遭遇

(聞き手)
 発災直後の出来事についてお聞かせください。

(菊池様)
平成22年5月に会社を退職して、翌年の4月1日から独立しようと準備をしていました。アドバイスしてくれた方もいて、リースの事務機の搬入と設置の業務を基軸にした仕事を開始しようとしていました。震災が起きたのはまさにその矢先で、独立は一端休止になりました。
 当時は2階建ての賃貸住宅に住んでいました。2階が自宅で、1階を事務所に使っており、発災時は自分の部屋にいました。
そして、4月からお世話になる予定だった社長の倉庫も、地震で大変なのではないかと思い、に乗り込み手伝いに行こうとした際、津波に襲われたのです。
国道45号を仙台方面に向かいましたが、道路は渋滞していました。逆に、仙台から塩釜方面に向かう線は全く混んでいませんでした。渋滞に巻き込まれた中でふと左を向いたら、水が少し流れてきていて、水道管でも破裂したのかと思っていましたが、しばらくすると、津波の水が一気に来ました。何が起きているのかわからず、あっという間の出来事でした。
が水に浮いて流されてしまいました。
周りを見ると、自分と同じくに乗ったまま流されていく人や、の屋根に這い上がっている人がいました。の中にも水が入ってきて、携帯電話で110番をしたのですが繋がらず、一瞬のうちに肩の手前ぐらいまで水が入ってきました。
水圧でドアが開かず、どうしようかと思いましたが、冷静さを取り戻し、運転席と助手席に全部水が入ればドアが開くのでそれまで待つことにしました。そうしているうちに、住宅にがぶつかった衝撃でガラスが割れたため、何とか脱出する事が出来ました。
出た時にはもう足は地面に付かないくらいの水深になっていました。すると、20代前半の女性が「助けてー」と叫びながら流れてきました。タイヤやなど色々な物が混じっている中、私は手を伸ばしてその人を掴み、持ち上げながらしばらく一緒に流されました。
そして、物置のような所の上に大学生らしき人が立っており、手を貸してもらって引き上げてもらいました。
周囲には2階建てのアパートがあったのですが、1階部分が全部水に浸かっている状態で、あらゆる物が流れていてとても危険でした。アパートの階段まで行けば何とかなると思ったので3人でどうにか泳ぎ、とある部屋のドアをノックしたところ、人がいたため助かったと思いました。
ところが、「この家は女性が3人居るので、女性の方だけどうぞ」と言われました。
濡れている上、雪が降っており、身も震えている状態でしたが、一緒にいた女性を中に入れて頂きました。
私ともう一人の男性は薄手の服をゆずって頂き、着替え、そこの玄関先で一晩過ごしました。
新聞紙をもらい、隙間がないように体中に巻き、寒さをしのぎましたが、寝られませんでしたし、誰にも声をかけてもらえませんでした。
アパートの近所では一晩中、助けを呼ぶ声が聞こえていましたが、体が動きませんでしたし、何をすればいいのかもわかりませんでした。
誰かわかりませんでしたが、3人ほどが乗ったボートが一艘見えて、何回か大声で呼びましたが、振り向いてもらえませんでした。
夜が明けて、翌日の午前10時には膝くらいまで水が引いていたと思います。
いつまでもここにいるわけにいかないと思い、私は自宅に向かったのですが水没しており、近寄れませんでした。
多賀城駅の手前の多賀城郵便局まで行くと、警察官と自衛隊、市役所の職員の方たちがいたため、どこに行けばいいか尋ねると、避難所である多賀城市文化センターに行くように言われました。
それまで避難所の事は頭に全くありませんでしたし、文化センターの場所が分からなかったので、で連れて行ってもらいました。
私は多賀城には20年ほど住んでいますが、今まで行政については興味がありませんでした。長年住んでいながら多賀城の事を何もわかってなかったのだと、その時、自分の無知を感じました。

賃貸住宅居住者と地域コミュニティ

(聞き手)
 文化センターはどのような状態だったのでしょうか。

(菊池様)
文化センターには、足の踏み場がないくらい人がいました。よく「地域のコミュニティと関わりを持ちなさい」と言われていますが、隣の住人しか知らない程度のお付き合いだったため、何千人がいる避難所でも知っている方がいませんでした。
周りの状況も、世の中がどんな事になっているのかもわかりませんでした。
避難所には、小さな子どもを抱えたお母さん、お年寄りなど様々な年代の方がいて、廊下を挟んで向かい側には埼玉から単身赴任で来ているという男性の方、多賀城駅で電から降りて歩いてきた石巻専修大学の学生さんなど、色々な事情を抱えた方がいました。
このような状況で話をしていく中で、お互い助け合わないと生きていけないと思いました。
避難所では、日が経つごとに、さまざまな企業やボランティアの方から支援物資が届くようになりました。
しかし、震災当初は毛布もなければ、乾パンすら置いておらず、食べる物がありませんでした。
宮城県沖地震が想定されていて、文化センター避難所の指定になっていたにも関わらず、なぜ毛布や非常食を置いていないのか、どうして子どもから年寄りまでがこんな寒い時に膝を抱えて夜も寝られないような事になっているのだろうと思いました。

復興と人にやさしいまちづくり

(聞き手)
自宅の場所はどちらだったのでしょうか。

(菊池様)
自宅は被害の大きかった八幡地区にありました。避難所では、支援物資の配給の時間が朝、昼、夕方でしたが、自宅などの片付けに行っている人は避難所にいないために、支援物資をもらえない状況でした。
私は、自分の周りにいる人の分だけでも、私が代わりに支援物資をもらっておき、後で皆さんが帰ってきた際に渡すというお世話をしていました。
私は、配給の時間帯について不満や改善してほしい点がありました。知り合いになったお母さんから「明日から小学校が始まるのに、今の配給時刻のままでは、子どもが出かける時間に朝の配給が間に合わない」とお聞きしたからです。
市役所の方に相談しましたが、時間の変更はありませんでした。
また、生活を共にする方々と連携を取りながら考えを出し合いました。
市長と一緒に話が出来る機会を作れないか自治会長さんと相談し、出来る範囲内でやれる事をしていました。
大半の人は自宅に帰れず、仮設住宅へ移り始めたため、徐々に避難所の人が減っていきました。
そのような時に、文化センターが閉鎖され、総合体育館へ統合される事になり、私はその時に現在の勤労青少年ホーム跡地にできた仮設住宅に移りました。
また、行政についてですが、千年に一度の津波は予想出来なかったかもしれませんが、宮城県に関しては宮城県沖地震が想定されていましたので、災害への備えや、建て直しなどを前倒しして行うべきだったと思います。人だけは一度失うと戻ってきませんので、これまで以上に大切に考えていかなければいけないと思いました。

命を守ることの大切さを伝えること

(聞き手)
 市と住民の話し合いの場について教えてください。

(菊池様)
毎月1回、支え合いセンターや社会福祉協議会、民生委員の方たちが集まって話をする機会があります。
過去に一度、仮設住宅単位で集会を実施しましたが、議論が深まりませんでした。それぞれの仮設住宅ごとに入居されている年代が違いますので、イベントの提案一つにしても難しいところがありました。
避難所ではプライバシーはありませんでしたが、壁がなかった分、自然とあいさつを交わすために、人間関係がつくりやすかったと思います。
ところが仮設住宅のように壁が出来てしまう事で挨拶もなくなり、話をする機会がなくなっていました。
仮設住宅には、単身赴任の方や一人暮らしの方がおり、何か出来ることがあったら言ってくださいと話していたところ、自治会を作ってほしいという要望が多賀城市から上がりました。
しかし、自治会を運営していくための費用は多賀城市からは出ませんでした。仮設に住んでいる人たちから運営費を取るわけにもいかず、考えた末、自動販売機を置く事でその売上金を自治会の運営費として使っていく事にしました。
現在、仮設住宅には、まだ前を向けていない人たちがたくさんおり、様々な話が聞こえてきます。震災から2年経ちましたが、仮設住宅に来てほとんど顔を見たことがない人や、まだ1回も声を交わした事がない人もいます。
市内はきれいになりましたが、復興を旗頭に立てるのであれば、子どもやお年寄りが住みやすいまち、住民のためのまちづくりが出来てこそ復興なのではないかと思います。
昔、仙台で空襲があって焼け野原になったと聞きますが、自分たちが経験していないものは、話を聞いてもなかなか頭に入ってきません。
それでも私たちは、「あの時に津波が来て家は残ったけれど、皆、大変な思いをして頑張ってきた」と、子どもたちに伝えていかなければならないと思います。次の時代を担う人たちに、震災の教訓を学んでもらわなくてはなりません。第一に自分の身を守る事、第二に隣にいる人のを守る事というのを小さいうちから、家庭や学校の中で教えていく必要があると思います。

(聞き手)
今回の震災の他に、チリ津波や宮城県沖地震、水害などの経験はございますか。

(菊池様)
宮城県沖地震は経験しています。その当時は名取に住んでおり、3~4日ほど停電になり、電化製品が使えず、大変だったと記憶しています。チリ地震は経験していません。八幡は土地が低いのですが、私は水害を受けた事はありませんでした。

後世に伝えたいこと

(聞き手)
親や親戚、近所の人などから災害の伝承はございましたか。

(菊池様)
伝承はありませんでしたが、今回の津波を経験した事で、次に宮城県沖地震が来た時にしなければならない事は自分の中で教訓としてありますし、忘れないために伝えていく事が大事だと思います。

(聞き手)
特に、教訓や後世に伝えたい事は何でしょうか。

(菊池様)
教訓や後世に伝えたい事は、どんな事が起きても人や動物のを守るという事です。多賀城市内でも188人が亡くなっていますが、そのを無駄にしないためにも、自分ができることからしていかなければならないと思います。