防災・減災への指針 一人一話

2014年01月08日
看護師ボランティアとして被災者を支援して
多賀城市民生児童委員 東部ブロック隅田区
佐藤 玲子さん

看護師のボランティア登録の促進策

(聞き手)
 発災時はどのような状況だったのでしょうか。

(佐藤様)
午前中は多賀城中学校の卒業式に出席し、午後から仙台市の高砂市民センターで、趣味のコーラスの集まりに行き、会が終わって、4名で高砂駅のホームにいた所で震災に遭いました。
地震が来て大きく揺れ、座っていた人は椅子から投げ出されて転んでしまい、ホームの脇にあった電柱も揺れていました。しばらく収まるのを待っていましたが何度も余震が続きました。駅員さんに、仙石線の電車が止まってしまったので外に出るようにと言われ、歩いて多賀城まで戻る事にしました。
中野栄駅を通り過ぎた頃、津波が来ていると言われて、見てみたら、こちらに水が上がってくるような状態でした。
そこで近くの建物に避難させてもらいました。電気も消えていたのでローソクで過ごし、夜9時ごろにやっと家族と連絡がつき、迎えに来てもらいました。

(聞き手)
印象に残っていることはありますか。

(佐藤様)
九死に一生を得たというような方もいて、中野栄で仕事中に津波が来て流されそうになり、ガソリンスタンドの屋根に上がり一晩過ごしたという方や、マンションに逃げ込んで助かったという人、他には七ケ浜から山の方へ逃げて利府の小学校で過ごしたという人がいました。
様々なお話を聞いた事が印象に残っています。

(聞き手)
看護師としてボランティアをしていた時のお話をお聞かせください。

(佐藤様)
震災後、民生委員として社会福祉協議会に集まった時、看護師ボランティアに登録しました。3月18日に社会福祉協議会から看護師として、デイサービス施設に応援に行ってほしいという話を受けました。
そこには、多賀城小学校や多賀城中学校などの体育館に避難していた方々がいらっしゃいました。
私は9時から15時まで毎日出勤していました。
最初は6名の方がいました。病院で治療が必要な方、糖尿病や高血圧の方、床ずれを起こしている方、自宅療養をしながら慢性呼吸器不全症で家族が付き添っている方もいて、酸素ボンベを付けていました。
事情を色々聞いてみると、被災された方が多く、ある方は単身でアパートに住んでいて、津波で流されて、行く所がなくて避難所に行っていたそうです。

(聞き手)
何名で看護に当たっていたのでしょうか。

(佐藤様)
最初は私1人で6名の方を見ていました。私は自前の血圧計と聴診器で血圧測定や体温・脈拍などのバイタルを取り、症状などを毎日記録していました。日中は施設のヘルパースタッフの方が2名いて、物資の調達や食事のお世話をしてもらっていました。
当直も施設のスタッフが交替でやってくれました。新規の人も入って来て、最後のほうは11人になりました。後半から大和町のグループホームで引き受けしてもらう事になり、4名の方は途中で移動しました。40度の熱が出て、肺炎を心配して救急車で病院に送ったり、認知症の方や帰る場所が無い方が残りました。
仕事が大変なので社会福祉協議会に手伝いに来られる方がいないか聞いたのですが、難しいとの事だったので、私の同級生や助産師をしている人に声を掛けて2、3回来て頂きました。
友人が来てくれた日は休ませてもらい、自宅に3家族が同居していましたので、家の仕事をしておりました。
施設の利用者が戻ってきて、4月5日から事業再開するまで、そこでボランティアを続けていました。実質、15日間通ったことになります。

(聞き手)
今後の課題はありますか。

(佐藤様)
いつ震災が起きるかわからないので、看護師ボランティアを日頃から募集しておく事が大切なのではないかと思います。
市に住民検診の際の看護師登録をしている方は結構いますし、家庭に入っている方でも看護師の人がいると思うので、災害の時すぐに動ける体制を整えていただきたいと思います。
医学医療は日進月歩で発展してきているので、新しい技術や知識を持った人の配置が出来ればいいと思います。
また、ボランティアで県外や近くの病院から医師の派遣がありましたが、情報の交換も出来れば良いと感じました。

効果を発揮した地区集会所での備蓄

(聞き手)
 災害に対する備えはどのようにしていましたか。

(佐藤様)
自宅では、リュックサックにローソクや懐中電灯、電池、マッチ、救急セット、乾パンなどの食糧などを入れて備えていました。
隅田区の集会所では、地震や火事に備えて8年くらい前から備蓄をしていました。
水が入った2リットルのペットボトル300本やプロパンガス、ブルーシート、ハンマー、のこぎり、バール、ヘルメットが20個くらいと、バケツが大小合わせて24個などで、結構役に立ちました。
集会所での炊き出しの時にはペットボトルの水が利用出来ましたし、各家庭に2本ずつ配って歩く事も出来ました。
毎年、消防署の防災訓練もあり、日本赤十字で研修なども受けていました。
10年くらい前から町内会の行事があって、毎月生け花教室や芋煮会、焼き物教室、文化祭、クリスマス会などを催していて、高齢者の方を招待していました。雑談しながら交流を深めていたので地域の繋がりはあったと思います。他には、町内会で毎月機関誌を出しているので、行事や地域の情報共有が出来たと思います。

(聞き手)
この辺は高台ですが、津波は来なかったのでしょうか。

(佐藤様)
山を削って地主会で区画整理していたので大丈夫でした。

(聞き手)
多賀城市の住歴はどれくらいでしょうか。

(佐藤様)
42年間住んでいます。この地区では、昔から住んでいるという方は8割くらいで、結構多いと思います。

(聞き手)
今回の震災の他に、チリ津波、宮城県沖地震や水害などの経験はありますか。

(佐藤様)
チリ津波や宮城県沖地震の時は、土地に亀裂が入ったりした程度で倒壊や火事といった被害はあまりありませんでしたし、水害はここまで来ませんでした。
今回の地震では、自宅の本棚が倒れたり、物が散乱して食器も壊れたりしましたので、震災後、今まで以上に家具に転倒防止の対策をしました。

(聞き手)
災害の教訓や伝承というのは何かありますか。

(佐藤様)
震災当時は停電で、なかなか情報が掴めませんでした。
震災後に民生委員で本を出版した人がいて、貞観地震について講演を聞き、震災時のビデオを見たりしました。
海岸沿いの様子は私たちもよくわかりませんでしたが、桜木地区や明月地区は酷い状況で、国道45号は車が重なり合い、多賀城も大変だったのだと思いました。参加した50名の方も、大変勉強になったと話しておりました。

(聞き手)
 発災当時うまくいった事はありますか。

(佐藤様)
 人工透析をしている人が町内に3名おりまして、民生委員として関わっていた奥さんから「夫を助けてください。津波でクリニックの機器が使えなくなり、どうしたら良いでしょうか」と訴えられ、区長と相談しました。
元多賀城市の職員の方が快く運転を申し出てくださり、3家族の患者さんを病院まで乗せて行き、無事、治療を受けることが出来ました。日頃の町内会の行事や近所付き合いなどが功を奏したと思っています。

(聞き手)
隅田区として防災活動をどのように行っていますか。

(佐藤様)
保健推進委員の方が中心になり、健康相談会という形で、医師や保健師の講話を開いたりしています。婦人部が中心になって茶話会や食事会をしていますが、いつも高齢者の方が20人くらい集まっています。そのような場を利用して、防災の話も日頃から行っていたと思います。

(聞き手)
 復旧・復興に関して、何か考えがあればお聞かせください。

(佐藤様)
日頃の声掛けや助け合いの精神が大事だと思いました。

心の備えも大切にしたい

(聞き手)
 今回の震災で、気が付いた事、大切な事はございますか。

(佐藤様)
町内会の行事や会報などで情報を共有して、地域のコミュニティが図られ、助け合いの精神が育成されるのではないかと思います。今回の震災で人工透析者の対応や高齢者で避難された方たちの声掛け、赤ちゃんのミルク配布などがありましたが、そういった面で人間関係の構築が発揮出来たと思っています。物質的な備えも大切ですが、心の面も大事だというふうに感じました。

(聞き手)
 震災に関して、佐藤様の思いやご意見をお聞かせください。

(佐藤様)
民生委員の仕事を優先して動いていかなければならない時もありますが、自分の身を守るという事が一番大事だと思います。宮城県では23名の民生委員の方が亡くなりました。
震災後に支援者の名簿を補充し、余震があった時は声掛けをするようにしています。夜でも具合が悪いという方がいれば、血圧計を持って伺いますし、一緒に話をするだけでも安心すると思います。