(聞き手)
最初に東日本大震災が起こった直後、この震災をどう感じられたのかを教えてください。
(駒田様)
震災が起きた時に、奈良市月ヶ瀬で会議をしておりました。奈良市でも山間の方であまり揺れは無かったのですが、奈良市内では大きな揺れがあったと、すぐに連絡が入ってきました。その中で「テレビを付けてください、大きな津波が来ています」という事で、「ああ、これはえらいことや」と思いました。その時にまず頭に上がったのが多賀城市です。やはり友好都市でありますので、これは「えらいことになってるで」、というお話になりました。
会議が終わってこちらの本庁に戻ってきたら、多賀城市の地域コミュニティ課の片山課長(元)から、「助けてください」という一通のメールが届きました。「助けてください」というメールは、生まれて初めて見ましたので、これどうしたらいいのかと、会議の中でもみんなで「うわーっ」となった訳です。助けてくださいと言われてもどうしようもないし、そこへ行ける訳でもないですから。それからメールが途切れてしまい、次の日にもう一度メールが来ました。その時のメールは「毛布が欲しい、お水が欲しい、電池(携帯電話の充電に必要)が欲しい」とか欲しい物を並べてこられて、これをもし頂けたらありがたいですというような内容でしたので、すぐに体制を取りました。私は、その当時は観光振興課にいましたけども、庁内には危機管理課がありましたのですぐに報告しました。勿論、市長にも連絡をして、どうしたらいいのか相談をしましたら、市長の方から「一日でも早く、その品物を届けなあかん」「多賀城市は困っておられるだろうから、ともかくすぐに送らなければ意味が無い、後からでは意味が無い」と指示がありました。それで、明日には届けなくてはという事になりましたので、どれだけ集められるかという対応を急ぎました。救援物資は、奈良市が持っている備蓄を集めました。奈良市もそういう対応に備えて、いくらか倉庫の方に備蓄がありましたので、それをかき集めました。ともかくお困りになるのがお水とか無洗米などの食べ物ですね。それとあの時は寒かったので毛布、それはもう絶対に必要だと。それと風邪を引いてしまうからカイロなども必要だという事で、そういう物を送りました。それと、私はたまたま青年会議所のOBで、後輩がたくさんおりますので、後輩達にもカイロの買い物をお願いしました。びっくりしたのが、物がどこにも無く、電池なども売り切れだったことです。そこで、電池は、役所の中にある物を出してくださいという事でお願いしました。そのように救援物資を調達し、役所の中で応援してくれる職員総出で、救援物資を4t車一台に積み込みました。それで、多賀城市に着くか着かないかというのも分かりませんし、道もそこへ行けるか行けないかというのも分かりませんが、ともかく行きましょうという市長の指示がありました。3月12日に第一陣として職員2人に多賀城に向かってもらい、翌日の朝に着いたという事でした。その後、多賀城市役所の職員の方々が私達に言ってくださったのが、「奈良市の救援物資が一番先に届いたのに感動した」、「やはり、友好都市というのは良いものだと思いました」とお話されていました。
(聞き手)
震災当初の時には、多賀城市の情報はほとんどなかったと思いますがどうでしたか。
(駒田様)
情報は全然無かったです。情報が入ってきませんし、多賀城市からのメールも2回届いてからは入ってきませんでした。多賀城市に電話も何回もしましたが繋がりませんでした。
多賀城市の被害状況は、分からない状態でした。ただ、もう大変な事になっているし、その「助けてください」と言うメールからしたら、たくさんの人が亡くなってしまうのではないかと、凄く心配をしました。今まで、そのような内容のメールは受けた事なく、凄く戸惑いました。
(聞き手)
応援派遣についてお聞かせください。
(大東様)
奈良市の応援派遣は、2つありました。一つは、行政の建設部業務で道路の建設・下水道建設の支援、もう一つは避難所支援でした。避難所支援は、多賀城文化センター、史遊館と公民館の3ヵ所に行きました。応援派遣は、全部で9回行われ、4月25日から7月1日まで続きました。
私は、6月中旬に第3班で行かせてもらいましたが、多賀城市に行ったのは、それが初めてでした。東北は、秋田県、岩手県は行ったことがありますが宮城県は初めてでした。ましてや多賀城市も初めてで、友好都市だということも改めて意識をした次第です。
平成22年2月に友好都市が締結されてから、1年は経過しているものの、3,000人いる職員全員が、観光経済部局と同じ感覚で多賀城市を意識していたということはあまり無かったと思います。応援派遣に行くことによって友好都市であるという意識が改めて芽生えた部分があり、思いも変わってきた面がありました。
(聞き手)
最初に行かれた時は、原発の問題で不安にはならなかったですか。また、最初に多賀城市に入った際の様子は如何でしたか。
(大東様)
私は、原発に関しては、不安になりませんでした。ちょっと離れている事と、原発事故の情報が宮城県においてはあまり伝わっていなかったということもあって、あまり意識はしませんでした。
私が多賀城市へ入った経路は、新潟から山形経由で、夕方暗くなってから着きました。海辺とは分かっておりましたが、かなり臭いがしていました。流れ込んできた海水やヘドロが乾いてきたためか、異様な臭いがしていたのが第一印象です。
川沿いには、家の壁の半分くらいまで泥が着いている住宅がずっと続いていました。とにかく、普通じゃないなという意識を持ちました。そして、津波がまた来るのではないかという不安感がかなりありましたが、避難所支援として担当することになった文化センターは高台でしたので、その心配は必要ないだろうという気持ちもありました。到着した時に、文化センターの建物内部では、屋根の一部が壊れていました。避難者は段ボールで間仕切りをし、地べたに寝るしか無い状態で、大変な状況であるということを強く意識しました。
(聞き手)
支援の仕事内容をお教えください。
(大東様)
奈良市の中で交代で支援業務にあたることになっており、前の班から引き継ぎを受けました。その業務内容ですが、まずは、朝昼晩の食事の手配の段取りをし、食事の準備をして、順番に支給をすること、そして、生活物資や下着類、衣類、薬関係の必要な方への物資の支給でした。避難所を出る方、入られる方がいる場合には、避難所の受付事務を行いました。
最初の印象としては、多賀城市の職員の仕事と思われる内容についても、自治体派遣職員が行っている状況で、普通の状況では無いとの意識を持ちました。よくぞここまで、突然行って、さまざまな手続き関係を支援班だけでうまく回していけるものだなと感じました。そこには、三重県と岐阜県、愛知県、奈良県、四万十市の応援自治体職員がおり、そこでお互いに教え合い、支援がスムーズに行えるようにしていました。震災から3ヶ月経っていることもあり、多賀城市の職員は、復旧・復興の業務にシフトし、避難所での多賀城市の職員は、その施設の館長ともう一人の職員だけで対応をしておりました。
(聞き手)
奈良市での災害経験について教えてください。
(駒田様)
奈良市は、1300年の歴史が続いた街で、あまり地震なども無く、台風も直撃したことはほとんどございません。近年では、台風の直撃が2,3回程度ありましたが、被害は少なかったです。ただ、身近に感じましたのが1995年の阪神淡路大震災です。あの時、私は、青年会議所に所属しており、神戸にボランティアとして行かせてもらいました。当時、さまざまな経験をしましたが、一番困ったのはトイレでした。その他には、避難所へ逃げて来られて、「元気な家族」と「元気でない家族」がいました。それは何が違うかと言いますと、家は潰れたけど全員無事であった家族と、ご家族の人が亡くなられた家族です。避難所で共同生活していても対応そのものが全く異なりました。その中には、肩を落とし、凄い鬱の状態になっている方もおられました。いろいろ見てきましたが、それが一番辛いと感じました。
避難所では、寒い時期だったので、食事は温かい物が欲しいと言われます。大抵はおにぎりなどが配給されますが冷めています。私達は、うどんや味噌汁とかの炊き出しを行い、大変喜ばれた経験がありました。東日本大震災では、炊き出しなどが行えれば良かったと思いましたが、距離の問題などがあり対応ができなかったことが心残りです。
(聞き手)
地域差を感じた点などはありましたか。
(大東様)
私は奈良で生まれて奈良で育って奈良におりますけど、大震災の経験を持っておりません。台風による災害でも、避難所を開設して、避難所が満員になるくらいの避難指示があったという経験がありません。ただ、昭和57年7月に県下で大水害があり、大和川が氾濫しましたけど、死者がかなり出るような大災害ではなかったです。部分的に、山間部で土石流があって木が倒れたという災害はあるものの、人的被害がある災害を経験していないのが奈良市民とその周辺の方々です。
私は、これは普通じゃないと思ったのは、多賀城市民の方がとても静かだったことです。そもそも普段の生活ではないし、普段の行動でもなければ、全く経験した事の無いことだと思います。朝6時に起床し、6時半には全員でラジオ体操をし、7時には朝ご飯で、順番にお弁当をお渡しましたが、皆さんの行動は全て静かでした。何百人もいたら普通は取り合いになると思いますが、整然と並んでおられました。それも班を決められ、きちっとされており、私達職員が「やいやい言う」のが恥ずかしいくらいでした。
私は、奈良の人間で関西の人間ですが、避難者は、関西人と比べて我慢強く、整然とされているなと思いました。阪神淡路大震災の時の経験とは、異なっていました。
(聞き手)
避難所支援について大切なことは何でしょうか。
また、多賀城市への支援活動でうまくいった点は何でしょうか。
(大東様)
応援派遣を通して、あらためて市民と接する気持ちも大事にしなくてはいけないと思いました。やはりいざという時に、困っておられる被災者の方々の気持ちにどれだけ寄り添える気持ちを持てるかどうかだと思います。市の職員として、物資支援などだけではなく、被災者に寄り添うという事が大事だなと思いました。別の自治体で保健師を派遣されていましたが、あれはかなり役立ったように私は思います。あまり語らない被災者に対して、寄り添ってあげる体制は、長期間続く状況の中では大事だと思います。
震災後3ヶ月の時に、避難所において被災者の方と懇談会をしたのは、良いタイミングでした。避難所から早く自立しなければならないだろうし、避難所を出られる方が増えるに伴い、避難所を統合することも必要となる中、それに焦ることなく、市の職員は地道に説明しておりました。管理職や幹部の人などがいきなり出てきて、何月くらいに避難所を移りますよという唐突な言い方はされませんでした。避難者の方に、やんわりと話しを進めていただいたおかげで、不満、苦情を言う人も少なかったと思いますね。
多賀城市の支援活動でうまくいった点は、奈良市からすぐに支援物資をお送りできたことです。当時は、奈良県警からの出向職員がおり、支援物資を運ぶ車に同乗していただきました。運ぶ道中で交通整理している警察官にお会いすることがしばしばありましたが、警察同士だと意思疎通が早く、通行情報などもスムーズに得ることができ、早く支援物資を運ぶことができました。仕事内容を理解している方同士の連携が、今回、早く届けられた理由の一つかもしれません。
(聞き手)
うまくいかなかった点はありましたか。
(駒田様)
うまくいかなかった点としては、すべてが初めての事で戸惑った点です。災害対策本部には、危機管理監がおりますが、このような大規模災害は、初めて起こった事態ですから、さまざまな所から電話を受け、市長からも指示が飛び、対応に戸惑っていました。組織を早く立ち上げて、スムーズに動かなければいけませんが、役所の中も広いので指示をするにもなかなか行き届かない部分も出てきます。「ボランティアの人達がこんな物を送ろうとしているがどうしたらいいのか」、反対に、「被災地の自治体の対策本部から連絡が来ています」とか、支援物資を市から運ぶ、県から運ぶ、自衛隊から運ぶとかさまざまなケースがあります。その連携が、いざという時には、やはり難しいなと思いました。特に災害を受けていない県・市は、経験が無いために普段からの訓練をしっかりやる必要があります。
(聞き手)
派遣支援の中で、多賀城市の職員とは、接点がありましたでしょうか。
(大東様)
多賀城市の職員とは、あまり接触はなかったのです。避難所となった文化センターの担当をしていた市職員からは、あまり目立つような「「こうしてください」、「ああしてください」という指示は、されなかったです。押し付けてしまうし、あえてされなかったのかなと思います。お願いしますという丁重なやり方でした。当時は、この人はもう少し指示をしてくれたらいいのにと思っていました。しかし、1,2年経ってみると、ああいう方法もあると思いました。他県の職員を使っていく訳だから、気を使いながらお手伝いしに来てもらっているという意識を持っておられました。私は、あそこまでの気持ちにはなれないだろうと思います。私の気持ちとしてはこうしてください、ああしてくださいと言うかも分からないですし、「何をしているんですか」と、そう言ってしまうかも分からないですが、一切そういう事は言わなかったです。
気を使っておられたんでしょうね。それと、だいぶ疲れておられたようです。発災から3カ月間、皆さん、正直なところとても疲れていて、ほとんど毎日休みが無い状態だったという話を聞きました。
また、被災された職員もいらっしゃって、本当に大変だったと思います。
奈良市からの派遣も、建設部門の支援では、3ヶ月間・半年間と長期に渡って業務支援に行った職員もかなりおります。
(聞き手)
今回の震災の経験や多賀城市での応援派遣の経験をどのように活かしていますか。
(駒田様)
初歩的で当たり前の事ですけども、私は観光振興課の職員で、本来は観光振興事業を行っている訳ですが、いざ台風が来た、大雨が降るとなった時には、それとは別に、縦割りで担当している災害対策本部からの指揮系統を頭の中でイメージし、支援対策部の生活支援班と観光経済支援班の班員でもあるという意識を常に持っておかないといけないという意識が芽生えました。これは被災地支援に行っていない職員はあまり気付いていないかと思います。「台風は来ているけど、かなり近づいているわけでもないし、たいしたことないのと違う?」というような発想がまだまだ多いと思います。先を読んで行動する意識は常に持っておくべきだと思います。
それともう一つ経験を活かしているのが、私の地元で結成された自主防災組織に、震災後になりますが、自分から加入しました。以前は、災害時は市の対応で追われてしまうため、自分の地域の自主防災に関わることが難しいと考えておりました。しかし、住んでいる地域の人との普段からのコミュニケーションが重要と思い、年間3回の防災訓練と講習会を率先して参加するようになりました。これも被災地支援を行い、住民と接し、コミュニケーションの重要性を再確認し、考え方が変わったからです。
(聞き手)
危機管理対策マニュアルなどがあると思いますが、今回東日本大震災を経験して変わったというのはありますか。
(駒田様)
危機管理課の体制が東日本大震災後の経験からかなり変わりました。目に見えて対応が早くなりました。今年も台風が毎週来ていましたが、管理職も警戒段階ですぐに体制が取れるように対応しております。
(聞き手)
今回は応援派遣から帰って来た時に、報告会などは行われましたでしょうか。
(駒田様)
応援派遣の班ごとに何名か選出し、報告会を行いました。市民の方に聞いていただくために中央公民館で多賀城市の応援派遣の体験談をお話しました。体験談は、市の職員だけではなく、市民にも聞いて欲しいということで行いました。奈良市民にもすごく興味を持っていただき、たくさんの人に集まっていただきました。
(聞き手)
被災地に行かれていない職員さんもいますが、そういう体験談を聞いて、反応というのはいろいろありましたか。
(駒田様)
応援派遣に行っている職員は密に連絡を取り、元気にやっているのか、どんなだろうかと、毎回電話はしました。それで、「今は、このような作業をしています」などの報告があり、これを課の職員で情報共有しております。
朝礼時に報告をしております。現地に行かなくても、多賀城市ではこんな苦労をされているなという事は、課の職員には伝わっていると思いますし、大変という事も課の職員は認識していると思います。ただ、私も阪神淡路大震災と東日本大震災に行きましたけど、行くのと行かないのとは違います。被災地の光景を見たら、やはりびっくりして絶句します。ニュース報道では、そういうところは出てきませんので、現地とニュース報道とはまた違うと思います。
(聞き手)
岩手、宮城、福島の復旧・復興状況については、ご存じでしょうか。
(駒田様)
多賀城市は、何回か行っていますけど復旧が早い印象を受けました。最初に行った時はかなりの被災状況でしたが、次に行ったら、ある程度ですが家も建設されておりました。福島の方は、反対に家の倒壊などは少ないですが、原発の放射能の問題が大きいと思いました。
話は少し横に逸れますが、市長は、「子どもたちが放射能の影響で、外で遊べない」ことを知り、夏休み期間に「子育て支援プログラム リフレッシュNARA」というプログラムを立ち上げ、郡山市と多賀城市の市民を奈良市にご招待をしました。数多く応募をいただき、全員をご招待したかったのですが、受け入れ対応できる人数も限られていたことから抽選のような状態になってしまいました。参加者には、おじいちゃんと孫が来たり、子供さんとお母さんが来たりと数多くのご家族に参加していただきました。奈良市の中で、さまざまな施設見学やお抹茶体験や透かし彫り体験などを行いました。私は、2年間担当させてもらいましたが、一つ印象的な出来事がありました。子供たちは、「雨が嬉しい」と、雨に打たれているんですよ。「濡れるから早く中に入りなさい」と言ったら、この子たちは、「被災地では雨に当たったら駄目だから、雨が嬉しい」と言っておりました。被災地では、土にも触ったらいけないと言われているけど、こっちでドロドロになっても親が怒らない。それは、被災地ではできないので、「泥んこになってもいいんです」と親が言ってくれました。被災地の現状を目の当たりにしたと思いました。
奈良市内の社寺などでは、心のケアの活動も行っております。東大寺長老の北河原氏は、石巻市大川小学校の親御さんが来てほしいと言うことで、よく行っておられるそうです。親御さんに当時の出来事やいろいろなお話をお聞きして、心のケアにあたられているそうです。その他の被災地域では、心のケアができていない所がたくさんあるのではないかなと思います。阪神淡路大震災でも、「あの時に迎えに行ったら」とか、「あの時にそんなことを言わなければ助かったのではないか」とか、悔いが一生残ると言うお話がありました。東大寺では、それが一番辛いと言っておられました。
私は、東日本大震災のお話も数多くお聞きしました。例えば、「警報が鳴って津波が来ますと言っていたけれども、そんな大きな津波が来たことは無かったから大丈夫だろうと自宅に残っていた人が亡くなってしまう」、「まだ、津波が来ていないから荷物とか預金通帳を取りにいってしまって亡くなってしまう」、「車がもったいないからと取りに帰った人がみんな亡くなっている」という事はお聞きしました。津波の怖さというのはよくわかっていなかった事は、言っておられました。
(聞き手)
多賀城市の今後の復旧・復興に向けてもし何かお考えがあれば、お教えください。また、今後、多賀城市に何らかの支援のお考えがありましたら教えていただければと思います。
(駒田様)
私達は、観光の部署としまして、奈良市と多賀城市で共通した商品で復興支援するということを考え、日本酒「遠の朝廷(とおのみかど)」を作りました。これは今後も継続して行く予定です。また、多賀城市は、お米の産地ですが、奈良市でもおいしいお米が採れます。お互いに美味しい米おこしなどのイベントの企画など、少しでも復興への足がかりにできる共通な事を多賀城市と一緒に考えていきたいと思っております。東大寺において、多賀城市の特産品を扱う物産展を3年間行っております。その物産展に出品できるお互いに何か共通した商品開発ができないかなとも考えております。
観光に関してですが、多賀城市には多賀城政庁跡、奈良市にも平城京跡がありますので、お互いの繋がりを持ってやれればと考えております。また、これは難しいかもしれませんが、奈良は修学旅行の誘致をしていますので、こちらから多賀城へ修学旅行に行くとか、多賀城からも修学旅行に来てもらうなど、お互いに修学旅行としての繋がりもできたら良いなと考えております。また、お互いの学校の学生同士の繋がりもできたらとも考えております。これからも両市の絆をさらに深めていきたいと思います。
そして、多賀城市には東北歴史博物館があります、奈良も国立博物館がありますし、そんな中で普段見られない物を展示することもできたらいいなと思います。せっかくああいう立派な博物館がありますので、実現にできるか分かりませんけども、正倉院の宝物や世界遺産社寺の文物が多賀城でも展示できます。難しいとは思いますがそういう夢があったら面白いかなと思います。
今後の復旧・復興に向けて、先ほどもお話しましたが心のケアがまだ不十分なところがあると思います。徐々ですが着実に復興をしてきておりますので、心のケアができれば良いと思いますけど、なかなかそれは難しい面があると思います。そこは、奈良市の社寺からさまざまな所へ赴き慰霊の法要やお話などもされています。また、東大寺だけでなく薬師寺・春日大社等も被災地で慰霊法要されています。奈良市は、社寺・仏閣の多いところですので、そういう心のケアをこれからも継続して進めていかなくてはいけないと思います。
(聞き手)
東日本大震災を経験して後世に伝えたい事や教訓などについて教えていただければと思います。また、東日本大震災や多賀城市に関しての思いや意見などがありましたら教えていただければと思います。
(駒田様)
奈良市の自治連合会やロータリークラブなどの主催で、実際に被災経験をされた多賀城市職員に講演に来て頂いております。少しでも被災地の大変さがわかるよう、その状況をお話ししていただいております。夏休みに小学校の体育館を借りて、段ボールで一緒に寝る避難所体験訓練もやっています。その時に、講演も一緒に行いました。お話をしていただいた方は、災害を思い出して涙を流しながら講演をされていました。そして、大変な状況であったのかと聞く側も泣かれていました。合わせてさまざまなビデオを見せたりもしていました。奈良市では大規模災害が起きていません。したがって、どんな事で大変だったというのが分からなければいけません。避難所の中で、段ボールで寝るということは、子どももお年寄りも大変な事です。そういうような事を少しずつでも教えて、多賀城市の体験を奈良市民にも伝えております。
(大東様)
いざ災害が起こった時に、実際に最後まで働かなくてはいけない職種は、自衛隊や消防、警察もありますが、「一番働かなくてはいけないのは地方自治体の職員である」という意識を強く持たなくてはいけないと思いました。それと自分が住んでいる地域のコミュニティを大事にすることです。それと合わせて、今の時代、何が起こるか分からないという意識を常に持っておかないといけません。今までの、台風があまり来なかったし、雨も少なくて集中豪雨も無かったし、地震も無いという意識は、もう捨て去らなくてはいけないということです。ましてや自分の地域だけが良かったらいいという意識を捨てなければ駄目だと、私は多賀城市に行って思いました。自分の国だという意識を持たない限り、あれは遠いところの話だからという気持ちを持っているようでは、一自治体職員としては駄目だと思います。それは、多賀城市に行かせてもらって初めて思いましたので、悲しいですが、出向いて初めて気が付いたという面があります。だから、行かせてもらってよかったと思っています。
ここ最近、豪雨によって京都府でも床上浸水とか、今まで無かったような災害が起きてきています。その都度、何年掛かるか分からないような災害復旧をやっているようでは、日本としてこれでいいのかなと思います。即座に対応できる体制を作って災害に強い日本にしていかないといけないと思います。災害は当たり前の事ですし、すぐに復旧・復興できる体制作りをするためには、東日本大震災の早期の完全復興をすることが重要だと思います。
(聞き手)
自治体同士の防災協定や友好・姉妹都市を結ぶメリットを感じられる事というのは何かありますか。
(駒田様)
突発的な災害がいつ起こるかわかりませんので、自治体同士の防災協定を事前に結ぶことは、いざという時にすぐに行動ができ、お互いに支援できるというのは大きなメリットだと感じます。今後、私達も助けてもらわなければならない時もあるかもしれませんが、そういう時には防災協定があることで円滑に進めることができると思います。ただし、事前に環境作りをしていかないといけないと思います。その一つとして、食糧やカイロ、マスク、飲料水などの備蓄品の準備が重要と考えます。東日本大震災が起きた時には、スーパーや百貨店にカイロもマスクが売り切れでほとんどありませんでした。これは、恐らく、市民の方が被災地に送らなくてはと考えて買われたものだと思いますが、災害時にはそのような事態が起きてしまいます。まずは、今回の経験を踏まえて奈良市の備蓄を見直すことで自分たちの備えにもなりますし、他の自治体の支援にも繋がると思います。
友好・姉妹都市というのは、何か共通点があって結ばれている訳です。例えば、観光で共通する歴史や建物がある、食べ物があるなどで結ばれてきたと思います。私達の観光セクションの課で言えばこれまでは、大半は観光の事だけでしか考えてきませんでした。しかし、今回の東日本大震災で教えてもらったのは、困った時にお互いに助け合うのも友好・姉妹都市ではないかと、新たに認識を持ちました。友好・姉妹都市の意義は、観光だけでは無く、もっと奥の深いもので、災害などがいざ起きた時には共に支え合うのが、友好・姉妹都市だと今回の災害を経験してつくづく思いました。
今後も多賀城市とは、継続して復興支援を進めていきたいと思います。また、多賀城市民の方が個人で観光に来られた時にも、部署へ電話を入れて、「奈良市でこんな商売をされている方と会いたいので、ちょっと市役所に寄らせてもらいますよ」というちょっとした関係が深くなっていければ良いと思います。災害を契機に親密になったというのは、おかしな話ですが、困った時にこそ、その気持ちに寄り添うという気持ちを持つ事は大事だと思います。
そして、いつも多賀城市の事を思っていることが重要だと考えます。私達もテレビを見ていて、地震の震度速報が流れた時は、すぐに多賀城市に電話をします。まず、先に建物が壊れたとかではなくて、「津波は大丈夫です」と言われます。やはり、それほど津波が気になっているのだと思います。「津波の心配はありません」とテレビで流れても本人に電話をします。反対に、奈良県南部地域の十津川に台風が直撃した時も「大丈夫ですか」とお電話をいただきました。多賀城市とは、今後もこのような関係を継続していき、共に災害に対して負けない自治体にしていきたいと思います。
(聞き手)
本日はどうもありがとうございました。