(聞き手)
宮城県沖地震が近々来ると言われていましたが、
学校ではそれに対して、
備蓄や防災対策など、具体的に何かされていましたか。
(阿部様)
避難訓練の時期によく確認される内容ですが、実際に
備蓄品を見に行くような事はあまりありませんでした。
ですので、何がどれだけ用意されているかはほとんどわからなかったのです。
99%来るだろう宮城県沖地震を想定して、
避難訓練自体は行われていましたから、津波よりも地震による被害を考えていました。
そのため、津波に対する備えは、あまり想定できていませんでした。
(宇佐見様)
避難訓練は年に2回、地震や火災を想定して行っていました。
私がここに来てからは、震災時の
引き渡し訓練も行っています。
引き渡しカードを作ってあったので、震災後、児童の所在を確認する時には役立ちました。
(阿部様)
引き渡し訓練は十分活かされたと思います。
(聞き手)
災害を通じた昔からの言い伝えや、伝承されてきた教訓などを聞いた事はございますか。
(阿部様)
言い伝えではありませんが、沿岸部の方たちは、津波が来るかもしれないと想定して生活しているのだろうと思っておりました。
私自身は沿岸部に住んだ事はありませんが、津波の襲来を無
意識に近い状態で
意識していたのではないかと思います。
なお、宮城県沖地震の教訓として、揺れが大きかったら机の下などに潜るという
意識は持っていました。
(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所はどちらでしたか。
(阿部様)
校舎4階の6年生の教室にいました。職員会議があった日なので、5時間授業に短縮して全学年を帰らせる事になっていたのです。
ただ、卒業生である6年生と、卒業式関係の仕事がある子たちは残していました。最終的に残ったのは7、8名だったのですが、その全員が泣きわめいてしまいました。
私も四つん這いになりながら、外には出るなと言っていたのですが、揺れが収まる気配がありませんでした。
教卓が振動に合わせて動いてくるので、それが恐ろしかったです。
(宇佐見様)
私は校舎1階の東昇降口脇にある教室にいました。
私のクラスはちょうど下校直後だったので、残っていた子は5、6名ほどでした。昇降口はガラス張りで、背の高い下駄箱もあったので、揺れでガラスが割れないか、下駄箱が倒れないかと心配していました。
(聞き手)
揺れがある程度収まった段階で、津波が来るという予感はありましたか。
(阿部様)
本来は揺れがあったら津波を警戒しなくてはいけないのですが、その時に頭にあったのが、揺れが収まったら
子どもたちを避難させる事でした。
壁も落ちていましたし、防火シャッターも閉じて、周囲は砂埃で真っ白になっていました。
何も見えなかったので、一瞬、火災なのではないかと思いました。
ですが、隣にいた先生が砂埃だと教えてくれたので、とにかく
子どもたちの避難を最優先に、次に自分の身を守るようにと動いていました。
(宇佐見様)
私は津波の予感はありませんでした。宮城県沖地震も経験していますが、その時も津波を
意識した事はありませんでした。
(聞き手)
その後は、皆さんで校庭に移動されたのですか。
(阿部様)
はい、移動しました。いつもの
避難訓練では役割が決められているのですが、決められていなくても、こういう時には教員は臨機応変に対応するのだと思っていました。
女性の教員は
子どもたちを整列させてから腰を下ろさせ、男性教員は教室をくまなく回って残った子がいないかを全て探すというふうに、自然と役割分担したのです。
私は余震が何度か襲ってくる中、壁を伝いながら下の階に下りて行っきました。
児童は、総勢300人以上は残っていたのではないでしょうか。
そして、校庭で整列させている所に向かいました。
(宇佐見様)
クラス担任はクラスの児童を避難させることになっていて、揺れが収まるまでは机の下に入らせて
子どもたちの安全を確保していました。
揺れが収まるまでの間は、一刻も早く
子どもたちを外に出してあげたいと思っていました。
というのも、その1、2カ月前に、ニュージーランドで起きた地震で建物が崩壊したというニュースがあったので、建物が倒れないか心配だったからです。
(聞き手)
情報がなかなか入りにくい時だったと思いますが、宮城県が大変なことになっているという
情報が入ってきたのは、どれくらい経ってからなのでしょうか。
(宇佐見様)
夕方になって、ワンセグ放送を見たり、ラジオを聞いた時です。
ですが、その前に校庭へ第一次避難していた際、雪が降ってきたので、建物の安全が確認出来ていたすぐ隣にある東豊中
学校へ、残った
子どもたちと移動しました。
その時に避難されていた地域の方が、貞山運河の水が引いているので津波が来るという声を上げたのです。
東豊中
学校も高台にあるのですが、それでももっと高い場所にいた方が良いだろうと判断し、
子どもたちを連れて多賀城東
小学校にとんぼ返りしました。ですから実際に津波を見たわけではありません。
その後、夕方5時頃だったと思うのですが、携帯電話だけでも取って来られないかと、一度校舎に入りました。
その時には、既に貞山運河の周りに船が上がっていて、もう水が引いていたと思います。
(阿部様)
校庭に整列させた時点で、保護者への
引き渡しが始まりました。
最初はどういう状況なのかわからないまま校庭にいましたが、当時の教頭先生が陣頭指揮を取られて、全員を座らせるようにという指示と、怪我人がいないか確認してくださいという指示が出ました。
また、市の教育委員会と必死に連絡を取ろうとしていたようです。
私は携帯電話で
情報を見ていましたが、マグニチュード8.2という発表が出ていた上、津波警報では6メートルの津波が来ると報道されていました。
そのうちに、ちょうど、多賀城東
小学校の裏手にあたる東豊中
学校の校庭に避難させるよう指示が出たので、1年生の
子どもたちを先頭に、各クラスの担任が引き連れて避難しました。
私は6年生の学年主任をしていたので、最後に連れて行きました。
そこにしばらくいたのですが、津波警報が変わって10メートルの波が来ると言われ始めたのです。
ですが、そこで私たちと東豊中
学校とで
情報が錯綜してしまい、混乱が起こってしまいました。
最終的には連絡ミスだったと判明したのですが、東豊中
学校の体育館に移る時に後ろを見たら、船を巻き込みながら塩釜港から大代地区に向かって津波が来ていました。
(聞き手)
阿部様は津波を見られたのですか。
(阿部様)
見ました。残った職員はずっとそれを見ていたそうです。私も水が渦を巻きながら流れていたのを見ています。
東豊中
学校の体育館には40分ほどいましたが、何度か余震が襲って来たので、その都度指示が変化しました。
最終的に、多賀城東
小学校の1階にある図工室に逃げ込みまして、そこで
引き渡しをスタートさせました。
引き渡しは訓練以上に、スムーズに行えました。親御さんも私たちも緊張感を持ちながら、きびきびと行うことができたということもありますが、もう一つ理由があります。
本来なら決められた引き取り方以外には引き渡せない事になっているのですが、その時は身元を証明出来た方たちに、
子どもたちをどんどん引き渡すようにしていました。
とにかく親御さんや知り合いの方に引き渡そうと、無我夢中で対応していました。翌日の朝8時頃には、どうにか
子どもたちを全員引き渡すことが出来ました。