(聞き手)
発災直後はどちらにいらっしゃいましたか。
(A先生)
当時は
校舎と体育館の間にいました。午前中に多賀城第二中
学校の
卒業式があって、貸していた雛壇や椅子をトラックで取りに行き、
小学校に戻ってきた時でした。山王
小学校の
校舎が縦に揺れているのが見えて、もし同じ規模で横に揺れていたら倒れるのではないかと思いました。
ちょうど1年生が下校して昇降口から出てきたところだったので、みんなを集めて落ち着かせていました。
(聞き手)
発災直後に津波が発生すると予見できましたか。
(A先生)
多賀城市内に津波が来る可能性は全く思い浮かびませんでした。教室には子どもたちがいたので、それだけが気掛かりでした。
(聞き手)
その時、
校舎内には何人くらいの児童がいたのでしょうか。
(A先生)
全校児童だと当時は750名でしたが、1年生が下校していたので、640名だったと思います。
(聞き手)
校舎は何か被害を受けましたか。
(A先生)
机はほとんど倒れていました。蛍光灯のカバーが外れ、上に置いてあったものが落ちて壊れていて、壁には亀裂が入っていました。電気も消えていましたし、崩れるのではないかという恐怖から、
校舎の中に入るのが怖かったです。
(B先生)
体育館の床が歪んで、ボールを置くと転がっていくような状況でした。
(聞き手)
発災直後はどのような状況だったのでしょうか。
(B先生)
揺れが来た時は
校舎の4階にいました。数日前に地震があったばかりなので、緊急地震速報が入った瞬間に、子どもたちはすぐ机の下に潜って身を隠していました。あまりにも長い揺れで、教室にある備え付けの棚が倒れてきました。その上にベルトでテレビを固定していたのですが、放り出されて跳んできました。落ちた先が机だったので良かったですが、恐ろしかったです。
教室の大きな水槽が揺れ、水がまき散らされたりしていて、子どもたちは泣き叫んでいました。
何度も余震が襲ってきたので、しばらく外に出るタイミングが掴めませんでした。
このまま
校舎が崩れて生き埋めになってしまうのではないかと思い、祈りながら必死にドアを抑えて揺れが収まるのを待っていました。校内放送は途中で切れてしまったのですが、少し揺れが収まった時に当時の教頭先生が駆けてきて、全員避難するように言われたので、タイミングを見計らって外に出ました。
(聞き手)
直後に津波が来ると予想出来ましたか。
(B先生)
津波の事まで考える余裕はありませんでした。泣いている子どもたちを励ましながら、全員を
校舎から出すのに必死で、外に出た時に一旦緊張が解けても、冷静に考えられない状態でした。
自分自身は寒さを感じませんでしたが、凍えている子どもを見てどうしようかと考えていました。迎えに来た保護者の方には、お子さんは無事だと話をしました。
(聞き手)
小学校という事で、住民の方も一斉に、避難のためいらっしゃいましたか。
(A先生)
しばらくしてから、
小学校の体育館に住民の方が避難して来られました。
(聞き手)
震災初日は大体何人くらい、避難された方がいたのでしょうか。
(A先生)
迎えの来られた保護者の方に子どもたちを引き渡していたのですが、雪も降っていて暗くなったので、残っている子どもたち200人位を体育館に入れました。そこに地域の方々も来たので300人位いたと思います。
(聞き手)
皆さんの様子はどうだったのでしょうか。
(A先生)
比較的落ち着いていたように思います。子どもたちと地域の方の場所を区切って、PTA会長さんを中心に動いて頂きましたので、混乱などは特にありませんでした。
初日は食糧がありませんでしたが、翌日からパンなどの支援物資が届いたので、食べ物は何とかなりました。ただ、空腹を満たすほどはなかったので辛かったです。2日目と3日目は発電機を借りてきて、ご飯を炊き、おにぎりを作って食べました。