(聞き手)
食糧の整理も今野さんがされていたのですか。
(今野様)
私と市の職員でしていました。届いた
食糧は奪い合いになってしまうので、1カ所にまとめておきました。それによって不満が出た時もありましたが、そうでもしないと奪い合いになってしまうのです。パンを配った時には、1人1個で配ったのですが、やはり中には何個も取って行かれる方がいて、その方に注意するとパンを投げつけられたこともありました。とても悲しい事でした。また、市の職員はほとんど食べなかったので、倒れられたら誰が面倒を見るのかと説得し、体育館の裏手で無理やり食べてもらった事もありました。ですがその後、私も市の職員から同じ事を言われてしまいました。
また、4日目頃に、農家の方がお米を持ってきてくださいました。そこで、おにぎりを作ろうと考えました。発電機から、それなりの電力が確保でき、地域の方が貸してくださった電気釜と家庭科室の電気釜が使えそうでした。ところが
水が足りませんでした。そこでハンドマイクを使って、給
水してきた方たちに少しずつ
水をわけてくださるよう呼び掛けました。それで人数を数えて、その場にいた200人分のおにぎり作りに、やっと取り掛かりました。女性の先生方が総出で米を炊いて、具は給食の残りの福神漬けを使いました。それを1人1個以上、ある程度余裕を持たせて250個作ろうと言ったのですが、後から後から人が増えるので、終わりが見えませんでした。車の中にいた方、小
学校でおにぎりを作っていると噂を聞いた方などが増えて、最終的には800個ほどを作りました。5日目にはおにぎりやパンも届くようになりました。
それから、山王小
学校は初日の夜から火だけは絶やさないようにしていました。遊具が木製だったので、それを切って、薪として使わせて頂きました。
(聞き手)
十分に
食糧が届くようになったのは5日目ぐらいからですか。
(今野様)
その頃には、1人1個はだいたい渡せるくらい届きました。そうすると、今度はアルファ米が大量に余りました。せっかく頂いたのにどうしようかと思っていたところに、ベビースターラーメンが届きました。配るにもお年寄りの方には固いだろうと躊躇していたのですが、考えて、アルファ米と一緒に煮込んでおじやにしました。笹かま屋さんに勤めている方から笹かまの差し入れもあったので、それを刻んで入れ、農家の方が持ってきてくださったネギも入れました。コンソメ味のポテトチップもあったのでそれを砕いて入れて、おじやとして夜に振る舞いました。皆さん、初めて満足した食事が出来たようでした。同じものを今食べたら美味しくないのでしょうが、当時は、温かい食事はありませんでしたから、私なんて空腹もあって、3杯も食べてしまいました。あれは忘れられません。翌日に来た市長さんにその事をお話したら、目を丸くしておられました。
大変だったのはミルクでした。アレルギーのお子さんがいて、特定のミルクが必要だと言われたのですが、粉ミルク自体が無いのでどうしようかと悩みました。
また、赤ちゃん向けのジュースが30本ほど届いたので、お母さん向けのスポーツドリンクと一緒に、それを陰でこっそり渡したこともありました。「いえ、いいです」と言われる事もありましたが「お母さんが倒れたらこの子はどうするのですか」と説得して、渡しました。
(聞き手)
そうした非常事態になって、その場で何が出来るかを考えるリーダー的存在になったという事でしょうか。
(今野様)
必然的にそうなってしまったので、なった以上はこの人たちをどうやって食べさせようかと、ひたすら考えていました。
(聞き手)
先ほども少しお話がありましたが、残念なことを言われて、気落ちしながら行動していたというような事はございましたか。
(今野様)
パンを投げられたような悪い面もありましたが、それ以上に皆さんに良くしてもらっていました。家からありったけの毛布を持ってきてくださった方、
水を調達してきてくださった方などがいました。それから、3日目の夜に市役所の職員から「あなたが帰らないと、立場上、私たちも家に帰れません」と言われたので、一度だけ家に戻りました。その時に、4リットルのペットボトル4本を届けてもらった事もあります。様々な方から
食糧の差し入れも頂きましたし、とても親切にしてもらいました。