防災・減災への指針 一人一話

2013年10月07日
応援自治体職員の声 ――太宰府市①――
太宰府市職員 総務部協働のまち推進課長
藤田 彰さん
太宰府市職員 健康福祉部福祉課長
阿部 宏亮さん
太宰府市職員 総務部公共施設整備推進課主任技師
竹下 潤さん

被災地内での情報の重要性

(聞き手)
 東日本大震災が発生した際の報道で、津波が襲ってくる映像を見られた時の思い、そして、多賀城市にどのような思いをお持ちになったかという事をお聞かせください。

(藤田様)
 震災直後の報道では、空撮が多かったものですから、被害規模が分かりづらく、どのようなことが起きているのかということを把握することは困難でした。
また、現実に起こっているということの概念も、なかなか持てずにいました。
それが最初の10分から20分までの話です。
 まず、心配したのは、多賀城は大丈夫かという事でした。半年前に多賀城市職員が研修で派遣されて来た時に防災マップを見せて頂いて、そのマップに示されている津波想定エリアを見て、多賀城は津波も想定していることを知りました。
ただ、想定エリアをはるかに超える津波というものを目の当たりにした時驚きましたし、多賀城市やその周辺の被害がまずどのようになっているのか、地理的なものも含めて、大丈夫なのかというのは真っ先に浮かびました。

(阿部様)
 私は、多賀城市に行ったことがありませんでしたので、多賀城市の詳しい地理的な場所などが分かりませんでした。
気仙沼市のコンビナートが燃えている映像や津波で車などが押し流されるという映像を見て、映画の世界のような感じを受けました。
 5月頃から派遣で多賀城市に行った際、夕食をとりながら、お店の方とお話をさせていただいたのですが、気仙沼市での被害をほとんど知らなかったと言われていました。他の地域の被災状況を知ることも必要なことですので、情報の伝達や共有がうまく図られることが重要だと感じました。

(竹下様)
 震災当時の津波の映像を見て、本当に現実感がわきませんでした。震災から約2年経過後に多賀城市に派遣され、その時に名取市閖上地区に行ったのですが、復興商店街が少しできている程度でしたので、まだまだ映像のままだなと現地を見て改めて思いました。
 申し訳ないのですが、多賀城市が友好都市というのは知っていたのですが、宮城県のどこにあるかを知らず、震災の時に初めて地図で調べて海沿いに面していることを知りました。

災害支援本部の設置

(聞き手)
 発災後の対応を教えて頂けますか?

(藤田様)
 当日は、現実味が無かったというのが正直なところで、災害状況がはっきり分からない状態でした。翌日の土曜日に、幹部が集まり、太宰府市に災害支援本部を設置する事になりました。
日曜日には、災害支援対策会議が開催されました。
月曜日からは、募金を開始し、募金だけじゃなくて救援物資も必要だという事で救援物資義援金の準備をしました。救援物資については、最初から沢山集めるというのは難しかったので、とにかく総務部職員全員を使って「買いに行って来い!」という感じで、当日は、水416ケースをなんとかかき集める事ができました。
そして、毛布と一緒に多賀城市に送る準備を行いました。
17日には臨時会議を開き、義援金を市から1000万円を送るという事でまず一便を出しました。その当時、多賀城市との連絡調整は、防災無線を使った衛星電話回線で行いました。

(阿部様)
 私は、総務部におり、救援物資の調達ということで、3月14日の17時頃から近郊の大手のスーパーなどを走り回りまして、ありったけの水を買ってきたという記憶があります。
こちらの住民も災害に敏感になっていたのか、懐中電灯や電池などは売り切れという状況でした。水は、一定量を確保できました。

物資備蓄の重要性

(聞き手)
 救援物資として、太宰府市の備蓄を用いなかったのはどうしてですか。

(藤田様)
太宰府市では、平成17年に福岡県西方沖地震を経験しておりますが、備蓄の重要性を本格的に感じたのは、東日本大震災以降でした。
それ以前は、太宰府市の備蓄対策として、周辺の商店と物資の供給契約という協定を結んでおり、その契約している所から仕入れると言ったかたちを取る協定でしたので、太宰府市では物資を持たないというところがありました。それが太宰府市の大きな反省点でもあります。

応援体制の決定と事務の支援が最初の使命

(聞き手)
 当時の派遣に至るまでの状況を教えてください。

(阿部様)
 私の派遣が決まったのが派遣される5月13日の前日の災害支援対策会議で、その日の夕方くらいに、明日からとりあえず人的派遣の調整のために、多賀城市へ行ってくれないかと指示がありました。

(藤田様)
 派遣に関しては、 3月14日の災害支援対策会議において、職員派遣が必要だろうという事は話し合われていました。派遣調整の日程が難しかったですが、阿部さんが最初に行くと5月の会議の中で決まりました。どのような活動をするのか、どこに拠点を置くのかという段取りができていないままに、行って来いという指示でした。

(阿部様)
 夕方から航空機の手配が取れない状況でしたので、約10時間かけてJRで行くことになりました。翌朝の博多発6時ののぞみで出発し、東京からは東北新幹線で仙台に向かい、多賀城市役所に到着したのは15時頃だったという記憶があります。
 私の任務は、今後の応援体制を決める事と事務の応援をする事というものでした。多賀城市の窓口は総務課の人事係でしたので、まず、そちらに訪問をしまして状況を聞きながら、今後の派遣体制について調整を行いました。

(竹下様)
 私の場合は、平成24年4月から技術職員の派遣の要請という事で、平成23年12月末に依頼があり、それから我々、技術職員に話がありました。
しかし、当時は派遣されての業務内容の中身が何かは分からなかった状況でした。太宰府市の総務課に聞いても分からず、「4月から3カ月交代で行ってくれないか」ということで話がありました。
実際には、私は平成25年4月からの派遣でしたので、自分が行く前に4人が応援派遣に行っておりました。経緯がある程度分かっており、業務の内容も想定しやすかったので、行きやすかったことはあります。

(聞き手)
 最初に多賀城市に到着した時はどんなイメージでしたか?

(阿部様)
 JR仙台駅から多賀城市へ向かう途中の仙石線沿線については、あまり被害を感じられませんでしたが、多賀城駅に近づくにつれて津波で流された車が道路の脇にある状態でした。海岸側の方の砂押川で、津波が止まっていることがわかる状況でした。
多賀城駅に降りた時に目の当たりにしたのは、駅前の空地の自衛隊のテントでした。
後に知ったのですが、それは避難者用の仮設風呂でした。
仙台市内に宿を移した時は、賑わいもあって、震災があったようなイメージはあまりありませんでした。
 市職員に多賀城市内や七ヶ浜の現状を案内していただいた時、多賀城市はあんまり山らしい山というのが無く、海側に関しては、本当に平地だなと思い、津波が来襲したら、やはり相当内地まで入ってくるだろうなという印象を受けました。

必要とされる人員と内部調整の難しさ

(聞き手)
 応援活動の中で上手くいった事や、上手くいかなかった事について、教えてください。

(藤田様)
 支援物資の輸送に関しては、思ったより順調にできました。輸送経路も確保できない中で、運送業者が快く引き受けてくださったという事が一番有難いことでした。
2回目の輸送からは、水もコカ・コーラ株式会社との協定の中で搬入できましたし、連絡を受けた中で何が要るのというような事も問い合わせながら物資を送る事が出来ました。
3回目に、支援物資の募集をしたところ、太宰府市民の方が新品を買って、搬入してくださったという事がかなり多くありまして、予定よりも早く物資が確保できました。
あの頃は、太宰府市民の心が一つになった瞬間だったなという風に感じました。

(阿部様)
 多賀城市に太宰府市の職員が直接行って、今後の派遣についてコーディネートをしてきたというのはやはり良かったのかなと思います。現地の情報をリアルタイムで伝える事もできるし、多賀城市職員の皆さんは災害対応業務に追われていて時間を取らせる訳にはいかない状態でしたので、私が行って逐一業務の内容や今後、職員を派遣するに当たってどのような業務が必要なのかを太宰府市に伝えて、災害支援対策会議で人事を決めてもらうという流れは良かったと思います。
 改善点については、太宰府市の場合、長期派遣・中長期派遣になってから主に下水道関係の技術職が必要とされました。太宰府市の場合においては、技術職の職員は絶対的に人数が少なく、その中で、太宰府市の業務を遂行しつつ、多賀城市にも派遣するというような内部での調整は難しかったです。

(竹下様)
 私の場合は実際に行ってみましたら、方言がちょっと大変でした。
それと、土地感も無い中で、初めて行く現場は多賀城市の職員と行ったのですが、2回目以降は自分一人で行かなければいけなかったですし、知らない土地での業務に、最初は不安でした。
そのため、地名はとにかく覚えるしかないと思い、休みの日に車で市内を回って覚えました。
あとは、多賀城市の所属部署は下水道課に決まりましたが、私は太宰府市で下水道工事の経験が無く、自分が行って本当に役に立つのかというのが一番の不安でした。

経験をふまえて職員派遣の受け入れ制度を確立

(聞き手)
 今回持ち帰った経験の中で太宰府市に生かされたことや、今回の地震の応援や支援の中で今後の太宰府市に生かしていこうと感じた点はありますか。

(藤田様)
 東日本大震災を受けてからの太宰府市の体制は大きく変わりました。まずは、他の自治体からの職員派遣の受け入れ制度をきちんと確立する必要がありました。
また、ボランティアの受け入れ体制も取らなければいけないという事で、毎年災害ボランティアセミナーを実施し、実際に災害が起きた場合、どのような施設を活用するかなどの体制づくりは進んでいます。
 新しい地域防災計画の見直しの中で、避難経路が一番大切だと感じ、新たな避難施設などの協定締結や、自治会長を含めた中での避難経路の協議、避難経路の確認などを進めている最中です。2014年までに作り上げるよう進めています。

(聞き手)
 今回応援物資を送った中で、備蓄品としてもこういう物は入れておいたほうが良いという物は何かありましたか?

(藤田様)
 女性や高齢者の方のプライバシーを含めた支援対策が大事だという事に気づきました。
また、都市計画として、公園を整備改修する中で、トイレ用のマンホール設置などの対応も考えるようになりました。
 支援物資で喜ばれたのは、太宰府市の職員の作業着の未使用分でした。多賀城市からは「本当に助かりました」という話を聞きました。

(聞き手)
 その他についてありましたらお教えください。

(藤田様)
 電話で多賀城市の人事を担当する職員とやり取りを行う中で、職員のメンタルケアが重要だと思いました。
 平成17年の福岡県西方沖地震がありましたが、夜中にゴーッという音で目が覚めるとか、PTSDの人が福岡でもおられると聞いております。
東日本大震災は、その比ではない余震が起こっておりますので、メンタルケアをどのようにしていくのがよいのかを学びたいです。

(竹下様)
 私は、行政職員として太宰府市しか知らない中で、多賀城市職員として働き、多賀城市だけでなく全国各地から来ている派遣職員のやり方を見て、業務改善の良い点を太宰府市でも取り入れていければと思いました。

(阿部様)
 私は、総合相談窓口のコントローラーという業務を行いました。市民の方がどういう相談にみえたのかを聞いたうえで、どのブースに回ってもらうかを采配する役目でした。2時間程度の待ち時間は当たり前の状況でしたので、市民に対する配慮や総合窓口の在り方などを考えなければと感じました。

(藤田様)
 太宰府市では、平成15年に水害があり、相談窓口を設けたのですが、5つほどの窓口対応で足りました。
しかし、東日本大震災クラスの大きな災害があった場合には、対応しきれないですし、段取りが全く分からないということになってしまう可能性があります。そのために、今後の体制作りを考えていかなければならないと思います。

風化させないための取り組み

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧復興に向けて、太宰府市から見た考えなどがあればお願いします。

(藤田様)
 太宰府市の職員派遣を今後も行い、義援金を継続して集めるなど、これからも決して、経験風化させないように、さまざまなPR活動をしながら、支援していこうと思います。
 太宰府市民政庁まつりのステージの右側に、多賀城市の将来像を書かせてもらいましたが、多賀城の将来像を見て頂いて、忘れていないという事、多賀城市への思いを常に持ってもらおうということで行っています。

(阿部様)
 とにかくこの東日本大震災を風化させる事なく、息の長い支援をやっていかなければならないと思います。太宰府市民政庁まつりで多賀城市の事を伝え続けていきたいと思います。

地域間の関係の希薄化の問題

(聞き手)
 東日本大震災に関して、後世に伝えたい教訓など、個人のご意見でも良いですし、市の職員として何か思っている事があれば一言ずつお願いします。

(藤田様)
 やはり災害はいつ起きるか分からないという事を常に思っておく事。先程も出ましたけど、風化させない、記憶の中に留めておいて災害が発生した時にどう対応するのかという意識は、常に持っておかなければいけないと感じております。
 また、太宰府市だけでなく、他で災害が起きた時にどう支援していくかという事をきっちりと記録に残した上で、有事の際の対応を位置付けしていかなければならないと思います。
今回も、東日本大震災については、太宰府市でも、毎年復興への祈りを行っております。これも後世に残していこうと思っています。

(阿部様)
 多賀城市から頂いた被災地の画像があり、職員がいつでも見られるようするなど、震災を忘れないようにする試みができれば良いと考えております。それを職員一人一人が思いながら、太宰府市で、もし災害が起きた時にどう動くかという事は考えていかなければいけないと思います。
 それと、地域間の関係が、希薄化がしてきているとよく言われますが、協働のまちづくりの中で自助・共助・公助がありますが、大災害が起きた時に公助の力はなかなか出せません。では、どうやって力を発揮するのかというのは、やはり共助が重要と考えます。地域間の関係作りを再構築しなければいけない、行政が地域に入ってやっていくという事を長く今から続けて行かなければいけないのかなと思います。
 全国的に災害時の要援護者支援制度がありますが、要援護者に対して誰が支援するのかというところがまだまだ決まらない状況も多いです。これらの事を含め、今後、地域間の関係作りに力を入れて行くべきだと思います。

(竹下様)
 震災から2年半経って、九州では、東日本大震災のことがかなり風化しているのを感じます。
地元新聞の河北新報では、今でも「震災アーカイブ」として当時の写真が毎日載っていますが、九州に帰ってきたらまったく報道すらされてないのが現実です。
震災を風化させないようには、どうすればいいのかは簡単には思い浮かばないですが、私は、一度、被災地を見に行くのが良いと思います。「百聞は一見にしかず」だと思います。
特に九州では、だいぶ風化しかかっておりますので、東北に行ったら被災地を見るのが絶対に良い経験になるのかなと思います。

(聞き手)
ありがとうございます。本当に貴重なお話をありがとうございました。