防災・減災への指針 一人一話

2013年12月26日
子どもたちへの対応と避難所運営を経験して
天真小学校 教諭
澤田 茂実さん
天真小学校 教諭
三崎 恵理さん

地震発生時の子どもたちの様子

(聞き手)
 発災直後の様子を教えてください。

(澤田様)
 翌週に卒業式を控えていましたので、その準備や授業のまとめに追われていました。当時は社会科の1年間のまとめのテストをさせていたので、学校教室にいました。

(聞き手)
 揺れの間、どのようなことを危惧されていましたか。

(澤田様)
 津波の事は全く考えていませんでした。天真小学校は耐震工事をした直後で、立派な校舎に変わったので大丈夫だと思っていました。
しかし、3階は1階よりも揺れたので、津波と言うより、校舎が壊れるのではないかとか、このまま崩れ落ちてしまうのではないかということを心配していました。

(聞き手)
子どもたちの様子はどうでしたか。

(澤田様)
 私のクラスの子どもたちはしっかりした子が多いのですが、誰も経験したことのないような地震でしたので、女の子は泣いている子もいました。男の子は泣いていませんでしたが、不安だったと思います。
とにかく長い揺れでしたので、いつ収まるのかもわかりませんでした。私はただ、大丈夫だからと声を掛けることしか出来ませんでした。

保護者への児童の引き渡しと、避難者の受け入れ

(聞き手)
発災後、どのような行動をとられたのでしょうか。

(澤田様)
 いつまた揺れるかわからないので、まだ机の下に潜っていなさいと子どもに指示をしました。
校内放送も止まってしまいましたが、用務員さんが3階まで走って来てくれて、次の行動の指示をしてくれました。
職員室が本部だったと思いますが、校長先生と教頭先生が判断して、その都度指示をくれたので、比較的状況は分かりました。
初めは、お迎えに来た保護者の方へ子どもたちを引き渡すことにしていましたが、大津波警報が発令されてからは引き渡さないようにしました。その対応は間違っていなかったと思います。
そうしている間に3階の窓から外を見ると、砂押川から道路に水が入って来るのが見えました。
子どもたちもそれを見ていましたが、不安そうにしていました。恐ろしかったですね。

(聞き手)
 その時点で、周囲の住民の方はどのような状況でしたか。

(澤田様)
 学校にはどんどんと地域住民の方がやって来ました。桜木にある食品工場の方だと思いますが、そこの人たちも白衣のままで避難されて来ました。初めは校庭にいたのですが、雪も降ってきたので校舎内に入りましょうということになりました。そして、教室内は従業員の方や地域住民の避難場所となりました。100人くらいの人たちがいらっしゃったと思います。避難者の方のために教室も体育館も開放していました。

(聞き手)
ここには最終的に何人くらいの人たちがいらっしゃったのでしょうか。

(三崎様)
最高で1,400名ほどです。天真小学校は、市内の学校で、一番多くの避難者が来られました。

(聞き手)
 住民の方たちはパニックになっていませんでしたか。

(澤田様)
 食品工場の方たちは従業員全員で避難されて来たので、集団という事もあり、ある程度落ち着いていました。

(聞き手)
 三崎先生は、発災直後はどちらにいらっしゃいましたか。

(三崎様)
 私は1年生の教室にいました。ちょうど3時頃でしたので、本来なら子どもたちを帰宅させている時間帯です。
ですが、たまたまその日で転校するという子がいまして、その子の保護者も交えてお別れ会をしていました。
隣のクラスは全員下校していて、私のクラスは、地震が起きた時に全員残っていました。
1年生なので、女子児童は怖くてほぼ全員が泣いていました。
机の下に潜らせましたが、なかなか揺れが収まらず、「この教室は絶対壊れないから、みんな大丈夫だから」と慰めるのに大変でした。
その時は津波が来るなど考えてもいませんでした。
それから、今までの経験では必ず避難指示のアナウンスが流れていたのですが、今回は聞こえませんでした。
ですから、その時、初めて放送が使えなくなる場合があるのだとわかりました。
放送が使えない場合は、人が伝えに来るしかありません。
そして、本来なら地震があった時に外に避難すると思いますが、私の学校では外に避難しませんでした。タイミングを逃したというのもありますが、いつまでも揺れが続いていたということも原因です。
普通は、揺れが収まったら外に避難するのですが、収まる気配がありませんでした。その間にも、どんどん住民が避難する為に集まり、人が増えて来ました。
それからは、子どもたちや避難されてきた皆さんも錯乱状態でした。教員まで錯乱すると収拾がつかなくなるので、子どもたちをなだめるのに精一杯でした。
1人が泣き出すと伝染して皆泣き出していましたが、他の先生も来て対応してくださいました。
教室は1階だったので3階とは異なり、津波が見えませんでした。その時、避難して来た人たちが一斉に校庭の端の方に移動していく光景が見えたので、何があったのだろうと思いました。ラジオなどで津波が今どのような状態で来ているのか把握できれば、先生方もその状況がわかったと思います。
しかし、一切わかりませんでしたので、地震が起こっただけで何故こんなにたくさんの人が来たのだろうと思っていました。
それに、地震だと家が崩れるイメージしかなかったので、なおさら不思議でした。
 そして、学校には人が押し寄せて来ました。寒いから入れてほしいと言われて、避難者の方たちを中に入れました。その後、子どもたちの家族が迎えに来てくれたので引き渡しました。大津波警報が発令されてからは、引き渡しを中止しました。その時点で子どもたちは10人ほど残りました。

避難所の運営体制

(聞き手)
 避難所の運営に関して詳しく教えてください。

(澤田様)
 市の職員がなかなか来てくれず、最初に来てくれた方はうまく指示を出せていないようでした。
しかし、その後に来てくれた市の職員の方はしっかり指示を出して、学校側とも連携を取る事が出来ました。
また、色々な物資を体育館で渡していたのですが、それはもう酷い様子でした。若い方や子どもたちはモラルを守り、順番も守っていましたが、順番を守らず、前に無理やり出てきて、毛布を渡すように叫んでいた方もおりました。
うまくいったこととは少しずれるかもしれませんが、天真小学校は市内でも規模が小さい学校で、学年に2クラスしかなく、また長くいる先生方が多かったので、チームワークが非常に良く取られていたと思います。
それでも、市の職員の方が加わり、大きな組織になったので、うまく運営されるまでは数日掛かりました。

(聞き手)
 震災当日は大変寒かったですね。

(澤田様)
 寒いし、食べ物もないので酷い状況でしたが、仕方ない部分もありました。
津波からどうにか逃れて、濡れた体のままの方は、ストーブの前に寄っていただきました。
残念だったことは、土足で廊下が泥だらけになっていて、施錠していた教室も強引に中に入られた跡があったことです。何をしようとしたのかはわかりませんが、とても残念でした。
それから少し落ち着きましたが、次にトイレの問題が起こりました。結局プールからバケツリレーで水を持って来て流しました。それが大変でしたね。

(聞き手)
それは先生方が対応したのでしょうか。

(澤田様)
 避難されてきた方や教職員で行いました。

子供たちの不安へのサポート

(聞き手)
 印象に残っている点はございますか。

(三崎様)
 大半の子どもたちは家族に引き渡しましたが、まだ迎えがない子については、1カ所に集めました。そうすれば何人かの先生でそこにいて、その他の先生は別なことが出来ます。
それから、名簿を作り、確実に引き渡すようにしました。
一晩泊まった子もいれば、夜中に迎えが来た子もいました。子どもたちだけでなく、先生方も学校に泊まりました。そして、寒さと暗さの中で、火災が起きていることがわかり、あの火が引火してこちらまで来るのではないかと恐ろしい思いでおりました。
それから、津波がどれだけの規模で、どのようなことになっているのか、一切わかりませんでした。ラジオからは、名取周辺にたくさんの遺体があるという情報が流れていて、今回の津波の恐ろしさがわかりました。
子どもたちを優先に考えて学校に泊まりました。着られる衣服を全て持ってきて、せめて子どもたちだけでも寒い思いをさせないようにしました。暗いだけでも怖いのに、それに加えて、保護者のお迎えが来ない、そんな子どもたちをなだめながら一晩を過ごしました。
あの日の恐怖は今でも忘れられません。
そして、お迎えが来る子はいいのですが、まだお迎えの来ない子どもたちの目から不安な気持ちが読み取れたので、「大丈夫、すぐに迎えに来るよ」と子どもたちに根拠もない言葉をかけていました。
翌日、ずぶ濡れの状態で迎えにいらっしゃったお母さんたちがいました。中には、車の窓を開けていたから助かった人や、誰かに引き上げられて助かった人がいらっしゃったことを聞きました。本当に一人ひとりにドラマがあり、人のありがたみや一人では生きていけないのだということを実感しました。
引き渡し後、ある男の子の行方がわからないということで、必死に探しました。
地震後3日目くらいにずぶ濡れの状態で来たので、生きていて良かったと思いっきり抱きしめてあげました。
自宅の2階に上がったことで助かった人もたくさんいます。
その後、自分のクラスの子どもたちがどこにいるかを、一軒一軒、家庭訪問して、確認して回りました。
桜木地区は家庭訪問が出来ない状態でしたが、自衛隊の方たちにも協力して頂き、名簿を見て探しました。

避難者名簿作成が重要

(聞き手)
 発災当時で、うまくいったことや、いかなかったことはありますか。

(三崎様)
学校に避難者が一斉に集まったので、こちらでは一切把握出来ていませんでした。それから日が経ち、今度は誰がどこにいるのか把握出来ていない事が仇となり、市の職員の方が、避難者の所在を聞かれても答えられない場面もありました。
対応の甘さが出てしまいました。避難者にせめて住所を書かせるか、校舎を地区ごとに区切って受け入れていれば、そんなことにはならなかったのだと思います。
教室の入り口に名前を貼り出していましたが、探しに来る方たちはそれを見ながら全教室を回る羽目になっていたので、それでは大変だと思いました。
それから、私たちがどこまで避難所運営に携わるのかも問題でした。土足しないでくださいと言ってもどんどん土足で入りますし、トイレの紙の処理も教えた通りにしてもらえませんでした。
しかしながら、プールから水をバケツリレーで送る時は、皆さんが手伝ってくれて、その時の住民の方の力は凄いと思いました。

避難所生活の規律

(聞き手)
 学校避難所になったことで、場所の振り分け方や、規律に関して、どのような問題がありましたか。

(三崎様)
 担当している教室に、犬を飼っているご家族が避難していました。教室に入ると犬に吠えられました。

(聞き手)
ペットをつれた家族は他にもいましたか。

(澤田様)
いました。いくつかの教室ペットのいるお家の方の部屋になっていました。

(三崎様)
 近くの病院も被災したので、具合が悪い方の部屋などもありました。モラルについては、絨毯の上に陣取る方がいて、酷いことになっていました。

(澤田様)
その都度注意していけば、ある程度は対処することも出来たのでしょうが、その当時はもう混沌としていました。

(聞き手)
その辺りがルール化されてきたのは何日目くらいからなのでしょうか。

(澤田様)
 3日目頃に、指示を出せる市の職員の方たちが来てからです。それまでは何となく、個人個人のモラルや他人への思いやりに任せて、どうにか対処していました。

(三崎様)
 秩序が守られてきたかなと思った頃、電気が復活し、エアコンがある部屋では勝手にスイッチを入れて、その部屋だけ勝手に暖かくしている方がいました。
他の部屋はストーブすら点かないのに、平気でエアコンを使用していたので、びっくりしました。
また、勝手に部屋のカーテンが外されて毛布替わりにされていたり、寒いからといって窓ガラスに段ボールを貼り付けられたりしていたので、教室を元に戻すのが大変でした。

(澤田様)
 学校では子どもたちの面倒を見ることしか頭にありませんでした。
地域の方の受け入れも、お手伝い出来るのであればしたいのですが、まずは児童が優先です。
出来る限り、子どもたちの近くには居てあげたいと思いました。
避難所の運営や地域の受け入れは、学校の校長先生や教頭先生でも上手く出来るとは限りません。
幸い、天真小学校のある鶴ケ谷地区は、市の防災訓練などをしっかりと行っていた人たちが多くいました。
すぐに来てくれるのはやはり地域の人たちなので、そうした人たちの力を借りて動かなければなりません。

震災経験を次に活かす手立て

(聞き手)
多賀城市の今後の復旧・復興に向けての考えがあれば教えてください。

(三崎様)
 いまだに仮設住宅に住んでいる子どもたちがいるのが現状ですが、来年(平成26年)には、最初の復興住宅が出来ると聞いています。
また、被害があった土地にも新築住宅が建ち始めています。
人が変わって、年代が変わって、年月が経てば経つほど体験したことを忘れていきます。
100年に一度、1000年に一度と言っていますが、それはあと1000年来ないという意味ではありません。
そこの考えが甘いと感じます。
事実、1000年前の貞観地震の経験は活かされていません。海がどこにあるのか、それがどのくらいの距離なのか、それがわからないのです。ましてや他の地区から来た人は、どこの道路まで津波が来たのかなどわかりません。
 多賀城市だけでなく、例えば東海道新幹線に乗っている時も「ここは危ないな」と思うことがありますし、海沿いの線路は津波で壊滅してしまうと思います。
どうして東日本大震災の経験を日本全国で活かしてくれないのかという思いはとても強いです。同じような震災が、もし関東で起きたら、被害はさらに酷くなると思います。

(聞き手)
震災経験などを発信する力が弱いということでしょうか。

(三崎様)
 弱いと思います。
多賀城市でも、避難所対策や備蓄などの用意が徐々に整ってきていますが、どこか組織として弱いように思えます。「ここまで津波が来ました」というようなことをもっとアピールしないといけないと思います。
 主に津波が来るのは仙台港からなので、仙台港に防波堤を作るという話が出てきていますが、仙台港は仙台市の土地なので、そこが難しいポイントだと思います。
私は、多賀城市の要所に、津波が来た時に避難出来るような高い建物を建てたり、今ある建物を緊急避難場所に指定したりすれば良いと考えています。学校だけでは対応しきれないので、せめてそういうことだけでも出来ないかと思います。
 また、多賀城市は地形的に津波を完全に防ぐことはできず、自分たちで津波対策まで含めたまちづくりをするのは極めて難しいのです。
せめて、自分たちが被災した時に、どこに避難するのかを各家庭でしっかり決めておくべきです。
 何年後になるかわかりませんが、私たちの子孫が震災に遭った時に「昔はこんな震災があったけど、多賀城市はこういうふうに復興したから大丈夫だ」と、そう言えるような市になって頂きたいです。
大雨の災害の時も多賀城市は乗り越えられたし、宮城県沖地震ではブロック塀が倒れたのに今回は倒れなかったという実例もあります。
こういうことから将来役立つことを学び、日本全国で活かして頂きたいと思います。
 良かったことは、人間は一人では生きていけないということを、物が豊かなこの時代の子どもたちにも実感させられたことですね。
水がない、電気が使えない、ガスも来ない、そうなると大変だということを体験出来た子どもたちは、ずいぶん違うと思います。
その後の授業で子どもたちに話を聞くと、色々な話が出てきましたね。
水をもらう時に列に並びましたとか、不登校の子どもが、学校に行こうという気持ちに変わったなどありました。ですから、震災の体験を通じてプラスになったこともあったと思います。子どもたちにはそれを忘れないでほしいと思います。

伝えることの大切さ

(聞き手)
東日本大震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓などがあれば教えてください。

(澤田様)
 私は塩釜市民だったので、小学生の頃、副読本として「私たちの塩釜」という本を読みました。そこにはチリ地震が起きた時の白黒写真があり、観光桟橋に船が打ち上げられている様子が載っていました。それを見て「あそこの道路に上がっていたのだ」と、子どもながらに驚いた記憶があります。津波は恐ろしいものなのだと思いました。
今の子どもたちは、自分が小学生だった時に経験した震災の事を大人になっても忘れずに伝えてくれるとは思いますが、同時に、その時に感じた気持ちを大事にしていてほしいとも思います。
震災を経験していない子どもには、私たちが「実は、あなたがお腹の中にいた時にこんなことがあったのだよ」と伝えていくことが大切です。
その子どもの次の世代にも伝え続けなければならないと思っています。そうして伝えていくが最も大切なことだと思います。
釜石の奇跡という本も出ていますが、どこにいてもすぐに高台に逃げるのが大切です。そこを教えていくことが私たちの責任です。

校内放送を使わない避難訓練

(聞き手)
 設備や訓練などに関して、今回の経験を活かして、後世や他の方々に伝えたい事はございますか。

(三崎様)
 今回は電気が使えなかったので、全国の学校の避難訓練でも校内放送なしで行って頂きたいと思いますね。
校内放送が使えない状況で避難はどうするのか考えて頂きたいことと、絶対に来ないと思われていた場所まで津波が来たので、常に海の場所と自分の位置との関係を確認してもらいたいです。
私は今、車を走らせる時に必ず海の場所を最初に確認するようにしています。ガソリンに関しても大変な思いをしたので、あまりぎりぎりまでガソリンを使わず、少し余裕がある状態にしています。
また、ラジオをつけて走るようにしています。
津波は情報を聞かないとわかりませんからね。
それから、津波と聞いた時には海との距離を考えた上で、山の方へ逃げるということを教訓として学びました。
あとは、やはり備蓄です。水の大切さがわかりましたので、お風呂からは水を抜かないようにしています。
溜めておくとトイレや洗い物など色々な事に使えます。
飲料水としての水は各家庭で確保しておく事が大事です。
多賀城市だけではなく、日本全国にこの教訓を発信して頂きたいと思っています。