防災・減災への指針 一人一話

2013年12月09日
波高プレート設置から始まる新しい伝承活動
多賀城高校 生徒
中村 明稔さん
多賀城高校 生徒
福田 栞さん
多賀城高校 教諭
小川 進さん
多賀城高校 主幹教諭
小野 敬弘さん

津波の高さが「面」でわかる事の大切さ

(聞き手)
 多賀城高校様は津波プレートを設置しているとお聞きしましたが、どのような考えがあっての事でしょうか。

(小川様)
 去年(平成24年)の夏休みに、2週間かけて多賀城市内で津波の痕を探して回りました。波高プレートを電柱に貼ろうという取り組みなのですが、私は校長に、1本2本ではなく、津波の痕が特定出来る街路は全て貼ろうと提案しました。反射式になっているので、夜に照らされると「面」で見えるようになります。それが非常に大事だと思ったからです。
多賀城市は、陸前高田市のように十数メートルの高さ津波が来た訳ではありませんが、これだけの市街地にこれだけの高さ津波が来たという事をこの「面」で知らせる事が大切だと考えたからです。
それで、貼るべき街路を決めたまではいいのですが、電柱を所管する東北電力に、プレートを貼りたいと言えばすぐに許可が出るだろうと、とても簡単に考えていました。ですが、実際には、許可を得るのが大変で、電柱の配置図も保安上の問題から公開出来ないと言われ、全てこちらで書き出して調べました。これをCSVに置き換えて、地図上に描く手法を去年の10月に関西大学の先生から教えて頂くまでは、全て手書きでしていたので大変でした。そして、電柱ごとに近くの津波痕を書き出すのに2週間ほどかかりました。
冬休みには、同様の作業を塩釜市でやりましたので、全部で一千本の電柱を書き出す事になりました。塩釜市が600本、多賀城市で400本ほどになります。
 色々な所から津波のデータは発表されていますが、それらは全て標高で記されています。今度は地面の高さを調べて、それとすり合わせなくてはなりません。標高を知るにはGPSで測量しなくてはなりませんが、その機械はかなり高価でした。色々な所に相談すると、仙台工科専門学校の卒業生さんが勤める測量会社から1日だけですが、無料で来て頂ける事になりました。それで、平成24年7月31日に64か所を測量しました。8月2日には、その測量点から津波痕までを水準器で測りました。次に波面の計算をして、それをプロットし、等高線で繋ぎ、津波の平均波面の計算を行いました。
 その結果から出た津波高さ電柱に貼り直す作業を8月12日に、集まる事が出来た生徒たちと行いました。
 また、この標識は生徒たちでデザインを出し合ったものです。宮城県から様式を合わせてほしいという話があったので、プレートに書いてある文言は全て、県の標識と同等の物なのです。本当は長期休暇以外でもやりたかったのですが、学校が始まってしまうと活動できませんでした。今年(平成25年)も夏休みの8月12、13日の2日間活動しましたが、それでも50枚くらいしか貼れていません。残り200枚は今年の冬休みに貼ろうと思っています。今年で1000か所のうち、200枚から300枚を貼るので、今後、数年かけて貼る事になります。

新設される防災系学科の実習に

(聞き手)
 津波高さの計測自体は全て終わっているのですか。

(小川様)
 夏に貼ろうとした所は測ってありますが、この作業をしていない場所もあります。産業道路沿いや仙台港方面がそれに当たります。うちではGPSの機械を持っていませんが、それが無くてもマンホールの標高を知っているので、そこを基に水準器を回せば、何とか高さは測れるのではと思っています。
 ゆくゆくは、多賀城高校に入学してくる防災系学科の生徒たちが、これを実習として行うと良いと思うのです。今回は被災地で色々な事が起こりました。都市型の津波に襲われた地域では、被災者に占める住民以外の方の割合が多く、特に多賀城市は圧倒的に多いのです。通りすがりで被災した人が大半を占めているという事です。産業道路と国道45号がありますので、そこを通過していた方が多く亡くなっています。
こうした都市型津波に関して、いずれ南海トラフ地震や東海地方で起こると予想されている地震でも、多賀城市が最も色々な経験を語れる都市だと思うのです。陸前高田市のような衝撃はないかもしれませんが、普通の住宅地にとてつもない勢いで津波が来たという事を、きちんと警鐘するべきでしょう。
 また、陸前高田市や気仙沼市は建物などが流されてしまいましたが、多賀城市は逆に建物が残っています。ですからそこにプレートが貼ってあればイメージが付きやすくなります。いずれは広島の原爆ドームのように、修学旅行で見にきて、プレートを見て回るようなものになれば良いでしょう。
 それから、多賀城市はYouTubeにアップされている映像がかなり多いのです。ビルの上に逃げられたので、そこから撮影した人が沢山いました。イオン多賀城店の屋上から撮影した映像などは圧巻です。その撮影場所を、津波高さ標識を見ながら巡るようになれば、新設される防災系学科の存在がまた強まる事でしょう。最低限伝えておきたいのは、「先輩が後輩のためにプレートを設置した」という事です。以上が活動の概略になります。

(聞き手)
 こういう事をしたいと、以前から思われていたのでしょうか。

(小川様)
 その通りです。ですが、当時の私はとても簡単に考えていましたし、プレートではなく、ただのテープを貼ろうと思っていました。授業として確認して回る事しか考えていなかったのです。私たちが活動し始めた後になりますが、ここに防災系学科が出来る事になったので、意味合いがもっと広がりました。ますます重要度が増してきたので、非常に良かったと思っています。

(聞き手)
 最初は校長先生に要望を出されて、そこから許可を得て生徒たちに活動が広がったのでしょうか。

(小川様)
 そうです。6月に校長との面談があったので、私は転勤早々に「プレート設置活動をやってみたいです」と言ったら、校長が賛同してくださり、そこから事が進みました。

災害を科学的に理解する事

(聞き手)
 高校で災害に関する測量を行う事は、実習目的もあるのでしょうか。

(小川様)
 新しい学科の構想がほしいと校長から言われたので、災害を科学的に理解し、「こんな悲劇があった」よりも先に「物理的に何が起こったのかを解明する事」を提案しました。
私の担当は科学なので、そのまま授業になりますが、結果を見せるだけでは良くないので、測量するという実技を伴わせる事で生徒自身のものとして残せるような実習をさせたいと考えていました。測量の意味を理解出来るのは高校生以上なので、高校でこの活動を出来る事はちょうど良いと思っています。また、多賀城市は、なんとか測量できる地域であるという事も挙げられます。石巻市や女川町だったら、とてつもない高さ津波でしたので、測量を行うことや、プレートを電柱に貼るなどは出来ません。
 前任校の塩釜高校にいた頃は、私は市役所がデータを持っていると思っていました。それを基にすれば簡単にプレートを貼れると考えていたのですが、実際には誰もデータを持っていませんでした。
その後、国土交通省で何か調べたと聞き、港湾事務所に尋ねたところ、調査結果を頂く事が出来ました。
しかし、それは測量会社に委託した調査で、半壊・全壊の確認資料にするためのもので、こちらとは意図が違っていました。それも参考にしましたが、やはり、こちらで全部調べ直す事になり、実習の様相はますます強まりました。新しい学科ができたら、その生徒たちに先輩がした事をもう一度検証してもらうという点において、非常に役立つ事でしょう。
 先ほど、イオン多賀城店の屋上から撮られた映像の事を話しましたが、イオンの駐車場にはまだ跡が残っているらしいのです。ただ、それもどれだけ持つかわからなくなっているので、そこにテープを貼らせてもらえないかと考えています。将来、多賀城高校に入学してくる生徒の教材として、許可して頂けた所にはテープを貼らせて頂きたいのです。 今年の夏には、ある理髪店から「貼らせてください」という申し出がありました。ありがたい申し出でした。この活動が、そうした、住民の方と一緒の運動につながれば良いと思っています。しかし、変に呼びかけてもいけませんので、そこは慎重にしています。まずは、貼れるところにプレートやテープを貼って、自主的に住民の方の申し出が出てくるようになれば最良でしょう。

(小野様)
 プレートを貼り出す活動によって、震災当時の気持ちを呼び起こされて、嫌な気持ちになる方がいるのではないかと思い、活動前に、浸水地域の区長さん、町内会長さんに集まって頂き、生徒たちを連れてお話に伺いました。どういう反応が来るかと思っていたのですが、皆さん本当に好意的で、「高校生がやるのであったらぜひ」という非常にありがたいお言葉を頂き、学校として本当に感謝しています。

伝えたいという思いから

(聞き手)
 生徒のお二人にお伺いします。活動は1年半以上続いているとの事ですが、その中で印象深い出来事があったらお聞かせ頂けますか。

(中村様)
 普段は使わない機械を使う事が出来て、良い勉強になりました。特に水準器を使うのは面白かったです。実際に貼るのは1日あれば終わるのですが、その前段階がとても長くて大変でした。

(福田様)
 何しろ数が多いので、地図を見ていてもどこの電柱なのかわからなくなってしまう事があり、大変でした。先ほど小野先生がおっしゃっていたように、区長さんに話に行った時に「ぜひやってください」と言って頂けて、本当に嬉しく感じました。また、下準備から1年近く掛かっているので、「やっと貼れた」という思いが強かったです。

(聞き手)
 どうやって有志を集められたのでしょうか。最初に募集した時にはもう協力してくれる人がいたのか、それとも、最初はお二人だけだったのが少しずつ増えていったのか、ぜひお聞かせください。

(福田様)
 最初は授業の延長線上のような感じでした。小川先生が指導しているクラスだけ呼び掛けられたのですが、ある程度の人数が集まった後は先生が全校に「こういう活動があります」と呼び掛けて、さらに人数を増やしました。

(聞き手)
 現場に出るのは夏休みや冬休みですが、下準備の作業はいつ行っておられるのでしょうか。

(福田様)
 基本的には夏休みなどで、通常の土日はたまに活動する程度です。先生から活動する日をメールで呼び掛けて、その日に集まれる人だけ来て活動します。

(聞き手)
 生徒のお二人は部活動と並行しながらの活動で大変だと思うのですが、何故こんなに頑張れるのですか。

(福田様)
 私は多賀城市に住んでいるのですが、私自身も津波に遭っているので、他の人にこうなってほしくないという思いがあります。また、色々な人に伝えたいという思いもあります。私は部活の休みが少ないので参加日数は少なめでしたが、その思いがあるので参加出来て良かったと思っています。

(中村様)
 私は水泳部なので、冬は休みが取りやすいこともあり、参加出来たのですが、最初にこれに参加しようと思ったきっかけは、中学校の生徒会で震災関係の活動に参加した事でした。高校でも何かしらに関わりたいと思っていたので、小川先生の物理の授業での呼び掛けを聞いて参加しようと思いました。そのお陰で、今でも変わらず活動を続ける事が出来ています。

(聞き手)
 ご両親などから、昔の地震の話を聞かされた事はございますか。

(福田様)
 親が宮城県出身ではないので、私は聞いた事がありませんでした。しかし、地震の後に、母の友人から少しだけ聞きました。

(中村様)
 私も同じですが、家が高台なので、地震が起きたら家に居ろと言われていて、それだけは守って家にずっといました。

波高プレート設置活動の英語化

(聞き手)
 この震災の事を、どう広めていきたいとお考えですか。ご自分の考えをぜひお聞かせください。

(中村様)
 私は七ヶ浜町に住んでいて、多賀城市の事はあまり知らなかったので、今回の津波の作業をして、津波がここまで来たという事が再確認出来ました。この標識を見てもらって、他の人にもこれを再認識してもらいたいです。

(福田様)
 他県の人や海外の人にも知ってもらいたいですが、一番は、身近な人にこの活動を知ってもらいたいです。

(聞き手)
 今、「海外」というキーワードが出てきましたが、この活動を英語化する予定はないのでしょうか。

(福田様)
 活動の英語化はもう行っています。YouTubeの動画に、先生が英訳してくださったバージョンがアップされています。私がちょうど夏休みにアメリカに行った時、この英語バージョンの動画を色々な人に見せてきました。

(聞き手)
 看板にも何か英語表記があると、海外の人が来られた時にご案内しやすくなるのではないでしょうか。

(小野様)
シンプルに「TSUNAMI」と入れるのが良いのではないでしょうか。それから、東北電力さんやNTTさん、周辺自治体さんと一緒に活動させてもらえれば、より広がりが出来て良いのではと思っています。

(聞き手)
 この活動をしているのは生徒さんの一部だと思いますが、その生徒さんたちは周りにどのように見られているのでしょうか。また、何か活動の感想などを聞かれたりするのでしょうか。

(福田様)
 人によります。私の場合、活動日によっては部活を休ませてもらうこともあります。部活外といいますかボランティアなので、部活動を休んで携わるとなると、あまりよく思われない部分もあるのかもしれませんが、活動している事を凄いと言ってくれる人もいます。

(小川様)
 少し逸れるかもしれませんが、あと3年しないと新しい学科は出来ません。そうなると、第1回生として入ってくる子は小学校4年生で被災している事になります。その年齢では、状況は覚えているかもしれませんが、何が起こっていたのか、避難所がどういう場所だったのか、わかっていない人の方が多くなるのではないでしょうか。それは非常に危ない事ですので、その時にこうして卒業生に話をしに来てもらえれば、また少しは違ってくるのではないでしょうか。

(聞き手)
 この活動自体は、なるべく息を長く続ける予定なのでしょうか。それとも、一気に活動を完走させてしまう予定なのですか。

(小川様)
 構想としては、多賀城市は本当なら今年の夏に全て終わらせてしまって、冬からは塩釜市に移ろうと思っていたのですが、なかなか進みませんでした。多賀城市と塩釜市が終わったら、今度は利府町や七ヶ浜町など、電柱があり標識を貼れる範囲はやりたいと思っています。
逆に言うと、2、3年で終わらせてしまわないと、かなり煩雑になってしまいかねません。どこの電柱に貼った、どこはまだ貼っていないという届け出を出すのが混乱してくるので、きちんと終わらせてしまって、以降の生徒たちは夏に歩いてそれを全部点検するような形にするべきではないかと思うのです。点検する事で、ここまで津波が来たという事を体験します。そうする事で、ずっと続けやすくなると思うのです。ですから、2、3年で全て貼り終えてしまうべきです。

(聞き手)
七ヶ浜町ぐらいまでエリアを伸ばして、2、3年で終わらせるという事ですか。

(小川様)
 実は石巻の野蒜から、通学している生徒もいるので、通学している生徒がいる範囲は活動範囲にしたいと、そう考えています。

都市型津波は多賀城にしかない

(聞き手)
 先ほどのイオン多賀城店さんの駐車場のように、企業に貼らせてもらうという事は、今後の試みとして考えているのでしょうか。

(小川様)
 まずはイオン多賀城店が突破口になると考えています。駐車場にはぜひ貼りたいのですが、そうする事で動画での追体験を補助し、臨場感を出せると思います。それがうまくいけば、他の企業やお店にも貼らせて頂けるようになるのではないでしょうか。基本的に、YouTubeに動画が載った建物には貼らせてほしいところです。
 それから、YouTubeにアップされていた優れた報道番組は、今ではもうほとんど削除されてしまいました。放送法の問題かもしれませんが震災に関しては特例を設けたり、法令を作ったりしてアップしたままにしておくか、放送局に供出の義務を付けて、YouTubeにでもアーカイブやチャンネルを作ってもらえればと思います。その辺りの対応を、東北大学さんかどこかにお願いしたいです。
 多賀城高校の駐車場に学科棟を建ててほしいという要望を出しています。県では予算が確定していません。「何故、多賀城にそれが必要なのか」という資料を用意しないといけないのですが、私は多賀城にはそれだけの価値があると思うのです。
都市型の津波はここでしか起こっていません。兵庫や神奈川などの都市部の人は、まさに多賀城に来るべきでしょう。回るべきコースもきちんとあります。また、貞観津波では、多賀城南門のすぐそばまで津波が来ており、今回の津波の範囲とほぼ一致するというように、1400年前との対比も出来ます。
広島の平和公園のように、多賀城にきちんとした設備を用意し、ここで学習した子どもたちが石巻や気仙沼、陸前高田に行くのが道筋だと思います。ですから、ここに何か1つ、きちんとしたものを作って頂きたいと考えています。
 マスコミは陸前高田や南三陸を重視して報道していましたが、石巻や多賀城、山元町などでも教訓が沢山あります。
そこも網羅出来るようなものを作ってもらいたいのです。起点となる都市型津波は多賀城にしかないので、そこを強調して、新しい学科の後押しとしたいのです。

YouTubeの有効性

(聞き手)
 他県から多賀城に来られて、こういった都市型津波のコースを生徒さんたちと一緒に回ったり、小川様がそれをエスコートしたりといった事は今までにございましたか。

(小川様)
先日の日曜日にも岡山県の先生をご案内して、その2週間前には岐阜県の先生をご案内しました。その時に、このプレートを見て回ると言うと非常にわかりやすいです。来てくださる方たちには事前に動画を見てもらうようにしているのですが、その動画に映されたドラマを知らない事には、その場所に立っても何の考えも出てきません。その事前学習が出来るという点で、YouTubeは非常に有効なのです。私は福岡県出身ですが、高校の写真部の全国関係の事務局をやっていた関係で、他県の知り合いがかなりいるのです。その方たちがかなり来られます。
ですが、徐々に見せる場所が減っているので、今は福島県浪江町の通行許可証をもらい、そこの小学校まで連れて行くコースにしています。
 また、石巻市や陸前高田市は被災の大きさに反比例して、動画があまり残っていません。撮れる場所が無かったのです。気仙沼市は比較的残っている方ですが、今後、どう伝えていくかを考える時期に入りました。

津波の痕跡の保存

(聞き手)
 このプレート設置活動以外に何か他の活動を展開する予定はあるのでしょうか。また、こういう活動をしてみたいという構想をお聞かせください。

(福田様)
 先日、東北大学の森口先生とお話させて頂いた時に、「今ここの人だから出来ることは、震災の事を、臨場感を持って話す事です」とおっしゃっていました。テレビや動画でも映されていますが、色々な人に出来るだけ自分の口から伝えていけたら良いと思いますし、震災関係の話し合いの場も沢山あるので、そこでも自分の事を話していきたいです。いわきや福島など、色々な所の人の話を聞いて関われたらいいとも思っています。

(中村様)
 すぐに、これ以外というのはちょっと難しいので、今の活動の延長線上として考えさせてもらいます。私は小学校の教員を目指しているのですが、もしこの地域で教員をする事が出来たら、この活動の成果を使って、未来まで伝えていけるように活動し、これをそのまま続けていきたいと考えています。

(小川様)
 津波のプレートを貼ることで、素材・教材を明確化できました。
ですから、これをうちの生徒だけではなく、他県から修学旅行などで来られた際は、うちの学校の生徒が案内して回るという形が実現すると良いと思うのです。動画で事前学習してもらい、実際の標識を見ながら歩く、それを実現させたいです。津波に遭遇していないとしても水がなく、電気も灯油もないという状況は、ここの人間は全員体験していました。その経験を聞くことは、他県から来た人にとっては得難い体験になります。多賀城にいた者にしかわからない臨場感のある話をして回ること。これで、半日くらいのコースは十分に成立すると思うのです。

(小野様)
 小川先生も私たちに言っていましたが、こういう活動をしているので、亡くなった方を慰霊する碑などを建ててもらって、ルートを回っていく中で、自分の気持ちを表現できるところもあればいいと思う事があります。修学旅行には、実際にこういう所を見たいという問い合わせや、ボランティアをしてみたいという問い合わせがあります。今はなかなかそうした活動ができませんが、他の地区と絡めながら、ボランティアをして帰るというような事が出来れば、もっと沢山の人に来てもらえる気がします。

(小川様)
 それからもう一つ。やはりこの地域内での話ですが、献花や精霊流しなどのテレビで報道されているようなものを見て、多賀城でもかなりの人が亡くなっているのに、供養する花がおかれている場所が無いと感じました。もしかしたら、ご遺体を確認した人は安置所だったグランディ21で確認されて、どこで亡くなったかまでは知らないのではないでしょうか。そこでうちの生徒で割り振って、どこで何人が亡くなったかわかるものを作り、それを基にお盆にきちんと献花する活動を毎年続けたいと思っています。学校から市に「ここに石碑を建ててくれ」とは言えないので、お盆前後だけ看板か何かを立てて花と一緒に置いておき、終わったら引っ込める。それを来年もまたするというように、その時期だけで構わないので思い出してもらいたいのです。

(福田様)
 確かに、言われれば亡くなった場所や時間はあいまいです。

(小川様)
 ですから、津波が来たというだけではなく、これだけの人が亡くなった場所なのだという事をきちんと残さなくてはなりません。

(小野様)
 それから、痕跡が残っている場所を市として保存してもらえるように動いて頂けるのであれば、ひとまず安心出来るのではないかと思っています。今残っている痕跡は、放っておいたらいつまで残っているかもわかりません。

(小川様)
 また、宮城県全体で何が起こったかを説明するための地図を作りました。仮設住宅もあと数年で無くなりますから、今は珍しくない物であっても、どこかで保存するか見学出来るようにするかが必要でしょう。

(小野様)
 空き地はあるので、ここに仮設住宅を1棟建てて、教材にしようという話も出ています。

災害が起きた時に何をするかが重要

(聞き手)
 今回の東日本大震災を経験されて、後世に伝えたい事、あるいは教訓は何でしょうか。実際に被災された経験を踏まえてお聞かせください。

(小川様)
 私は、自宅が被災し、6月まで避難所にいて、そこから仮設住宅に移りました。震災直後は塩釜高校に勤務していたのですが、気仙沼市にも15年ほどいたので、向こうにすぐに向かいました。自分も被災しましたし、元の勤務地は惨憺たるものだったのですが、後世に伝えたい事は略奪も起こらず、本当にどこの避難所も整然としていた事です。これは誇るべき事で、私はまずこれを後世に伝えるべきだと思います。
 また、震災直後の避難所にいた人たちは、今会っても非常に懐かしいのです。あの頃の避難所には全財産を無くしてしまったような方が多くいて、皆さん「生きていて良かった」というような感じがありました。ですからあの時は金銭関係も何もなく、ピュアな状態の人間の繋がりがありました。今ではもうお互いの生活に戻っていますが、避難所の方たちは互いに気持ちが純粋だったのです。日本人の善良さ、全国の人が「何かしたい」と思っていた事を、きちんと後世に伝えて残してほしいと思います。

(小野様)
 東北で起きた事だからなのか、日本人だからか、あのような状況でも、きちんとした対応が出来たのではないでしょうか。それから、今こうして普通に生活しているという事が、当時はとてもありがたいものでした。不便をした、あの1カ月の長さを私たちは知っているのです。それを経験した私たちでさえ徐々に忘れてきている部分もありますが、あの時期の事を伝えていきたいのです。
人としても非常にたくましくなったと思いますし、社会も少しは成熟して、それを再確認出来たのではないでしょうか。それらは私たちが誇るべきところです。
世の中の変化に伴って変わっていく事かもしれませんが、私たちが生きたこの時代にはそういう事がきちんと出来たという事を伝えていきたいです。

(福田様)
 震災に遭って良かったとは思いたくありませんが、自分を成長させてくれたので、それについては良かったと思っています。忘れないでもらいたいですし、甘く見ないでもらいたいです。私は甘く見ていたので逃げ遅れてしまった部分がありました。津波を防ぐ事は、正直に言って、防潮堤などがあっても不可能だと思います。同じ経験を繰り返さないようにするためには、防潮堤などのハード整備だけでは不十分です。想定しないことが起きるということを身をもって経験したので、意識を高く持ち続けるように伝えていってほしいです。

(中村様)
 私は中学校・高校と生徒会をしてきたので、中学校でもいざ震災が起こったらこうしようという指針があったのですが、実際には全く機能しませんでした。後からその理由を考えると、すぐには動けないのが一番の理由だという答えに行き着きました。震災はいつ起こるかわからないので、起こってしまったらそれはそれで仕方ありません。むしろ、起きた後が一番重要です。起こった時に何をするかが重要だという事を伝えていきたいです。