防災・減災への指針 一人一話

2013年12月11日
避難所として市民を受け入れた判断と、学生・教職員の活躍
東北学院大学工学部環境建設工学科 教授
遠藤 銀朗さん
東北学院大学 学生部学生課 課長(当時、多賀城キャンパスに勤務)
二階堂 哲さん
東北学院中学校・高等学校 事務長補佐(当時、多賀城キャンパスに勤務)
大宮司 俊彦さん
東北学院大学 就職部就職課 課長補佐(当時、多賀城キャンパスに勤務)
荒井 和弘さん
東北学院大学 学生部学生課 多賀城キャンパス担当学生・厚生・体育事務係 係長
遠藤 義安さん

地震と津波は「セット」との意識

(聞き手)
 東日本大震災発災前に、どのような備え対策をしていましたか。

(遠藤義安様)
 私は志津川(現南三陸町)の生まれで、過去にチリ地震で津波を受けていますので、子どもの頃から「地震が起きたら津波」という考えを植え付けられていました。
東日本大震災の発災当時は仙台市に住んでいましたが、津波が来る事はとても恐ろしく感じていました。
6メートルだとか9メートルだとかラジオで言われていましたが、自分の感覚では「絶対にここまで来る」と思っていました。
避難も高台にと決めていたものですから、すぐに一番高い礼拝堂にと考えました。日頃からそういう意識がありました。
 備えとしては、仙台市での講習を何度も受講し、仙台市災害ボランティアコーディネーターとして登録していました。
当日の動きの中で自分の知識と違う動きをしていた場面もあったのですが、その時にできることをしていたという状況だったと思います。
私も礼拝堂にずっと寝泊りしていました。多賀城市の職員の方も来ていましたが、誰か1人は常に話が出来る人間がいないといけないと思い、私はそこにずっといました。
ノートに色々とメモしながら活動していましたが、最初はずぶ濡れで担ぎ込まれたような人たちの名前なども全てメモしていました。
どこでどういう状況だったのかを全てメモしていたのですが、これだけ多くの人が来るとは思わなかったので、とても対応しきれなくなってしまいました。
それから、連絡先がわかる物が必要だと考えたので、自分の名前と携帯番号が書いてある紙を配っていました。携帯には色々な人からの連絡が入っていましたが、その辺りの対応はうまく出来たと思います。

(聞き手)
 今回はかなり尋常でない揺れでしたが、揺れが起こった時点で津波が発生すると予感しておられましたか。

(遠藤義安様)
 絶対に来ると思いました。10年くらい前にかなり大きな地震がありました。結果的には、津波が全く来ませんでしたが、その時も、逃げるように勧告しました。
地震があったら津波が来るというのは、もうセットだと思っています。

(聞き手)
発災前に備えなどについてお話頂けますか。

(荒井様)
 特に準備や備えはしていませんでした。宮城県沖地震の時もライフラインが全て使えなくなりました。
宮城県や仙台市がそういった被害を受けたにもかかわらず、今回の地震でもまたライフラインが断たれてしまったので、当時の経験はあまり活かされていないのではないかと感じてしまいます。

(聞き手)
二階堂様の備えはいかがでしたか。

(二階堂様)
 私も特に備えを個人的にしていたというような事はなかったです。
昭和53年の宮城県沖地震の時も大学内におりまして、その時には引き出しや物が飛んできて非常に危険な思いをしました。
それに比べたら、今回はマグニチュードこそ大きかったのですが、物が倒れたという事は比較的少なかったようです。
 地震が来た時に思った事は、どのタイミングで外に逃げればよいのかという事です。
下手に逃げても、ガラスが落ちてけがをするかもしれません。
幸いにも、宮城県沖地震以降、建築基準が厳しくなって、それぞれのキャンパスも補強されていましたので、それで救われた部分もあるのでしょう。
しかし、毎年、防災・消防訓練をして、全員が色々な持ち場につくのですが、東日本大震災時はその通りには動けませんでした。
全スタッフが揃っている訳でもありませんし、想定した被災が来ている訳でもありません。訓練はやはり大事で、必ずやっておかないといけない事ですが、訓練行動以外のこともやらないといけないという覚悟が普段から必要です。
避難誘導係でも単に外にいればいいとは言い切れませんし、女性の方も場合によっては消火栓を持って走り回ってもらう事になるかもしれません。そうした覚悟が必要になるという事を、今回の震災で強く思い知らされました。

(聞き手)
 物はあまり落ちてこなかったというお話でしたが、支え棒などの防災対策はされていたという事なのでしょうか。

(二階堂様)
そうです。宮城県沖地震の頃は、例えば、本棚を固定するなどの対応はしてなかったのですが、昭和53年以降は本棚を全部固定していました。
宮城県沖地震の時は1つ本棚が倒れると、連鎖して他の本棚も倒れてしまったのですが、今回はそういった事故は起こりませんでした。
過去の経験を教訓として活かせたという事なのでしょう。

防災教育を継続する事の大切さ

(聞き手)
 震災当日に居た場所と、過去の震災経験についてお聞かせください。

(遠藤銀朗様)
 私は3.11当日、多賀城キャンパスにおらず、土樋キャンパスにおりましたので、震災が起こった時の多賀城キャンパスの状況については、皆さんからお聞きした話でしかわかりません。
 震災や津波は、過去にも経験があります。
実際に被災した訳ではありませんが、岩手県釜石市で育ちましたので、チリ地震津波を小学5年生の時に見ました。
かなり大きな津波だった事を覚えています。今回の被害ほど酷いものではありませんでしたが、津波がどういうものなのかは、かなり記憶に残っていますので、今回の地震でも大きな津波が来るだろう事は予測出来ました。
携帯電話のワンセグ放送で仙台空港の映像を見まして、多賀城も大変な事になっているのだろうと想像出来ました。
すぐにでも多賀城に戻りたかったのですが、その日は戻る事が出来ず、翌日に多賀城キャンパスに戻りました。
 前もってどのような準備をしていたかですが、先ほど二階堂さんから、防災訓練があってもなかなかその通りにはいかないという話が出ました。
確かにその通りではありますが、もし防災訓練などが全くなしに津波や地震が起こった状況になっていたら、もっと酷い事になっていたでしょう。覚悟をしていても、あれだけの大きな自然災害に遭った時には、想定通りの行動がなかなか出来ないものです。
しかし、ある程度の体制は、訓練を毎年やる事で出来たと思っております。
 前年の2010年に防災訓練をしました。これは多賀城キャンパスのみならず、仙塩地区での防災訓練だったのです。
宮城県沖地震が来るという想定のもとに訓練をしたので、もしこの訓練の経験がなかったら、災害に備えるとはどういう事かわからず、また違った結果になっていたと思います。
訓練の最後に、消防の方々や自衛消防隊の方たちに向けてお話をさせて頂く機会があったのですが、日頃の訓練は本当に有事になったかのような形で訓練し、実際に何かがあった時には、平時のように行動してほしいと伝えました。

(聞き手)
 釜石市出身とのことですが、チリ地震津波以降、地域で何か語り伝えられている伝承や教訓などはございましたか。

(遠藤銀朗様)
 三陸一帯は全てそうですが、何度も津波が来ています。三陸大津波や貞観の大津波、その後にチリ津波、そして今回と何度も来ていますので、津波の恐ろしさは子どもの頃からずっと聞いておりました。
ですから、こういう事はあり得るのだと、話には聞いていたのです。
今回も、子どもたちが1人も亡くならずに済んで「釜石の奇跡」と言われていますし、何か特別な教育を熱心にやってくれた方もいたようですが、そういう下地があって初めて、防災教育が効果を発揮すると思います。
今回の経験をぜひ下地として、防災教育を続けていく事が大事な事でしょう。

(聞き手)
続いて、大宮司様からお願いいたします。

(大宮司様)
 私は松島町出身で、海の怖さは幼い時から祖母などから伝え聞いていました。いつも聞かされていたのは「津波が来る前には潮が引く」という事で、話していたのがチリ地震だったのか三陸大津波かはわかりませんが、その時には海岸の水が全てなくなり、松島湾の一番外側にある桂島まで海の底が見えたそうです。
また、打ち上げられた魚を取りに行った人が亡くなったとも聞いていましたので、地震の時は海に近寄ってはいけないという事も頭に入っていましたが、今回は、ここまで酷い事になるとは夢にも思っていませんでした。
宮城県沖地震の時にはまだ学生でしたので、ビルが崩れてしまったのを見て「この程度でこうなってしまうのか」という思いを覚えました。
 準備に関しては、多賀城キャンパスに来てからの毎年の避難訓練と防災訓練をしていた事と、私は管財担当なので、備蓄品を年度末には数を調べて報告する義務がありますから、何がどれくらいあるかがわかっているぐらいだったと思います。
今回は、各スタッフが良い動きをしてくれた事の方が大きかったのではないでしょうか。

発災直後の対応

(聞き手)
 発災直後の出来事で、印象に残っている点を教えてください。

(遠藤義安様)
 沢山ありますが、なかでも、学生に、涙が出そうなほどに感謝したい出来事がありました。
震災当日は再試験を受けた学生の成績発表の日でした。
発災時刻にはちょうど多くの学生が窓口にいて、何も出来るような状況ではなく、とにかく避難させる事にしました。
一般の市民の方も含めた最初の避難者の方たちは礼拝堂に入ってもらい、どうにかなったのですが、時間が経つにつれて、ずぶ濡れの方や学生などが次々に来ました。
市の職員の方に誘導されたご年配の方なども来られたのですが、そうなると着替えが足りなくなってしまったのです。
学内のありとあらゆる場所から着替えを探してきて対応しましたが、今度は毛布が足りなくなってしまったのです。
私が前に出て、礼拝堂に避難している方々に毛布を分けてくれるように協力を申し出ました。
すると、毛布を提供するために、学生が礼拝堂から出ていきました。
その状況では、学生が礼拝堂に避難のために滞在していないということが一番の協力になったのです。
協力してくれた学生たちは、友だちのアパートなどにまとまって移ってくれたのです。本当に有難い事でした。
 翌朝に、また同じような事が起こりました。夜明けとともに捜索が再開されたので、衰弱して礼拝堂に入って来る方が沢山いたのです。
避難していた方々を起こして、前日と同じように協力を呼びかけると、残っていた学生たちが毛布を置いて礼拝堂をあとにしました。
ありがたかった反面、学生たちには申し訳なく思いました。
ガスも水道も、食べる物もないような状況が続く訳ですので、本来なら大学対応してやらなければいけなかったのでしょうが、これが一番印象に残った事でした。

(聞き手)
 今回、ボランティアの活躍などがかなり取り上げられていましたが、震災後、学生の見方が変わったということはありましたか。

(遠藤義安様)
 学生だけではありませんが、みんな人間として、助け合いの精神をきちんと持っていたという事なのでしょう。
私たちの頃も含めて「今の学生は」と言われていたのかもしれませんが、そういう中でも、掘り下げていくと、きちんと出来るという、そういう目で、学生と接するようになりました。

(聞き手)
続いて荒井様、お願いします。

(荒井様)
 震災当日、実は、私も土樋キャンパスに向かっている最中でした。
会議が午後4時から入っていたので、いつもより早めに、午後2時半過ぎに出かけました。
宮城野区のDNP東北の付近を走行中に地震に遭いました。
たまたま、車内テレビを点けていましたので、緊急地震速報を聞く事が出来ました。
揺れは車ごとひっくり返ってしまうのではないかと思うほどの強さで、しかもなかなか収まりませんでした。
道路の左端に車を停めようと思ったのですが、ビルの壁や電柱がとても激しく揺れていたので、いつ倒れてくるかわからない場所には停められず、仕方なくノロノロと車を走らせていました。
多賀城キャンパスに戻るか、土樋キャンパスに行くべきか非常に悩みました。
しかし、時間も限られていましたし、その時点で会議が中止になるとは思えなかったので、本部機能のある土樋に向かう事にしました。
今になって振り返ると、もし多賀城に戻っていた場合、津波に巻き込まれていたかもしれない時間帯だったので、結果的には正解だったのかもしれません。
 土樋に着くと、学生たちは、大学の向かいにある東北大学のテニスコートに避難させられていました。
駐車場に着いたところで、今日の会議が中止になったという事を聞きました。
その後、恐らく一番安全であろう体育館に、テニスコートにいた学生たちを移動させる事になり、私も手伝うことになりました。
ですが、移動させる前に、体育館にシートを敷き、暖を取るための石油ストーブを各部室からかき集めるなどの作業が必要でした。
日が暮れてくると、今度は照明が必要になってきたので、倉庫から発電機を出し照明を点けました。雪も降っていて、余震もなかなか収まりませんでしたが、生協さんに協力してもらい、ちょっとした食べ物を大半の人に配って落ち着いてもらいました。
その後、土樋キャンパスでは解散命令が出ましたが、道路は大渋滞で動けませんでした。
帰れる教職員が帰ったのは、深夜になってからだったと思います。
私は体育館の周囲を巡回しながら朝まで過ごし、翌朝7時に、残りの乾パンを配って、土樋キャンパスでの作業を終了しました。
 とにかく多賀城キャンパスの事が気になったので、連絡を取り続けました。
何回目かでようやく二階堂さんの非常用携帯電話に繋がり、状況の確認が出来ましたが、詳細までは把握する事が出来ませんでした。
国道45号が通れないという情報は入っていたので、岩切経由で多賀城に向かいました。多賀城に到着後は先ほどの話の通り、びしょ濡れになった人が自衛隊の車で続々と運ばれていましたので、その作業に加わりました。
3月12日から避難所が閉所された3月25日までは、避難所の対応と、学生の安否確認を行っていました。

学生や教職員の活躍

(聞き手)
発災当時の対応でうまくいった事は何ですか。

(二階堂様)
 二つあります。
一つは自慢話になるかもしれませんが、本学の教職員学生が非常によく頑張ってくれた事です。
土壇場の状況だったにもかかわらず、本当によくやってくれました。例えば、2日目の朝に、多賀城市からパンの差し入れがありました。
それは、震災後、初めて口にするものだったのですが、職員学生が小さい子どもさんに、自分が食べていないにもかかわらず、自分の分をあげていたのを見ました。そんな姿を見たり聞いたりして、感動を覚えました。
この学校の卒業生として、また、この学校に勤めていて、良かったと心の底から思いました。
 もう一つはトイレの問題でした。礼拝堂には男子用・女子用共に1つずつのトイレしかなく、そこに最大500人もの方が避難して来ていたので、大変な状況でした。
避難者の中には、外国の方もいましたので、和式の使い方がわからなかったようでした。
あっという間に、トイレが詰まってしまうので、そのたびに教職員学生が、バケツに水を汲んで流して、なるべく、使う方が苦痛にならないようにしていました。
それがとても印象に残っていて、トイレの問題は、ある意味では、食べ物よりも大事なのではないかと思ったほどです。

(聞き手)
 遠藤教授は、何が一番、印象に残っていますか。

(遠藤銀朗様)
 多賀城は海から非常に近いので、津波の被害を受けると予測出来ました。
大変な事になる前に多賀城キャンパスに帰らないといけないと思っていたのですが、どのルートが使えるかもわかりませんでしたし、そもそも、大渋滞で動きません。
結局、震災当日は、どうしても多賀城に戻る事が出来ませんでした。その後に、自宅に帰ったのですが、渋滞で、帰り着いたのは夜10時頃でした。
翌日には土樋キャンパスに行きまして、対策会議に出席してから多賀城キャンパスに向かいました。
多賀城キャンパスに到着したのは昼頃だったと思いますが、そこで礼拝堂の様子と状況報告を受けました。
多賀城市とは包括協定を結んでいますが、本来の目的は、教育と市政に関することで、色々な市の企画やプロジェクトに協力するというものです。
災害対策の事は、一切入っていません。
ですから、この多賀城キャンパスは市の指定避難所にはなっていなかったのです。
多賀城市内の学校や体育館などの避難所はもう満員で、ぜひ、ここを開放してくださいという緊急要請を受けたので、次長の判断で許可したという報告を受けました。
もし、避難所として開放していなかったら、もっと被害が増えていた事でしょう。そうした適切な対応をしてくれて、大変ありがたく感じました。先ほど、二階堂さんがあまり適切な対応が出来なかったとおっしゃっていましたが、そうではないと私は思うのです。
皆さん、一生懸命に動きましたし、その事が、多賀城市民の皆さんのお役に立つ事が出来たと思います。
職員の皆さんが持てる力を全て発揮して、そういう行動をしてくれた事に対して、大変大きな感謝を申し上げたいと思っています。
 ですが、周囲の状況は悲惨なものでした。翌日の昼にさえも、国道45号は通れませんでしたから、迂回して、多賀城キャンパスに来ました。
さらに翌日になって産業道路に行ってみたのですが、筆舌に尽くし難いほどの状態で、どれだけの被災者がいるものだろうと悪寒が走りました。
後で聞いたところによると188人もの方が亡くなっていたらしいのですが、そのような状況で、このキャンパスを開放した事は、役に立っていたでしょうから、それがとても良かったと思っております。

(聞き手)
大宮司様の印象に残っている事についてお聞かせください。

(大宮司様)
 発災直後はパソコンを押さえていました。3月11日は、工学部へ実験用の機械が入ってくる22年度における最終日で、しかも大きな品物が入ってくる日でした。
何人か業者さんもいて、組み立てなどをしておりましたので、そのデータが入っているパソコンを守る事が最初の使命でした。
 その後、あまりにも揺れが長すぎるので、学生係や学務係の担当者はまず、避難口を確保していました。
ようやく揺れが収まった時には電気も全て消えていて、警報だけが鳴っていました。
避難はBグラウンドと決まっていたので、そこへの誘導を行いました。その段階でBグラウンドに行き、まだ出てきていない学生がいないか確認していたところに、釜石で7メートルの津波が来たという情報を知りました。
これはまずいと思い、Bグラウンドよりも高い位置にある礼拝堂前の道路沿いスペースに学生を移動させました。午後3時半にはその作業も完了していたと記憶していますが、全学教授会があったので先生方は誰もいませんでした。
しかし、当時の次長と二階堂さんが全ての統括をするという形は決まっていましたので、海側に住居のある学生は絶対に帰らせないということと、安全が確認できるまではどの建物にも入れさせないという体制が敷かれていました。また、幼稚園の園児も同じ場所に避難させたのですが、その頃ちょうど雪が降ってきたものですから、施設担当であった私は、これはどうしようかと頭を捻りました。学生からテントが体育館にあったというはずとの情報を聞いたので、それを使う事にしました。
体育館の中は、天井から電気器具が落ちていて危険な状況だったのですが、どうにかテントとタープだけは出しました。
そこからは学生の行動が早く、あっという間にテントを張って、そこに園児だけは入れることができました。
 学生の避難場所は普通なら体育館ですが、そんな状態だったもので、礼拝堂を避難場所にしようと決まったのが午後4時少し前だったと思います。同じ頃に被災者を受け入れてくれという連絡も入ったので、両者とも礼拝堂に誘導を始めました。
停電していたので、暖を取れるストーブをあるだけ出し、乾パンを持って来て、毛布を出してと、職員たちは日が暮れる前に、ありったけの行動を取ってくれました。
午後5時以降には、次々に避難して来る方や自衛隊車両で運ばれてくる方がいたので、その方たちに毛布と乾パンを渡していました。
ですが、学校なので、学生分を確保しなくて良いものか自問していました。しかし、まずは今やらなくてはいけない事をこなすべきと判断しました。
 その頃には、まだ礼拝堂の水道が使えていたので、礼拝堂のトイレだけは使えたのですが、まもなくその水道も止まってしまいました。
停電のため、受水槽・高架水槽はポンプが無いと動かせませんので、全ての水道が使えない状態になりました。
それ以降は、夜の間ずっと、ストーブの灯油が無くなったら給油し、トイレが汚れたら掃除をして、流すための水を汲んでと、そのサイクルだけで一晩を明かしました。
 保健室には派遣の保健担当の方がいたのですが、その方は石巻で、お父さんとおばあさんを亡くされたそうです。しかし「私が帰宅して、ここにいなくなったら、避難された方たちを診る人がいなくなる」と言って、ご自分の事も顧みずに残ってくださったのです。
本当に感謝の言葉しかありませんでした。

(二階堂様)
 震災以降は、学生との距離がとても近くなりました。工学部の学生は凄いと本当に思いました。

(遠藤義安様)
 自分自身が震災被害者でも、ボランティアとして礼拝堂に残って、昼夜を問わず働いてくれた学生もいたので、本当に有難い気持ちでいっぱいでした。

(二階堂様)
 それから、気が付いた時には、礼拝堂の片隅に子ども用の図書コーナーが出来上がっていました。避難して来た心ある誰かが作ってくれたのだと思うのですが、子ども向け図書が沢山と、ぬいぐるみやおもちゃが置いてあって、子どもたちが遊べるスペースが出来ていました。誰かが気配りをしてくれたのでしょう、教職員が作った訳ではありませんでした。

(荒井様)
 最初のうちは怖いからか、皆さん避難して来ていました。その後は帰れない人たちだけが残って、避難する人数は少しずつ少なくなっていったと思います。

(二階堂様)
 ついでに言えば、日中は人が少なくなりました。夜になると増えるのです。自宅では怖いとか、こちらに来れば食糧がある程度配給されるとかの理由があったと思うのですが、日中に10人だったのが夜には250人になるという事もありました。

今後の課題

(聞き手)
 多賀城市の、今後の復旧・復興に向けてのお考えはございますか。

(遠藤義安様)
 今後の事と言っても、沿岸部は全て被災しています。
今はそれぞれの自治体が色々な事を考えていると思いますが、多賀城市は多賀城市としての特色を出しながら、長く伝えていく方法を模索して頂けると嬉しいです。
具体的に「何が」と言われると、壮大な事なので、今ここで簡単には言えませんが、多賀城らしさも含めて、何かしら伝えていければ良いと思うのです。

(聞き手)
後世に伝えたい事や教訓などは、どうお考えでしょうか。

(遠藤義安様)
 一番大事なのは命を守る事ですから、それをきちんと伝える事です。地震も津波も何十年、何百年と経つと忘れてしまうものですから、それが薄れる事がないような教育を繰り返していく事が必要になるでしょう。

(荒井様)
 多賀城市の現在の復旧・復興の進捗状況がよくわかりませんので、どういう考えがあるかと言われても、ちょっとそれはわかりません。
ただ、今回の震災が起きて言える事は、あの規模の大きな地震が起きた場合にはすぐに津波が来るということを、各人が常に意識しておく必要があると思います。
これは多賀城市に限ったことではないと思いますが、まさか国道45号まで津波は来ないだろう、まさか津波でそこまで被害は出ないだろうという「まさか」が、今回は実際に起きています。
宮城県が津波対策に取り組んで防潮堤を作っているようですが、まずは、津波が来る前に逃げる、避難する事だと思います。
確かに防潮堤も必要かもしれませんが、それが壊れたり、あるいはそこから津波が来たりしてしまえば被害に結びついてしまいますので、まずは逃げる事が最優先です。
どうしても内陸に逃げる必要が出てくるので、道路の整備も大きな要素になると思います。

(二階堂様)
 1つだけ言わせて頂くとすれば、忘れさせない努力を、市だけでなく今回の経験者みんながしないといけないのではないでしょうか。
5年10年は覚えていても、20年30年も経つと忘れてしまいます。ですから、それを忘れさせない努力をいかに続けるかは重要です。
特に映像です。市で作られたDVDを見ましたが、私は高台にいて直接津波の被害を受けていなかったので、初めて津波の生々しい様子を見た時には愕然としたものです。人生観が変わる思いをしました。
親御さんの中には、小さい子どもには見せるなとおっしゃる方もいるそうですが、何かしらの形でそういう教育を継続させないと、絶対忘れてしまいますから、そこがとても大事だという思いがあります。

「人間」と「人間」の繋がりで、困難を乗り切る

(聞き手)
 今回の震災を経験して、伝えていきたい事はございますか。

(遠藤銀朗様)
 いろいろな仕組みや準備を整えていても、信頼出来る人が周りにいないと、何も有効な行動が出来ないという事です。
何が一番力になったのかを考えた時に「信頼出来る」という事が最大の力になりました。
互いに信頼関係を築いている事が、普段の準備として最も大事なのだと思うようになりました。
多賀城市と東北学院大学の間柄に当てはめても同じ事が言えます。
 今回の震災を経験して言える事は、実は職員の皆さんが本当に信頼出来る働きをしたからこれを乗り切れたという事です。決して万全の準備だった訳ではありませんが、この震災を完璧ではないにしても乗り越えて、なおかつ多賀城市の皆さんの役に立つ事が出来ました。
それは信頼出来る職員がいたからです。ですから、多賀城市と東北学院大学も、そういう協力が出来るような、そういう関係を作っていく事が大事なのでしょう。
多賀城市は、私たちだけでなく、住民の方や市民団体の方など、色々な所と互いに信頼関係を築き、それを防災や震災対応にどう活かしていくかが大事になると考えています。
結局のところは、人間と人間の繋がりで乗り切る事になります。
多賀城キャンパスでは、今回は大きな自然災害の中にあって、それが出来たのではないかと思っているところです。

(大宮司様)
 当時いろいろと対応していただいた多賀城市の総務部長さんがいなかったら、どうなっていたのだろうと思います。
あの方だったから話が通じたり、早く動けたりした事があったので、そういった職員をもっと増やして頂けたらと思います。
それが信頼関係、人と人との繋がりにもなってくるのでしょう。
信頼をもって話しが出来る方がいないと、変に事務的に感じたりすることがあります。
例えば工学部の建物の半壊の陳情を行ったのですが、必要以上に事務的だったように感じました。そうなると、やはり人と人との繋がりが難しくなってしまいかねません。
多賀城市でも、そうした信頼関係を築ける人材を育てていただく事が、将来の命題なのではないかと思いました。