防災・減災への指針 一人一話

2013年11月22日
応援自治体職員の声 ――岐阜県―― (前編)
岐阜県職員 総務部人事課 課長補佐兼服務係長
松本 順志さん
岐阜県職員 商工労働部 観光交流推進局 観光課 課長補佐兼観光企画係長
板津 浩司さん
岐阜県職員 商工労働部 商工政策課 団体支援係主査
駒月 良美さん
岐阜県職員 総合企画部 市町村課 財政係主査
佐々木 寿志さん
岐阜県職員 環境生活部 少子化対策課 課長
新谷 哲也さん

情報源はテレビニュース

(聞き手)
 東日本大震災の発生当時の状況を教えてください.

(松本様)
 発災当日は、県議会が一般質問で、その議会質問が続いている映像を見ていました。その議会後に退任される方もおられたので、最後の議会質問だなと感慨深く見ていたら、庁舎が揺れ、「これはでかいぞ」と感じました。
当日は、その後の事をあまり覚えていなく、家に帰って、すべてのニュースが地震関係で、これは大変な事になったと思いました。
そして、一晩中うつらうつら寝たり起きたりしながらテレビを見ていた記憶があります。
途中、福島原発ニュースがあり、これはさらに大変な事になっていると思いながら、テレビで緊急地震速報が幾度も鳴っていたのを記憶しています。
 その後は、県として応援派遣の予兆はありましたが、最初は、いつどこへどういう人間を派遣したらお役に立てるかといった考えが全くつきませんでした。
阪神淡路大震災の時もそうでしたが、発災直後は医療関係者などの人命救助が優先で、その他のマンパワーについてはあまり役に立ちません。しばらくは動けないだろうなと思い、次の段階で行政支援になるのかと思いました。
私は、阪神淡路大震災で罹災証明書関係の業務を行った経験がありますので、今回も同じようなことが発生するだろうなと思いながら震災の情報を集めていました。

(板津様)
 地震発生時は,松本補佐と同じく議会映像を見ておりました。長い揺れなので「これはちょっとまずいのでは」と思い、直ぐにテレビを切り替えて、同僚と職場でニュースを見ました。原発の緊急停止との報道があったので安心していたら、翌日くらいから大変な事になり始めたので、原発関係のニュースについては、注視していたというのは今でもよく覚えています。
当時は財政課所属で、直ぐに被災地支援の話があり、その補正予算を専決処分するということで、その取りまとめを行っていました。

(駒月様)
 私は、地震発生時は出先機関におりました。窓口で接客していたのですが、自分が貧血なのかなという感じのゆるい揺れがずっと続いた印象を持っています。庁舎は、その当時はまだ、耐震補強をしておりませんでしたので、来庁者を外へ避難誘導しました。
揺れが長く続いたので大変な事が起きたのではと思いテレビを見たら、映画なのかと錯覚するぐらい非現実的な映像が映し出されていました。波が迫ってきて、人や車を飲み込む映像に大きな衝撃を受けました。
当時は出先機関での勤務ということもあって、地震に関連してすぐに動かなければならないというような仕事はありませんでした。

優秀な職員を出すとの考えで人選

(聞き手)
 岐阜県からの応援派遣の全体概要についてお聞かせください。

(松本様)
 まず,警察は,警察のルートで即座に派遣隊が動いていました。医療関係についても、先行して動かれたと思います。そして,保健師が不足するということが想定できましたので、人事課では無く,健康福祉の部門で一定の期間、保健師を交代で派遣をし、現場の衛生管理に当たるという作業が動き始めました.
 私どもの方では、当初,阪神淡路大震災の際の応援派遣の状況を確認していました。その後、全国知事会からこのくらいの避難所の支援要員が必要だと言ったような情報が徐々に届き始めました。
その情報を基に、派遣するとすればどういうかたちで派遣するのか、人員数や装備品数の検討をしていく事になりました。
その後、1週間くらいで大体の目途は立ちましたが、今度は、何処へ出せばいいのかという受け入れ側の情報が、なかなか届きませんでした。
全国知事会では、事細かく情報を持ち合わせていなかったので、最後は結局宮城県庁と直接打ち合わせを行い、多賀城市の避難所の人員が不足しているとの情報をいただき、岐阜県から3月31日に派遣に至りました。
 多賀城市の応援派遣については、3月29日くらいに決まり、その日に庁内で人選をかけ、30日に第1班の派遣職員の説明会を行い、31日にバスで送り出すという作業を行いました。
現地の状況がわかりませんでしたので、装備品として水や食糧、シュラフなど自立して行動するために必要なものは持たせました。装備品の準備に際しては、庁内で水は何処にあるとか、シュラフは何処にあるとか、そういう物を県庁の備蓄庫であったり、無い物は購入したりして、慌てて装備品を揃えました。
 第一陣の派遣は10人です。最初に、宮城県と連絡が取れて、そのあとに多賀城市とも連絡が取れて、行って欲しい避難所のご指定をいただきました。
派遣先までバスで行かせましたが、道路の問題と燃料の給油の問題が心配で、小まめに燃料をできるだけ入れるように指示しました。
また、満タンである程度の距離が走れるバスで行かせました。

(聞き手)
 派遣した10名の人選はどのように行いましたか。

(松本様)
 発災直後の派遣とは異なると考えておりましたので、いわゆるメディカルや行政スタッフというよりは、避難所の避難者をお世話するというミッションに適した人選を人事課で行いました。
初めての地で初めての方々にお会いして接するのに、一定の品位と日本語の丁寧さ、そしてタフさを持ち合わせている人を選びました。当然被災されて苦しんでいる方々なので、軽々な言動はできませんし、最低限でも被災地だという事をきちんとわきまえて行動できる人と考えておりました。避難所の支援ですから、決して専門性が必要な世界ではないと考えました。
 人選方法に手挙げ方式を取らなかったのは、第1班の派遣までに時間が無かったからです。時間がほとんどありませんでしたので、県庁の中でも優秀な職員を出すという考えで人選しました。

派遣方法の参考は新潟中越地震の対応

(聞き手)
 派遣職員には、過去の災害対応の経験者が含まれていましたか.

(松本様)
 派遣前に確認はしなかったのですが、県庁職員が災害対応に行くというのは少ない事例だと思いますので、あまり含まれていなかったのではないかと思います。

(板津様)
 岐阜県では過去に大規模な災害があり、飛騨地方の豪雨で線路が流されるなど甚大な被害となりました。
その時は、県からもボランティアや業務命令で被災地に入り、土木作業等を行いました。まだ若かったですけど私も経験しました。
ナホトカ号の油流出も派遣を行いました。
そういう意味では、県の中にも、一定の経験がある人間はいたのではないのかなとは思っています。

(松本様)
 阪神淡路大震災の時には、避難所の支援ではなくて、行政機能の維持のための部隊を派遣したということでした。
避難所の応援派遣要請に関しては、新潟中越地震の時に一回だけ派遣した経験があります。
人数的には、多くはありませんが、当時、その時の派遣方法を調べて参考にしていました。
 その経験があり、持っていく物とか、その他雑々とした細かいことも、当時の資料をめくりながら考えた記憶があります。

(聞き手)
 他の自治体は、先遣隊を送るという事例もありますが、岐阜県ではいかがでしたか。

(松本様)
 実は反省点のひとつですが、今回は先遣隊を出すことはできませんでした。
出すという選択肢はあったのではないかと、一担当者としては重要に思っているところです。第1班が、先遣隊を兼ねておりました。

現地支援連絡員の任務

(聞き手)
 佐々木さんも同じ期間ですか。

(佐々木様)
 私は、現地支援連絡員として4月の終わりから5月の終わりまで多賀城市に派遣されました。
派遣の趣旨としては、多賀城市の避難所で支援活動を行っている岐阜県職員が1週間の交代制で配置されていることから、現地との連絡調整を固定的に行う必要があるという事と、発災から1ヶ月という状況を踏まえ、被災地の支援ニーズのより的確な把握と岐阜県からの様々な支援物資の現地での受け入れのコーディネートをするというものでした。
その業務を今日のヒアリングには来ていないのですが、もう一人の新谷課長という者と2名で、現地に駐在して行うというものでした。

(聞き手)
 第1班として今回被災地に入られて、まず、多賀城市をご存知でしたか。
また、多賀城市に入ったルートをお聞かせください。

(板津様)
 多賀城市の場所は、正直知らなかったので、すぐにインターネットの地図を見ました。
多賀城市は、他の自治体と比べるとHP上に震災情報や対応状況等を小まめに出していて、3月30日現在の震災に関する情報などが出ていました。
派遣が決まった翌々日にはすぐ出発しなければいけなかったので、非常に短い時間ではありましたけど、現地の状況をHP上で確認をしながら、事前に情報が見られたのは良かったです。
 被災地に入るルートは、人事課が設定しました。岐阜県からは、東海北陸自動車道で北上して、北陸道から磐越道、そして東北道に入るというルートでした。
太平洋ルートは、非常に混んでいる可能性があるということで、このようなルート設定をしたと記憶しています。

第1班の業務内容

(聞き手)
 第1班ということで、どのような内容の仕事であったかをお教えください。

(板津様)
 第1班で派遣される前ですが、当時、松本補佐と一緒に人事課の手伝いをして、人事課の派遣業務の補助をするように言われたのが3月26日もしくは27日くらいでした。
寝袋や物資を箱買いしていたら、第1班のメンバーが発表され,自分もメンバーに入っており驚きました。
ただ、そういう経緯から派遣業務の情報は、ある程度ありました。
 全国知事会ルートで多賀城市に派遣指定が決まり、その後に松本補佐が多賀城市担当の方と3,4 回くらいの電話でやり取りを行い、避難所5カ所の避難所支援という内容が決まりました。
現地の状況は、食料や水の状況や生活環境の状況について、ある程度聞き取りをした分については知っていたという程度でした。
 多賀城市役所に到着し、菊地市長からお話頂いた後に、担当職員からお話があり、全般的な状況と避難所がどこであるかを教えていただき、「これから行っていただき、現地の指示に従って業務をお願いします」という指示がありました。
支援業務の内容について想定していた通りでした。
ただ、避難所5カ所に張り付く者の人選については、「岐阜県で決めてください」という話がありましたので、移動の道中で話し合いをし、一応のチーム編成を考えていましたが、到着したら多賀城市役所で既に人選がされていて割り振りもされていましたので、そこが少し想定とは違うところでした。
現地の指示に従うのが一番良いと考え、人選については変更を行いませんでした。
ただ、名簿の一番上から順番に2人ずつ割り振っていただいたので、隊長・副隊長が名簿のトップに出ており、二人一緒に同じ所に行ってしまい、「しまったな」と思いました。
しかし、仕事の中身はどこも同じですので問題ありませんでした。
それ以外は、特段イレギュラーな事はありませんでした。

(聞き手)
 避難所での支援内容について教えてください。

(板津様)
 私たちは、避難所の日常運営でした。避難所の名簿管理や物資補給、食料配給、避難所維持等の業務でした。
私が入った時には、発災から3週間目で、ほぼ日常生活はルーティン化しつつありました。
その意味では、日々の業務はやる事がだいたい決まっており、後は、業務がうまく回るように改善していくというフェーズに入りつつありました。
ただ、我々が入った時は、避難所が10カ所あり、場所によっては。まだまだ生活がうまく立ち上がっていないようでした。
私の派遣先は多賀城中学校でしたが、大変な事がまだまだある状況でした。
また、岐阜県以外の自治体も支援に入っており、我々が到着した1日前に愛知県、その後に秋田県が支援に加わりました。

(聞き手)
 基本的には寝袋や食料などをいろいろ持参されたようですが、個人では無く、ほとんどが岐阜県庁で揃えたという形でしょうか。

(松本様)
 とりあえず、寝る場所は自分達で何とかするしかないという事でシュラフを買いました。
水は、1人2リットル×人数分×日数で計算しました。
食糧は、ドライフードやドライカレー、アルファ米などを1週間分、飽きるだろうけど必要な量だけは積みました。
懐中電灯などのその他の装備品は、基本的に個人に任せていました。あとは、ヘルメットや、岐阜県と識別できるゼッケンなどを持っていきました。

持ち込んだ公用車の機動力

(聞き手)
 今回、現地支援連絡員ということで、市役所と避難所を行き来されていて、その足としての車はどうされましたか。
また、宿泊はどうされましたか。

(佐々木様)
 避難所支援の岐阜県職員は、岐阜からはバスで避難所に入り、次の交代要員の到着まで避難所に滞在となりましたが、私と新谷課長は県の公用車を2人で運転して岐阜から現地へ入って、滞在中は岐阜県の公用車で動き回っておりました。
同じ時期に支援に入られた愛知県の職員も、自前の車を持ち込んでおられましたが、機動力という意味では車があるのは本当に便利でした。
 宿泊は、多賀城市のビジネスホテルにシングルルームを確保でき、宿泊しておりました。
復旧関係の作業員の方達も多数泊まっておられ、連日満室状態でした。
他県市の派遣職員からは、仙台など多賀城市外でしか宿泊場所を確保できず、移動が大変だったという話も聞きました。
その点、我々は移動のロスも少なく、また避難所支援に入っている本県職員の間近に滞在できたわけで、同じ多賀城市に宿泊場所を確保できたことは幸いでした。

女性職員派遣のニーズ

(聞き手)
 駒月さんにお聞きします。その後、発災からだいぶ経った後に入られたと思いますが、その時の避難所支援の内容をお教えください。

(駒月様)
 私達11班は、マイクロバスに乗って現地に入りました。
人数は10人位でした。すでに避難所の統合が始まっており、3~4カ所になっていました。
その内の一番大きな多賀城市総合体育館へ4名の職員で伺い、支援を行いました。
 私の派遣の経緯ですが、女性の職員派遣は、私が派遣される半月前の第5班で初めて女性職員が1人派遣され、現地の方々、特に女性に評判が良かったということがきっかけとなったようです。
男性の職員へは、言いにくい事や相談しにくい事もあるという事が現地の声として上がったため、女性職員派遣をしたいとのことで、人事課の方から直接お電話をいただき、派遣されることになりました。個人的には被災地支援に行きたいと思っていましたが、仕事の関係でなかなか折り合いがつかなかった時でして、そのような状況でお話を頂いたものですから、これを機会として、何か力になれる事があればと思い、派遣を希望しました。
 総合体育館の避難所運営を主に担っていたのは応援職員ではなくて、日頃はスポーツ施設を運営している多賀城市民スポーツクラブというNPO法人でした。
そのスポーツクラブが中心となり、愛知県と三重県、岐阜県の職員それぞれの応援職員がいました。
主に、愛知県はトータル的な避難所運営、三重県は食事の担当、そして、岐阜県は保健衛生を担当していました。
 私が派遣された時、避難者の方は高齢者等が多く、トイレの掃除や風呂場の掃除も皆さんでできる状況ではなく、避難者数も多く、大規模な避難所になっていましたから、食中毒などの防止の為に、毎日手すりを拭くなど消毒して歩くという仕事をしていました。
あとは、食料品以外の支援物品の管理と、ボランティアの方々の管理のお手伝いをしていました。
配食の業務を三重県と一緒に行い、自衛隊さんから温かい食べ物の提供を受けていました。
 また、この時、岐阜県では「きずな便」としてお持ちしたパンを避難者の方にお渡しするという業務も行っており、
私が行った時はちょうど第2回目の「きずな便」が到着したときでした。
当時、避難所のパンの提供は、菓子パンや惣菜パンが多く、自衛隊さんからシチューやカレーなどを用意していただいたのですが、食べ合わせが悪いとのお話が出ることもありました。
そうした中、「きずな便」として岐阜県内のパン屋さんの好意のつまったパンを避難所でお配りできてよかったと思いました。
 また、女性職員がまた来てくれたという事で非常に喜ばれました。
特に女性には喜んでいただきました。
物資で足りない物があっても男性職員に「これをください」とは言えない物がたくさんありますが、そういうことも気軽に言えるといっていただけました。
他に、支援物品がたくさん来ていましたが、男性職員だとどう配っていいのかよくわからない下着とか、化粧品とか、そういう物が凄く溜まっていまして。NPO法人の女性職員の皆さんと一緒に配布して、被災者の方に喜んでいただけました。

(聞き手)
 初めての女性職員派遣が5班の時で、その次が駒月さんになるとのことですが、その後も、女性職員派遣されていますか。

(松本様)
 第5班の時はある意味、チャレンジで女性を出してみようということでしたが、この頃になると初期段階の指名制とは少し変わってきて、やはり行ける人間に、ある程度応募なり手を挙げてもらうという作業をしていましたので、各部で希望者を募っていました。
その中で、女性職員の手が挙がり、支援先では、大好評でした。
それで、これはニーズがあるぞという事で、それ以降は出来るだけ女性を入れるように努力しました。
全部の班で行けた訳ではありませんが、できるだけ加えるようにしました。

(駒月様)
 実は、私は本当の初期段階の4月くらいに、最初の応募があった時に手を挙げていたのですが、その時は参加せず自主的に辞退しました。
理由は他の応援職員が全員男性だったことです。
男性ばかりのなかに女性が入ると、受け入れる自治体に御迷惑をおかけすることになると思い、一度は辞退しました。
その後、ちょっと落ち着いてきてから女性が必要になってきたというお話をいただき、個人としては非常に行きたかったので、私でやれることがあればという思いもあり、行かせていただきました。

指名制から希望者の派遣へ

(聞き手)
 指名制は、どれくらいまで続きましたか.

(松本様)
 多賀城市への派遣が決まったのが3月29日でしたから、第1班、第2班くらいまでは、ある程度、指名制だと思います。
それと平行しながら、庁内に「この日以降に行ける職員は、どれくらいいるのか」という照会を掛けて手を挙げてもらう作業をしました。
最初の第1班は、板津さんのように、ちょっと手伝ってくれと言われてそのまま先遣隊として行ってほしいと言われたという職員がほとんどだったと思います。
ちなみに先程の現地支援連絡員については、指名された職員が、その任務にあたりました。
第5班から、現地支援連絡員を派遣していますが、1班、2班と進むにつれて、現場の様子が分かってくる中で、派遣職員の健康面やメンタルのフォローやニーズに対応するためには、現場に一定の期間滞在する職員が必要だということが見えてきました。

(佐々木様)
 私自身は、派遣を希望しておりました。
実際、人事課に「支援に行けるか、この場で決めてほしい」という間髪置かない返答を求められた感じでしたので、直ぐに家族に電話をして、派遣の話があると伝えました。
大学の恩師が気仙沼の出身で、学生時代に東北に行ったこともありますし、ちょうど、阪神淡路大震災の直後に関西で学生生活を始めたものですから、震災後の復旧支援に携わりたいとの気持ちがあり、ここは「チャレンジだ」と思って行きました。

復命時の線量検査

(聞き手)
 原発等の問題もありながら、被災地に入ることへの心配はありませんでしたか。

(板津様)
 私は、全く気にはしていませんでしたが、家族はかなり心配していました。原発の話は、非常にナーバスだなと思いました。
個人的には大丈夫だろうとは思っていましたが、それでも磐越自動車道に入り、緊急車両が増え、自衛隊や消防の車がとても多くなってくる中で、段々と緊張感が漂い、「ああ、福島県に入ったな」という思いはありました。
しかし、ほとんどの班員はそれほどナーバスな感じではありませんでした。
ただ、岐阜県に帰って来た時には、放射能の検査をするために保健所に泊まって、県庁に来る前に車両と人の線量検査をしました。ここまで徹底するのだなと思いました。

(佐々木様)
 私は結局37日間帰れませんでしたので、正直申し上げますと、かなり緊張しました。
1週間交代の避難所支援職員と比べると被災地の滞在期間も長く、また余震もありましたので、さすがに家を出発する時は、親戚が集まってきて、「もしかすると今生の別れになるかもしれない」というような空気が漂っていました。
ちょうどその時に、沖縄の最後の官選知事である島田叡さんの本を読んでいまして、戦争の敗色濃厚な中で、命の危険も伴う沖縄に赴任する時の話で「自分が行かなかったら誰が行くのだ」という気持ちで行かれたというところを読んでいましたので、自分もそういう気持ちで、大げさかもしれませんが、家族や様々な想いを断ち切って出てきたような感じです。
放射能については、原発からの距離もある一方で滞在期間が長かったので、当初は気を使っていました。
ただ、むしろ現地に入ってからは放射能よりも埃などが凄くて、私は喉や鼻が弱いものですから、ほぼ常時マスクをしていました。
しかし、風がなく天気のいい時は、何も気にせずに生活していましたし、周囲の皆さんが普通に生活しておられるので大丈夫かなと思うようになり、段々と緊張も解けてきました。
それでも、余震は気になりました。
泊まっているホテルも高いビルでしたし、瓦礫の下に入った時には、ピーっと鳴らす笛をいつも首に掛けていたりと、それなりにやれる事はやっていました。
また、先に避難所支援に行ってきた職員から「こういうものがあるといいよ」という情報がたくさん入っていたので、その辺は用意しました。

写真撮影への注意

(聞き手)
 現地の写真等は、撮影されていましたでしょうか。実は、多賀城では震災から一カ月後までの写真が少ない状況です。
もし、撮影されていましたら提供をいただけると有難いです。

(佐々木様)
 自分が派遣されている間の多賀城や周辺地域の様子は撮影しました。正直最初はカメラを向けるのには抵抗がありました。
一方で活動の記録を残し、また今後につなげていく必要があるのではないかという思いもありました。
避難所の方たちには、事情を説明して「顔が入らないならいいよ」と言って頂き、撮影させていただきました。
そもそも、岐阜県で事前に行われた派遣者説明会では、写真撮影に注意するよう指示がありました。

(板津様)
そうですね。派遣者説明会の時に、新潟地震の震災後派遣記録が配布されたのですが、「写真は基本的に撮らないように」との記述がありました。

(聞き手)
駒月さんは、派遣について、心配はありましたか。

(駒月様)
 先発隊で、他の県職員が行っていますし、それこそ線量検査も問題無いという結果も出ていましたから、私個人としては問題ないと思っていました。
ところが、いざ行くことを家族に伝えると、母がとても心配しました。風評というか、間違った情報が溢れているものですから、母は私が被災地へ行くことを不安に思ったようです。
とはいえ、もう派遣を了承しておりましたので、母には「行くと言ったから」と伝え、被災地に赴きました。