防災・減災への指針 一人一話

2014年01月27日
応援自治体職員の声 ――天童市――
天童市消防本部消防課長 消防指令長
細谷 康夫さん
天童市建設部建設課雨水排水係主査
樋渡 佳浩さん
天童市総務部危機管理室室長補佐
新関 知己さん

東日本大震災発生時の天童市

(聞き手)
※聞き手はすべて東北大学災害科学国際研究所准教授柴山明寛氏
天童ではどの様な災害が起こりやすいのでしょうか。

(細谷様)
天童は非常に災害の少ない市です。最近では新潟中越地震、その前だと昭和39年の新潟地震です。昭和53年の宮城県沖地震で震度4くらいの地震は経験をしていますけども、3.11のような大きな揺れは初めてでした。

(樋渡様)
私も何年に地震が起きたのか、記憶が薄いです。風水害もほとんどなく、今までで一番大きいのが昭和42年の羽越水害で、私の生まれる前のことです。

(細谷様)
災害に対する意識はあまり持っていなかったという感じはします。

(聞き手)
東日本大震災が発生した3月11日2時46分に、どこで、どういう状況で被災をされたのかお聞かせいただけますか。

(細谷様)
 市役所2階にある生活環境課の執務室におりました。これまで経験した事のないような揺れで、私は机にしがみついていましたし、女性の方などはへたり込んでいました。庁舎も築40年ほどで耐震ではありませんし、揺れも長かったですから、雪が降る中を全員外へ避難して集合しました。議会棟の下のピロティーに避難をして、そこのガラスが割れないかと心配しましたが、結果的に庁舎自体には殆ど被害はありませんでした。

(樋渡様)
 当時は下水道課の仕事で、自分の担当する工事現場におりました。そこで電柱がしなるような、電線も揺れるような凄い揺れがありまして、只事ではないと感じました。工事に使用している重機が倒れたりしないよう、すぐに中断させました。
現場の作業員は家族に電話をしましたが、不通状態で殆ど繋がりませんでした。
そのうちに、報告も兼ねて真っ直ぐ市役所へ戻ろうと考えたのですが、信号が全部消えていたのでパニックが起きていました。余震はいつ起きるのかという不安もありながら、信号の消えた道を市役所へ向かったという状況です。

(聞き手)
震災以前の2008年に起きた岩手宮城内陸地震は、おそらくこれまでで一番震源の近い地震だったと思いますが、その時に被害はありましたか。

(樋渡様)
あの時も揺れましたが、弱っていた民家のブロックが落ちたりした程度で、そこまで被害はありませんでした。

(聞き手)
先程、庁舎の外へ全員避難されたお話がありましたが、その後はどういう行動に移っていったのでしょうか。

(細谷様)
避難した後、揺れが収まった段階で執務室に戻り、震源を確認しました。確か、その後すぐに対策本部が出来たと思います。

(新関様)
非常用電源は確か1,3,5階にありました。

(樋渡様)
下水道課のある4階フロアは懐中電灯の明かりで内部会議をしましたが、報告のため、対策本部のある3階に下りていくと電気が付いていた記憶はあります。

応急対応の状況

(聞き手)
その頃、テレビで津波の映像を見られましたか。

(細谷様)
その時点ではテレビも見ていないし、津波も知らなかったですね。

(樋渡様)
私は市役所の中で夕方か夜くらいに、JXの製油所が燃えている映像を見ました。

(聞き手)
勿論、天童への応急対応が第一使命だった思いますが、太平洋沿岸部の状況を見てどう思われましたか。

(細谷様)
確か車のテレビで津波の映像を見ましたけども、怖いなと思いました。

(樋渡様)
暗闇で火事が起きている状況だったので、現実なのかなとか、もしかしてこの中に人がいるけど暗闇で見えないだけなのかとか、皆どこにいるだろうと思っていました。

(聞き手)
天童の被害確認をしてから、どういった応急の対応をされましたか。

(細谷様)
私の場合は生活環境課でしたので、ゴミ処理問題が当然出てくる訳です。瓦礫というよりも、普段回収している生ごみを処理出来ないし、ガソリンも無くて収集に回れないというので、清掃業者に委託はしていましたが、生ごみの出す日にちをストップするなどの手配ですね。

(樋渡様)
下水道施設では汚水をポンプで汲みあげるところが何ヵ所もありますけども、基本的に動力が電気なので、停電が一番困りました。そこで、下水道課が全員体制で、車に発電機を付けてポンプのある箇所をぐるぐると回り、溜まったらまた搔いてという作業を夜通し続けました。それで、庁舎の4階フロアに電気が付かなかったのも分かっていました。
公用車のガソリンを手配するのもまた悩みの種でした。市役所全体を通してどこかから供給は来まして、優先的に分けてもらったりしましたが、やはり燃料の問題がずっと付きまとっていました。

(細谷様)
震災翌日にはもう、スタンドに相当並んでいる状況でした。ガソリンスタンド自体は開いていましたが、手作業での給油でしたし、一人20Lとか10Lとかの制限は掛かっていましたね。

(新関様)
市役所の電気が復旧したのが、次の日の昼頃です。

(樋渡様)
ポンプ点検作業で市内を巡回した際、電気が復旧した地域毎に明るくなっていきました。一斉復旧ではなかったですね。

(聞き手)
天童では、避難所は開設されていましたか。

(細谷様)
開設しました。11日に開設したのですが、12日には電気が復旧したため避難していた住民の帰宅とともに一旦閉鎖しました。その後、13日に福島からの避難者受入れという事で、公民館やスポーツセンターを再度、避難所として開設しました。

多賀城市へ救援に向かう

(聞き手)
多賀城に行かれた経緯と支援業務の内容を教えてください。

(細谷様)
私は震災前から多賀城と関わりがありまして、平成18年に多賀城市との友好都市協定を締結した際には、担当をしておりました。2年後の平成20年には災害の相互協定を締結しましたが、その時は危機管理室の方におりまして、その準備をさせてもらいましたので、多賀城市には思い入れがありました。
震災の時は、まずは救援物資を多賀城市さんに届ける事なりました。13日の午前から準備を始めて午後に積み込みをして、出掛けたのが15時頃です。倉庫から毛布、アルファ米、飲料水を、あとは市民の方から届けられた紙おむつと、農協さんから提供されたジュース類をトラックに積み込みました。救援物資の内容については、詳しくは分かりませんが、多賀城市から要望があったように聞いています。
何回かお伺いした事があって、多賀城市役所までの道のりは大体分かっていましたから、「私が行くしかないのかな」という事でトラックに救援物資を積んで、上司と一緒に、道案内の形で届けたというところです。15時頃に出発だったので、作並経由ではなく高速を使ったのですが、仙台に入ってすぐに渋滞でした。南部道路を通って東部道路に入り、その頃はまだ明るくて被害の状況が見えて、何も無いという感じでした。多賀城に一番近いインターは完全に通行止めになっていましたので、手前の仙台東で降りた筈です。それでそのまま多賀城市に入りましたが、国道45号の両脇で車が電柱に引っかかっていたりしてびっくりしました。家屋が倒壊しているとか、そういった事はなかったですが、もう、やっとすれ違う程度の道路幅でした。
多賀城駅前の通りから市役所に向かう道路が通行止めで進めませんでしたが、救援物資という事はトラックの前の方に表示していましたので、住民の方に道を教えて頂きました。国道45号から手前の細い路地裏の道路を行った記憶はあります。それで17時過ぎに多賀城市役所に到着しました。
その時の市役所の中は、避難している方が相当いらして、ごった返している状況でした。それから総合受付で会議中の対策本部の方に通されまして、私は直接やり取りをしていないのですけども、避難者の為にパンが欲しいとお願いされたような気がします。

(聞き手)
1回目の救援物資を3月13日に運ばれて、その後も何回か続けられたのでしょうか。

(細谷様)
パンを運んでいる筈です。私は初日しか担当していないので詳細はわかりませんが、トラックの運転手プラス2名で運びました。

(新関様)
15日から、学校給食用のパンを届けています。

(樋渡様)
私は結果として、トータル3回多賀城へ行っています。最初は水道、次は下水道の被害調査で、その次は3ヶ月の長期派遣でした。
天童市からの応急給水作業に参加したのが最初で、人員の選出については手挙げ制ではなく、基本的に水道業務を経験した職員から選んで、おそらく部課長が班を決めたと思います。全部で5班出ていまして、3月13日~23日の期間で行いました。1班3名の組み合わせで、私は最後の班として3月の21日~23日までの3日間を担当しました。多賀城の水道庁舎2階が和室になっていまして、そこに泊まりました。
実際の業務は班によって日々変わっていくようで、引継ぎは直前の班と初日の1,2時間くらい重なる時間の中で軽く行いましたが、あとは現地の職員の方の指示に従って動くということでした。
担当業務は給水車で各給水所を回って水を運搬するというもので、他には水道庁舎前が給水所になっていたので、そこの交通整理をしている者もいました。私が一緒に給水車に乗ったのは、管工事組合という多賀城にある水道の会社の方で、車中では結構会話をさせていただきましたし、それで色々なところを回りながら写真も撮りました。逆に言うと市災害対策本部とは話していないですね。その3日間、時間は短く感じましたけど、どっと疲れたという印象があります。
 支援には何か自分に出来る事がないかと思って行ったのが正直なところです。現地の状況は、先に派遣された班の方からの写真やメールなどで聞いていましたし、放射線などは少し気になりましたけど、大丈夫だろうと思って行きました。その時に撮った写真を見ていると、やはり思い出してくるものがあります。先程に細谷さんが言っていたような、ごろごろ車が転がっている状況とか、私が行ったのはその10日後ですけど、車屋さんのショウウィンドウのガラスが割れている状況とかを見まして、本当にこうなっているのかと道中でびっくりしっぱなしでした。でも車は全部避けてあって、脇には寄せてあるまでも、道が開いていたので市役所までの道も通れました。よくあの台数を避けたものだと思います。

長期間にわたる応援業務

(聞き手)
 応急給水活動から戻って来て、その次の下水道調査にはいつ頃の時期に入られましたか。

(樋渡様)
 5月です。これも3日交代だったと思います。第1班が5月17日~5月19日の3日間で、私は、第2班の5月20日~22日でした。天童市役所から通いの作業で、朝早くに出て夜に帰るという流れで、足には公用車のステップワゴンを使い、ガソリンはこちらで給油をしていました。ハイブリット車も2,3台ありましたが、その時は使いませんでしたね。
 その頃になると、道の脇にあった車も大分片付いていましたし、信号機が作動しないところも数ヶ所ありましたが、警察官の方が整理をされていました。
 市役所の中はてんてこ舞いで、青森市さんなど他の自治体も来ていたので、私達のような支援部隊に指示を出すのにも労力を使いますし、こちらも質問なりをする訳で、その対応が大変そうでした。常々考える事ですけど、逆の立場になった時に果たしてできるのかなと思います。
 業務内容としては、街を歩いて移動しながら下水の蓋を開けて、災害で壊れたところがないか調べるといったものです。市役所の方には何処をチェックしたのか報告をしていました。調査用の写真も何枚か撮ったと思います。その時は天童市と山形市との合同チームで、各市3名ずつの派遣を合わせた6名1班で回りました。我々が関わったのは1週間弱だと思いますが、その前後に来ている班も考えると、かなりの人間が出入りしていたと思います。作業中の昼ごはんは、何処か開いているお店を見つけて食べていました。

(聞き手)
多賀城との遠からず近からずという距離感と、天童市の被害はそこまで大きくなかったという事で、今回のような連携が出来たと思います。

(新関様)
それはありますね。支援も日帰りで、朝6時頃行って、夕方7時頃帰ってくるという事をやっていました。水道の支援の時も、朝に出て行って、夜10時まで働いてもらって、そこからこちらに帰ってもらったこともありました。ちょうど100km位の距離ですからね。


(聞き手)
その後の長期派遣について教えて頂けますか。

(樋渡様)
24年の4月1日から下水道課に配属されて、下水道施設の災害復旧業務にあたりました。
天童市で1年間という事で、それを4人で回してひとり3ヶ月で、私が一番目の4月から6月まででした。その間は、多賀城市に用意していただいた八幡にあるアパートで生活して、自転車か徒歩で通っていました。トップバッターでもあったのでやはり不安でしたが、配属されたら月日が経つのは早いもので、あっという間に引継ぎの時期になっていました。終わってみれば短かったなという思いがありますし、もう少し長くてもいいのかなという印象を受けました。
それが天童市としても最初の長期派遣で、25年度は1年クールでひとり、同じ下水道課に派遣されています。

(聞き手)
天童市役所全体としては何名体制なのでしょうか。その中での下水道課は何名くらいになりますか。

(新関様)
本庁舎は350人体制です。

(樋渡様)
私が長期派遣に出て行く時がちょうど組織改編で、上水道と下水道が合併する時でした。元々の下水道課は15人位で、その中から多賀城に派遣されたのは半数くらいでした。

(聞き手)
発災直後の3月からかなりの人数が応援に行かれているという事で、殆ど全ての課から出されているという形ですか。

(細谷様)
そうですね。

多賀城市職員と一緒に活動して思ったこと

(聞き手)
多賀城市職員のこういうところを見習いたい、またはこういうところは改善点ではないかというのを、客観的な目線でお話いただければと思います。

(樋渡様)
下水道業務というのは専門的な分野だと思いますけど、実際はそういう隔たりも無く、事務系の方でも「わからない」とは言わずに、本当に復旧させようという姿勢が凄く感じられました。給水活動をした時に一緒になった多賀城市職員の方は、事務系の経歴でもトラックに乗っていらして、実際には自分の家や親戚などはかなり大変な目に遭っただろうに、公務員として、そういった業務をずっと続けてらっしゃるというのを目の当たりにした訳なので、正直凄いなと思いました。
それと、意外と組織が近いというか、部下と上司が近かったというのが印象的ではありました。風通しがいいというか、私が行かせていただいたところはそうでしたね。意思決定されている幹部の方達の会議情報なども見せていただいたりして、どんな方向で動いているのか末端にいる私達にもよくわかりました。電子上の掲示板があって、そこで部長会議の会議録のような資料が、職員ならば誰でも見られるので、そういうのは凄いと思いました。初めて自分の所属していない職場を見た訳ですが、そういうところを感じましたね。

震災経験から得たつながりの強化

(聞き手)
今回の震災で、天童市の中での経験と多賀城市から持ち帰った経験というもの があると思います。それを今後の天童市の防災・減災にどう役立てていこうとお考えですか。

(細谷様)
多賀城市さんとは、友好都市として災害協定を結ばせていただいている訳ですが、震災後は、会社関係や組合関係との災害協定も進んだのかなと感じています。

(新関様)
燃料組合や、避難所にパーテーションを提供する段ボール会社とか、あとは温泉組合やビジネスホテル協会などとの協定です。ホテルでは、バリアフリーの設備がありますので、そこを借り上げて、要援護者の為の施設を市が確保する訳です。福祉施設だと、自分達のお客様で満室だったりして入れない時がありますから。
以前からも協定は結構あったので倍までは増えていないですが、今まで足りなかった分を、経験を活かして補足しているというところです。

(細谷様)
他には消防職員が、こちらの行政の危機管理室との併任というかたちで、現在は2名が来ております。震災前までは無かったことです。

(新関様)
それで今迄はなかったような指揮命令系統などを、行政のラインに乗せるとかですね。

(細谷様)
そうなる事でいざという時には連携が取れて、情報の共有も出来ます。

(樋渡様)
最近で言うと、昨年夏の7月に天童市でも大規模断水がありまして、逆に多賀城市さんからも応援を頂いたりしながら、給水活動を行いました。私は応援で多賀城市さんに行っていたので、そういった経験が役立ったと思います。自分が支援に行ったのと同じ課ではありましたが、実際に来て頂いたのはお会いしていない方ばかりでした。ただ、天童から多賀城の下水道課に行っている職員と顔見知りの人がいたようです。そういったところでの近しさはありましたが、逆に受け入れる立場としての難しさは感じましたね。
他には、職員向けの研修会みたいなものがありまして、その中で下水道の長期職員派遣について、業務の内容を発表させていただく機会がありました。技術職員向けの研修会で、50人位の規模ですね。発表は5分位でしたけども、情報共有と言う意味だと、これが一番人数は多かったのかもしれません。これ以外だと上司などへの報告になりますけど、それ以外の人を対象にしたのは、この研修会だけだったのかなと思います。

(聞き手)
そういった経験をまとめた資料というものはありますか。

(細谷様)
引継ぎの資料で簡単にまとめたものしかなかったと思います。


後世に伝えたいこと

(聞き手)
 多賀城市の復旧・復興に向けてのお考えはありますか。また、個人として、今後後世に伝えたい事や教訓を教えて頂ければと思います。

(細谷様)
 やはり行政だけでなく、市民の方も巻き込んだ形での復興計画という方向で進んでほしいとは思います。当然3.11の事は後世に伝えていかなくてはいけないし、その為には、向こう三軒両隣と言いますか、共助というものを引き継いでいかなくてはいけないという思いでおります。

(樋渡様)
復興と言うと、やはり壮大な規模の計画を持っていらっしゃるだろうし、長期間になると思います。従事している職員の方は既に疲れているでしょうから、本当に体には気を付けていただきたいです。ほどほどに、無理をしない程度にと思います。
私的な事では、自分には小さい子供がいますけど、今は極力は震災の情報を見せない様にしています。もう少し大きくなったら、どういう事があったのかを伝えなくてはいけないと思いますし、これだけの被害があったというのは必ず覚えていてほしいですね。

(聞き手)
今回は色々なお話を聞かさせていただきまして、本当にありがとうございました。