(聞き手)
発災時には、どちらにいらっしゃったのでしょうか。
(西村様)
発災直後は、車で利府町青葉台を走っていました。大きな地震だったので車から出る事が出来ず、揺れが収まるのを待っていました。地震が終わってからすぐ、明月1丁目の事務所に車で戻ろうとしたのですが、既にその時には停電していて信号機が消えており、かなり渋滞していました。
(聞き手)
どのくらいかけて、事務所まで戻って来られたのでしょうか。
(西村様)
25分くらいだったと思います。戻る間に、当時の私の部下が高砂埠頭に行っていたので、
安否確認のために連絡を取ったところ、部下は既に埠頭から戻っていて、事務所にいたようです。
それで、残っていた社員たちと一緒に、避難を始めようとしていたところでした。
東北学院大学工学部と災害時の防災
協定を結んでいるので、会社に戻らずに、そちらに来てくれと言われました。
それで進路を変えて、東北学院大学に避難しました。
(聞き手)
その時の大学の様子はいかがでしたか。
(西村様)
防災
協定を結んでいたので、すぐに入場させて頂けました。
一般の避難者の方は礼拝堂に避難していたようでした。グラウンドに社員と集まって話をしたのですが、その時にはまだ、津波が来ている事は全くわかりませんでした。乗ってきた車から流れるラジオで、釜石に7メートルの津波が来たという放送を聞いて、初めてその状況を知りました。
(聞き手)
大学のグラウンドに社員の方たちと集合した時、どのような話し合いをされたのでしょうか。
(西村様)
まずは社員の
安否確認をしました。県外に出張している者も中にはいましたが、その社員とも何とか連絡が取れて、大丈夫だと確認出来ました。
私たちの業務の中には電気の安定供給が含まれています。私自身はその部隊ではありませんが、会社としては配電線の巡視作業などを翌日から出来るように、その日は翌日からの作業
体制作りをしていました。
(聞き手)
西村様は営業職ですが、営業の方たちはどのような動きをされたのでしょうか。
(西村様)
一般のお客様の被害状況確認をしました。また、復旧依頼があれば、作業員を準備して派遣させていました。
補足ですが、うちの会社では配電線部隊と建物の電気
工事部隊は別れています。私は建物の電気
工事部隊の営業をしています。
(聞き手)
お客様の様子はいかがでしたか。
(西村様)
逃げておられる方が多かったので、電話はあまり通じませんでした。現地に行こうにもこの辺りは水浸しになってしまい、3日ほどは動けず、ずっと大学にいました。
(聞き手)
大学を拠点にされていたのは何日ぐらいでしたか。
(西村様)
3月14日の夕方に水が引いたので、一部の社員が事務所に戻りました。それまでは事務所に近づく事も出来ませんでした。構内は泥だらけだったので車両を入れられず、配電線を巡視して復旧するチームは1カ月くらい大学を拠点にしたまま活動していました。
(聞き手)
こちらの事務所に戻った時の様子はいかがでしたか。
(西村様)
私は3月15日の朝に事務所に戻って来ました。敷地周辺に張り巡らせていたフェンスが全て倒れてしまっていて、ケーブルや材料などが散乱していました。何より、泥だらけでした。
(聞き手)
車や材料など、流されてしまった物もかなりあったのでしょうか。
(西村様)
ほとんど全員が自家用車で通勤していて、地震が起こったのが日中だったものですから、私有車と一部の社有車を合わせて50台弱は流されました。
(聞き手)
事務所の片付け作業は、いつ頃から始まったのですか。
(西村様)
15日に戻って来てすぐに始まりました。営業も一緒に、建物電気部隊の全員で行いました。配電線復旧部隊は復旧業務を優先させていました。ここの事務所で片付けをしながら、お客様から建物の電気
工事部隊への復旧依頼が入れば、その都度そちらに派遣していた形になります。
(聞き手)
依頼が入ればとおっしゃいましたが、電話は使えたのですか。
(西村様)
衛星電話を持っていますので、それも連絡手段の一つとなりました。日が経つにつれ、徐々に携帯電話も繋がるようになっていきました。
(聞き手)
そのお客様への対応はどれくらい続いたのでしょうか。やはり、通常業務へ戻ったのは大分、後になってからだったのですか。
(西村様)
どこまでを通常業務と捉えるかにもよりますが、1年以上は震災の復旧対応をしていたことになると思います。
(聞き手)
作業に必要な材料などは確保出来たのでしょうか。
(西村様)
事務所で保管している材料は微々たる量しかありません。
工事が発生するたびに材料を調達する事が建物電気チームでは大半です。
また、倉庫にあった物に関しては、特に問題はありませんでした。配電線復旧チームの方は、被害を受けた資材を洗い、再生して使っていました。
逆に、執務室は2階なのでほとんど津波被害を受けずに済みましたから、自分たちの復旧には、それほど時間が掛かりませんでした。
ただ、1階の書庫に保管していた書類などは水に浸かり、廃棄せざるを得なくなりました。
(聞き手)
印象に残っている当時の様子はございますか。
(西村様)
多賀城の工場地帯の方たちだったのでしょうが、70~80名ほどの作業服を着た方たちが列を作って避難されていた光景を、利府から帰って来る時に目撃しまして、事の重大さが身に染みてきました。
こうして大挙して避難するほどの被害になっているのだという印象がありました。
(聞き手)
震災以前には、どのような対策を取っておられましたか。
(西村様)
会社としての対策は、東北学院大学との防災
協定です。
私が実行したわけではありませんが、この営業所に勤務していた歴代の方たちが危険性を感じ、締結したのだろうと思います。
(聞き手)
会社では、備品を常備していたり、食糧を用意していたりといった取り組みはしておられましたか。
(西村様)
非常食やカセットコンロ、テントなどは常備しています。衛星電話もその一つに含まれます。
(聞き手)
従業員数と、再開時期をお聞かせください。
(西村様)
従業員は40名少々です。再開については、復旧作業から考えれば、発災翌日には再開していたと言えるでしょう。
(聞き手)
休む暇もなく復旧、復興のために動いているような状態だったのでしょうか。
(西村様)
そうですね。特に配電線の復旧部隊は休みなしでした。
(聞き手)
これまでにチリ津波や宮城県沖地震など、他の災害の経験はございますか。
(西村様)
宮城県沖地震と、岩手・宮城内陸地震を経験しています。
(聞き手)
それを経験されて、今回に活かされたと思う事はございますか。
(西村様)
それらとは内容が若干違いますので、うまく活かせたものは何もなかったような気がします。それに、宮城県沖地震の時はまだ子どもでした。
(聞き手)
当時は大船渡にいらしたのですか。
(西村様)
そうです。津波警報が出たのですが、なかなか解除されなかった事を覚えています。岩手の人間なので、地震の後には津波が来るという事は、祖父や祖母から教わってきています。
(聞き手)
他には、どのようなことを教わったのでしょうか。
(西村様)
高い場所に逃げる事と、海には近づかないようにする事です。