震災復興業務に係る手記

災害復興業務(下水道事業)に携わって

群馬県高崎市

荒川 綾乃さん

 私は、震災によって被害を受けた多賀城市の下水道設備の復旧工事に従事するため高崎市から派遣され、平成25年4月1日から平成27年3月31日までの2年間、建設部下水道課で勤務しました。

 私が派遣された平成25年当時は、震災発生から丸2年が経ち、市内周辺の主な一般道の瓦礫は既に撤去されて道路としての最低限の機能は回復していたものの、道路付属物の損傷やマンホールの隆起はなお残されたままになっていたほか、地面の下にあった汚水管は地盤の変動により勾配が取れなくなってしまったためにポンプアップして道路上に仮設管を布設していたり、仮設住宅がグラウンド敷地内や都市計画道路予定地などに設置されていたりと、応急措置的な状態もあちらこちらで見られ、その完全な復旧にはまだまだ多くの工事を行っていかねばならないようなときでした。

 最初に受け持った工事は、前任者から引き継いだ市内全域のマンホールの陥没・隆起箇所の解消工事でした。その頃はまだ、震災による破損等に関する市民からの問い合わせ等も多くあった時期で、地名や地理が分からなければ電話対応も出来なかったため、現場確認を兼ねて、時間を見つけては地図を片手に市内を回って道や地名を覚えることからはじめましたが、震災前後の写真を見せていただき、街の風景が大きく変わってしまっていることに驚くと同時に、津波がいかに恐ろしいものか強く感じたことを覚えています。

 また、業務を行うに当たっては、国や県から届く被災地での工事発注における経費の特例や特別措置についての通知の内容を取りこぼさないよう慎重に確認しなければいけなかったことや、地理的条件の違いにより高崎市での工事では採用されない工法、高崎市にはない大規模な雨水ポンプ場の実際を見たことなど初めてのことも多く、自身の知識や経験の浅さ・未熟さを感じる場面もあり、正直なところ、どれほど多賀城市の復興のお役に立てたのかは分かりません。ですが、多賀城市職員や業者の皆さんをはじめ、他の自治体から私と同じように派遣されている職員と一緒にその一部にわずかでも携れたことは、大変貴重な経験をさせていただいたと思っています。

 2年間の派遣期間中にも、またその後も、大小様々な地震がありましたが、その発生から10年が経った今では、全国的には当時の記憶は段々と失われていってしまっているように思います。私自身も多賀城市での業務を終え、高崎市に帰任してからの時間が長くなるにつれて、自身の危機感が少し薄くなったと感じることもあります。しかしそれでも、多賀城市に派遣されたあのとき、職員に一番最初に言われた「自分の身は自分で守ってください。」という言葉と、国土交通省東北地方整備局が作成した【東日本大震災の実体験に基づく災害初動期指揮心得】の中にある「備えていたことしか、役に立たなかった。備えていただけでは、十分ではなかった。」という記述は、今も忘れることはありません。

 いつ起きるか分からない災害に対しては、日々の心掛けが大切であり、事前に想定して準備しておくことが多くの命を救うことにつながることを意識すること、そして、いつ起きるか分からないからこそ、今、出来ることをすぐに行うことが大切なのだと思います。多賀城市職員に伺った災害時の話を基に、今では高崎市でも「緊急放送が聞けるよう、公用車での移動中は常にラジオをつけておくこと」や、「もしものときに備え、公用車の燃料が半分以下にならないよう給油を行うこと」に継続して取り組んでいます。

 この度、多賀城市が市制施行50周年を迎えられたと伺いました。これもひとえに未曽有の災害から今日に至るまでの間、様々な想いの中で、それでも諦めずにそれぞれができることを一生懸命に積み重ねてこられた結果なのだと思います。縁あって多賀城市の復興に微力ながら携わらせていただいた一人として、多賀城市が復興を経て、今後、これまで以上の発展を遂げられますよう応援しております。