防災・減災への指針 一人一話

2014年01月20日
子どもたちに防災意識を持たせて継承する手立て
多賀城市立多賀城東小学校 教務主任
阿部 光伸さん
多賀城市立多賀城東小学校 教諭
宇佐見 由美さん

避難訓練や引き渡し訓練の経験と実際

(聞き手)
宮城県沖地震が近々来ると言われていましたが、学校ではそれに対して、備蓄や防災対策など、具体的に何かされていましたか。

(阿部様)
 避難訓練の時期によく確認される内容ですが、実際に備蓄品を見に行くような事はあまりありませんでした。
ですので、何がどれだけ用意されているかはほとんどわからなかったのです。
99%来るだろう宮城県沖地震を想定して、避難訓練自体は行われていましたから、津波よりも地震による被害を考えていました。
そのため、津波に対する備えは、あまり想定できていませんでした。

(宇佐見様)
 避難訓練は年に2回、地震や火災を想定して行っていました。
私がここに来てからは、震災時の引き渡し訓練も行っています。
引き渡しカードを作ってあったので、震災後、児童の所在を確認する時には役立ちました。

(阿部様)
 引き渡し訓練は十分活かされたと思います。

(聞き手)
 災害を通じた昔からの言い伝えや、伝承されてきた教訓などを聞いた事はございますか。

(阿部様)
 言い伝えではありませんが、沿岸部の方たちは、津波が来るかもしれないと想定して生活しているのだろうと思っておりました。
私自身は沿岸部に住んだ事はありませんが、津波の襲来を無意識に近い状態で意識していたのではないかと思います。
なお、宮城県沖地震の教訓として、揺れが大きかったら机の下などに潜るという意識は持っていました。

(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所はどちらでしたか。

(阿部様)
校舎4階の6年生の教室にいました。職員会議があった日なので、5時間授業に短縮して全学年を帰らせる事になっていたのです。
ただ、卒業生である6年生と、卒業式関係の仕事がある子たちは残していました。最終的に残ったのは7、8名だったのですが、その全員が泣きわめいてしまいました。
私も四つん這いになりながら、外には出るなと言っていたのですが、揺れが収まる気配がありませんでした。
教卓が振動に合わせて動いてくるので、それが恐ろしかったです。

(宇佐見様)
 私は校舎1階の東昇降口脇にある教室にいました。
私のクラスはちょうど下校直後だったので、残っていた子は5、6名ほどでした。昇降口はガラス張りで、背の高い下駄箱もあったので、揺れでガラスが割れないか、下駄箱が倒れないかと心配していました。

(聞き手)
揺れがある程度収まった段階で、津波が来るという予感はありましたか。

(阿部様)
 本来は揺れがあったら津波を警戒しなくてはいけないのですが、その時に頭にあったのが、揺れが収まったら子どもたちを避難させる事でした。
壁も落ちていましたし、防火シャッターも閉じて、周囲は砂埃で真っ白になっていました。
何も見えなかったので、一瞬、火災なのではないかと思いました。
ですが、隣にいた先生が砂埃だと教えてくれたので、とにかく子どもたちの避難を最優先に、次に自分の身を守るようにと動いていました。

(宇佐見様)
 私は津波の予感はありませんでした。宮城県沖地震も経験していますが、その時も津波を意識した事はありませんでした。

(聞き手)
その後は、皆さんで校庭に移動されたのですか。

(阿部様)
 はい、移動しました。いつもの避難訓練では役割が決められているのですが、決められていなくても、こういう時には教員は臨機応変に対応するのだと思っていました。
女性の教員は子どもたちを整列させてから腰を下ろさせ、男性教員は教室をくまなく回って残った子がいないかを全て探すというふうに、自然と役割分担したのです。
私は余震が何度か襲ってくる中、壁を伝いながら下の階に下りて行っきました。
児童は、総勢300人以上は残っていたのではないでしょうか。
そして、校庭で整列させている所に向かいました。

(宇佐見様)
 クラス担任はクラスの児童を避難させることになっていて、揺れが収まるまでは机の下に入らせて子どもたちの安全を確保していました。
揺れが収まるまでの間は、一刻も早く子どもたちを外に出してあげたいと思っていました。
というのも、その1、2カ月前に、ニュージーランドで起きた地震で建物が崩壊したというニュースがあったので、建物が倒れないか心配だったからです。

(聞き手)
 情報がなかなか入りにくい時だったと思いますが、宮城県が大変なことになっているという情報が入ってきたのは、どれくらい経ってからなのでしょうか。

(宇佐見様)
 夕方になって、ワンセグ放送を見たり、ラジオを聞いた時です。
ですが、その前に校庭へ第一次避難していた際、雪が降ってきたので、建物の安全が確認出来ていたすぐ隣にある東豊中学校へ、残った子どもたちと移動しました。
その時に避難されていた地域の方が、貞山運河の水が引いているので津波が来るという声を上げたのです。
東豊中学校も高台にあるのですが、それでももっと高い場所にいた方が良いだろうと判断し、子どもたちを連れて多賀城東小学校にとんぼ返りしました。ですから実際に津波を見たわけではありません。
 その後、夕方5時頃だったと思うのですが、携帯電話だけでも取って来られないかと、一度校舎に入りました。
その時には、既に貞山運河の周りに船が上がっていて、もう水が引いていたと思います。

(阿部様)
 校庭に整列させた時点で、保護者への引き渡しが始まりました。
最初はどういう状況なのかわからないまま校庭にいましたが、当時の教頭先生が陣頭指揮を取られて、全員を座らせるようにという指示と、怪我人がいないか確認してくださいという指示が出ました。
また、市の教育委員会と必死に連絡を取ろうとしていたようです。
私は携帯電話で情報を見ていましたが、マグニチュード8.2という発表が出ていた上、津波警報では6メートルの津波が来ると報道されていました。
 そのうちに、ちょうど、多賀城東小学校の裏手にあたる東豊中学校の校庭に避難させるよう指示が出たので、1年生の子どもたちを先頭に、各クラスの担任が引き連れて避難しました。
私は6年生の学年主任をしていたので、最後に連れて行きました。
そこにしばらくいたのですが、津波警報が変わって10メートルの波が来ると言われ始めたのです。
ですが、そこで私たちと東豊中学校とで情報が錯綜してしまい、混乱が起こってしまいました。
最終的には連絡ミスだったと判明したのですが、東豊中学校の体育館に移る時に後ろを見たら、船を巻き込みながら塩釜港から大代地区に向かって津波が来ていました。

(聞き手)
 阿部様は津波を見られたのですか。

(阿部様)
 見ました。残った職員はずっとそれを見ていたそうです。私も水が渦を巻きながら流れていたのを見ています。
東豊中学校の体育館には40分ほどいましたが、何度か余震が襲って来たので、その都度指示が変化しました。
最終的に、多賀城東小学校の1階にある図工室に逃げ込みまして、そこで引き渡しをスタートさせました。
 引き渡しは訓練以上に、スムーズに行えました。親御さんも私たちも緊張感を持ちながら、きびきびと行うことができたということもありますが、もう一つ理由があります。
本来なら決められた引き取り方以外には引き渡せない事になっているのですが、その時は身元を証明出来た方たちに、子どもたちをどんどん引き渡すようにしていました。
とにかく親御さんや知り合いの方に引き渡そうと、無我夢中で対応していました。翌日の朝8時頃には、どうにか子どもたちを全員引き渡すことが出来ました。

避難者による自治の意識づけ

(聞き手)
 子どもたちや、多賀城東小学校を避難場所にしていた大代地区から避難された方の様子はどのようなものだったのでしょうか。

(阿部様)
 まず、引き渡し出来なかった子は、担任が付き添って一晩過ごす事になりました。はじめは70名ほどが残っていたのですが、その後、お迎えに来ていただいた保護者の方々と一緒に帰ることができた子どもたちもいたので、結局は10名ほどまでに減りました。
 図工室から避難所となった体育館の様子を見ていましたが、避難されて来た方たちは落ち着いているように見えました。
子どもたちの防寒のために、体育館にマットを取りに行ったのですが、避難所でもマットを使うので持ち出せず、代わりに教室中のカーテンをはぎ取って子どもたちに羽織らせました。
私が持っていた体操着もすべて使い、寒さをしのぎました。
誤報の緊急地震速報が鳴る事もあり、子どもたちはそのたびに起きたのですが冷静でした。
眠くなった子は畳の部屋に移動させ、女性教員が中心になって寝かしつけていました。
トイレは余震が来ると危険だったので、男性教員が分担して、懐中電灯や理科室から持って来たろうそくなどを持って、トイレ脇に立って見守りました。

(宇佐見様)
 大変だったのは、大代地区の方たちがたくさん避難して来たので、何をしたら良いか分からなかった事です。
特に大きな混乱はありませんでしたが、暗い上に、電気も灯りも使えず、私たちはろうそくでしのいでいました。

(聞き手)
 食べ物もなかったのですか。

(宇佐見様)
 震災当日に学校に泊まった児童には、学童保育から差し入れがあったので助かりました。

(阿部様)
 学校に、優先的に、学童保育用のおやつが回されたのです。ですが、水はありませんでした。

(宇佐見様)
避難所である体育館では食べ物に困りましたが、比較的早期に毛布などの物資が来ました。
しかし、隙間風が入る場所があったので、毛布だけでは寒さをしのぐのは大変でした。着の身着のままでいらっしゃった地域の方々のお世話をするのに、寒さ対策をきちんとしなければと思いました。
子どもたちに声を掛けるのと同じように、地域の方に声を掛ける事は最初はなかなかうまく出来ませんでしたが、途中から、掃除や食事などの担当が決まっていくにつれ、やりやすくなりました。
最初は、避難されてきた地域の方々に対して、何をするにしても申し訳なくて、何から始めるべきかわかりませんでした。

(聞き手)
住民の方は多い時でだいたい何人くらい避難されていましたか。

(阿部様)
800名を越えていたと思います。

(聞き手)
 避難所になった他の学校では、トイレの問題が特に大変だったと聞いています。こちらではいかがでしたか。

(阿部様)
 大変でした。
視聴覚室に高齢の方を避難させることになり、トイレも使う事になりました。
私たち教員でプールの鍵の開け閉めをして、水の運搬を行いましたが、その後、自然に、避難者の方の中で、水を運搬する係が出来ました。
避難者の方たちも、3月下旬までは放心状態の方もおられたのでしょうが、それ以降は他人任せでなく、自分たちで動いてくださったのです。

(聞き手)
避難所自体は比較的、落ち着いた感じだったという事ですか。

(阿部様)
 市の職員の方や私たちが指示伝達を始めていたので、落ち着いていた方だったと思います。
ですが、このままでは自主的な行動に結びつかないので、市の職員の方が避難者自身で行うべきは行うようにと、避難者の方たちに自治を働きかけてくださいました。
そんなことがあり、徐々にそういった動きが高まっていくのを感じていました。

(聞き手)
多賀城東小学校の避難所は、いつ閉鎖されましたか。

(阿部様)
 学校を再開させなくてはならなくなり、うちと東豊中学校は4月10日を以て避難所を閉めたと記憶しています。
4月7日に大きな余震があり、避難所である体育館も壁が崩落してしまい、いつ他の部分も崩れるかがわからない状態だったのです。
その余震の3日後に、学校が避難所となっていたところは閉鎖され、多賀城市総合体育館に避難所が統合されました。

子どもたちの防災意識を継承する手立て

(聞き手)
 これからの多賀城のまちづくりには、何が重要だとお考えですか。

(阿部様)
 まちづくりは人づくりですから、子どもたちが防災意識をきちんと持っていくことが重要でしょう。
既に色々な所で風化が始まっています。
当然ながら忘れようとする思いも働いてしまうので、震災に遭った事の恐怖を忘れざるを得ない部分もあるのでしょう。
しかし、防災意識に関しては、同じ温度、同じレベルで継承していかなくてはならないと思っています。
教師ならではの考えかもしれませんが、そのためには、復興の前に、これから多賀城市を担う子どもたちに、きちんとした防災意識を持たせる事が必要だと思います。
それが、ひいては地域や市全体に広がっていく事になるでしょうから、それを意識した復興を考えて頂きたいです。
施設を作ったり、防潮堤を作ったりも重要ですが、その前に子どもたちの事が優先です。
インフラ対策は数多くあり、それはそれで重要だと思っていますが、精神的な備えも重要です。
また、インフラ対策でも想定外を意識する必要があるでしょう。

(宇佐見様)
 再び、ここに住みたいと思ってご自宅を直しておられる方もいるので、それを見ると、地元に安心して住める環境を作って頂きたいと思います。

(聞き手)
 震災から3年が経とうとしていますが、宇佐見様も、震災の経験や記憶の風化が始まっていると感じていますか。

(宇佐見様)
 確かにそう感じられます。
ここの地域自体、被災した子と、そうでない子とで大きな差がありました。
今では、被害の酷かった子も随分元気になったと思います。
授業は出来るだけ普段に近づけていこうとしましたが、復興支援などの話に触れる時は、被災した子どもとそうでない子どもとの違いに配慮し、細かい言葉にも気を配りました。

(聞き手)
 子どもたちの様子を見ていて、良い意味で落ち着いてきたと感じられますか。

(宇佐見様)
 震災があった年には頑張ろうと張りつめていた部分もあったのでしょうが、近頃、やっと、気持ちの面も含めて、普通の生活に戻りつつあると思っています。

(聞き手)
 多賀城市では防災教育をかなり重視していますが、震災に関しての題材を授業で取り上げられる段階には、まだ至っていませんか。

(宇佐見様)
 避難訓練の時や長期休暇の前には、子どもたちしかいない時に震災にあったらどうすれば良いか話すようにしています。
震災を実体験している子どもたちなので、避難訓練などにはとても真剣に取り組んでいます。

(阿部様)
 少し話が戻りますが、やはり風化には歯止めをかけないといけないでしょう。
もう少し経ってからでも当時の映像を見るなどして、こんな事があったのだと再認識しなくてはいけません。
心が痛む事は分かりますし、まだ早いのかもしれませんが、後々必要なことではないかと感じます。

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓などがあれば教えてください。

(阿部様)
 助け合いは、こういった時には自然に出るという事を今回の震災で知りました。
東京でも帰宅困難者の方たちが列を保っている様子を見て、ALTの先生も「日本人はやはりルールを守る、凄い」とおっしゃいます。
何故かと言ったら、自分の国では、東日本大震災のような災害時だけではなく、普段からバスなどに並んでいる光景を見る事はないと、そうおっしゃるのです。
その方はジャマイカの方で、ニューヨークで英語を勉強されたそうなのですが、アメリカでもそのような光景は見ないそうなので、日本は所作が綺麗だとおっしゃいます。
やはり日本人の奥底には、そうしたものがあるのでしょう。
秩序や助け合いなど、普段は「そうしないといけません」などと言われて慣れてしまっている部分もありますが、いざとなると発揮出来るところもあるという、新しい発見がありました。
 ですが、それは全てではありません。
避難所の中でのちょっとしたトラブルが、互いの嫌な思いに発展してしまった事もあったようです。
それは人間同士ですから当然かもしれませんし、気持ちを思いやらなければわからない部分もあったのでしょう。
しかし、私はむしろ、日本人には助け合いや思いやり、秩序があるのだという事を再発見しました。

(聞き手)
 その他、話しておきたい事がございましたらお願いいたします。

(宇佐見様)
 幸いにも、多賀城市では小中学校で亡くなられた児童・生徒がいなかった事が、本当に何より良かったことだと思います。今回の経験を踏まえ、なお一層、命を守る取り組みを強化すべきではないでしょうか。
常日頃から防災に対して神経質になるのも良くありませんが、全員で意識して助け合う事が出来れば良いでしょう。
 また、ここには防災倉庫なども建ちましたし、比較的安全だという事が実証されているので、そういった情報を共有していければ、また何かあった時に子どもたちが犠牲にならなくて済む事でしょう。
国道45号を通ってみても海が近いとはわかりませんので、なおさら逃げ遅れる可能性があったと思うのですが、幸いな事に、多賀城東小学校は高い場所にありました。
学校を、避難場所という意味を含めて、高い場所に作っているのかもしれませんが、過去の経験を元にしている部分もあると思いますので、昔の事を伝えていく事が大事です。
事実、末の松山の言い伝えもありますし、多賀城は歴史のある都市なので、伝えていく方法はいくらでもあると思います。