(聞き手)
発災当時の
対応でうまくいった事は何ですか。
(二階堂様)
二つあります。
一つは自慢話になるかもしれませんが、本学の教
職員や
学生が非常によく頑張ってくれた事です。
土壇場の状況だったにもかかわらず、本当によくやってくれました。例えば、2日目の朝に、多賀城市からパンの差し入れがありました。
それは、震災後、初めて口にするものだったのですが、
職員や
学生が小さい子どもさんに、自分が食べていないにもかかわらず、自分の分をあげていたのを見ました。そんな姿を見たり聞いたりして、感動を覚えました。
この
学校の卒業生として、また、この
学校に勤めていて、良かったと心の底から思いました。
もう一つはトイレの問題でした。礼拝堂には男子用・女子用共に1つずつのトイレしかなく、そこに最大500人もの方が避難して来ていたので、大変な状況でした。
避難者の中には、外国の方もいましたので、和式の使い方がわからなかったようでした。
あっという間に、トイレが詰まってしまうので、そのたびに教
職員や
学生が、バケツに水を汲んで流して、なるべく、使う方が苦痛にならないようにしていました。
それがとても印象に残っていて、トイレの問題は、ある意味では、食べ物よりも大事なのではないかと思ったほどです。
(聞き手)
遠藤教授は、何が一番、印象に残っていますか。
(遠藤銀朗様)
多賀城は海から非常に近いので、津波の被害を受けると予測出来ました。
大変な事になる前に多賀城キャンパスに帰らないといけないと思っていたのですが、どのルートが使えるかもわかりませんでしたし、そもそも、大渋滞で動きません。
結局、震災当日は、どうしても多賀城に戻る事が出来ませんでした。その後に、自宅に帰ったのですが、渋滞で、帰り着いたのは夜10時頃でした。
翌日には土樋キャンパスに行きまして、
対策会議に出席してから多賀城キャンパスに向かいました。
多賀城キャンパスに到着したのは昼頃だったと思いますが、そこで礼拝堂の様子と状況報告を受けました。
多賀城市とは包括協定を結んでいますが、本来の目的は、教育と市政に関することで、色々な市の企画やプロジェクトに協力するというものです。
災害
対策の事は、一切入っていません。
ですから、この多賀城キャンパスは市の指定避難所にはなっていなかったのです。
多賀城市内の
学校や体育館などの避難所はもう満員で、ぜひ、ここを開放してくださいという緊急要請を受けたので、次長の判断で許可したという報告を受けました。
もし、避難所として開放していなかったら、もっと被害が増えていた事でしょう。そうした適切な
対応をしてくれて、大変ありがたく感じました。先ほど、二階堂さんがあまり適切な
対応が出来なかったとおっしゃっていましたが、そうではないと私は思うのです。
皆さん、一生懸命に動きましたし、その事が、多賀城市民の皆さんのお役に立つ事が出来たと思います。
職員の皆さんが持てる力を全て発揮して、そういう行動をしてくれた事に対して、大変大きな感謝を申し上げたいと思っています。
ですが、周囲の状況は悲惨なものでした。翌日の昼にさえも、国道45号は通れませんでしたから、迂回して、多賀城キャンパスに来ました。
さらに翌日になって産業道路に行ってみたのですが、筆舌に尽くし難いほどの状態で、どれだけの被災者がいるものだろうと悪寒が走りました。
後で聞いたところによると188人もの方が亡くなっていたらしいのですが、そのような状況で、このキャンパスを開放した事は、役に立っていたでしょうから、それがとても良かったと思っております。
(聞き手)
大宮司様の印象に残っている事についてお聞かせください。
(大宮司様)
発災直後はパソコンを押さえていました。3月11日は、工学部へ実験用の機械が入ってくる22年度における最終日で、しかも大きな品物が入ってくる日でした。
何人か業者さんもいて、組み立てなどをしておりましたので、そのデータが入っているパソコンを守る事が最初の使命でした。
その後、あまりにも揺れが長すぎるので、
学生係や学務係の担当者はまず、避難口を確保していました。
ようやく揺れが収まった時には電気も全て消えていて、警報だけが鳴っていました。
避難はBグラウンドと決まっていたので、そこへの誘導を行いました。その段階でBグラウンドに行き、まだ出てきていない
学生がいないか確認していたところに、釜石で7メートルの津波が来たという情報を知りました。
これはまずいと思い、Bグラウンドよりも高い位置にある礼拝堂前の道路沿いスペースに
学生を移動させました。午後3時半にはその作業も完了していたと記憶していますが、全学教授会があったので先生方は誰もいませんでした。
しかし、当時の次長と二階堂さんが全ての統括をするという形は決まっていましたので、海側に住居のある
学生は絶対に帰らせないということと、安全が確認できるまではどの建物にも入れさせないという体制が敷かれていました。また、幼稚園の園児も同じ場所に避難させたのですが、その頃ちょうど雪が降ってきたものですから、施設担当であった私は、これはどうしようかと頭を捻りました。
学生からテントが体育館にあったというはずとの情報を聞いたので、それを使う事にしました。
体育館の中は、天井から電気器具が落ちていて危険な状況だったのですが、どうにかテントとタープだけは出しました。
そこからは
学生の行動が早く、あっという間にテントを張って、そこに園児だけは入れることができました。
学生の避難場所は普通なら体育館ですが、そんな状態だったもので、礼拝堂を避難場所にしようと決まったのが午後4時少し前だったと思います。同じ頃に被災者を受け入れてくれという連絡も入ったので、両者とも礼拝堂に誘導を始めました。
停電していたので、暖を取れるストーブをあるだけ出し、乾パンを持って来て、毛布を出してと、
職員たちは日が暮れる前に、ありったけの行動を取ってくれました。
午後5時以降には、次々に避難して来る方や自衛隊車両で運ばれてくる方がいたので、その方たちに毛布と乾パンを渡していました。
ですが、
学校なので、
学生分を確保しなくて良いものか自問していました。しかし、まずは今やらなくてはいけない事をこなすべきと判断しました。
その頃には、まだ礼拝堂の水道が使えていたので、礼拝堂のトイレだけは使えたのですが、まもなくその水道も止まってしまいました。
停電のため、受水槽・高架水槽はポンプが無いと動かせませんので、全ての水道が使えない状態になりました。
それ以降は、夜の間ずっと、ストーブの灯油が無くなったら給油し、トイレが汚れたら掃除をして、流すための水を汲んでと、そのサイクルだけで一晩を明かしました。
保健室には派遣の保健担当の方がいたのですが、その方は石巻で、お父さんとおばあさんを亡くされたそうです。しかし「私が帰宅して、ここにいなくなったら、避難された方たちを診る人がいなくなる」と言って、ご自分の事も顧みずに残ってくださったのです。
本当に感謝の言葉しかありませんでした。
(二階堂様)
震災以降は、
学生との距離がとても近くなりました。工学部の
学生は凄いと本当に思いました。
(遠藤義安様)
自分自身が震災被害者でも、
ボランティアとして礼拝堂に残って、昼夜を問わず働いてくれた
学生もいたので、本当に有難い気持ちでいっぱいでした。
(二階堂様)
それから、気が付いた時には、礼拝堂の片隅に子ども用の図書コーナーが出来上がっていました。避難して来た心ある誰かが作ってくれたのだと思うのですが、子ども向け図書が沢山と、ぬいぐるみやおもちゃが置いてあって、子どもたちが遊べるスペースが出来ていました。誰かが気配りをしてくれたのでしょう、教
職員が作った訳ではありませんでした。
(荒井様)
最初のうちは怖いからか、皆さん避難して来ていました。その後は帰れない人たちだけが残って、避難する人数は少しずつ少なくなっていったと思います。
(二階堂様)
ついでに言えば、日中は人が少なくなりました。夜になると増えるのです。自宅では怖いとか、こちらに来れば食糧がある程度配給されるとかの理由があったと思うのですが、日中に10人だったのが夜には250人になるという事もありました。