震災復興業務に係る手記

第2のふるさと・多賀城市をいつまでも応援します

広島県呉市

宮永 雅宏さん

 私は,2014年4月から2年間,災害派遣で多賀城市にお世話になりました。この2年間はとても貴重な体験として,私の人生のターニングポイントともなる時間でした。

 東京より北に行ったことがなかった私にとって東北地方は「未開の地」でした。それが,あの東日本大震災が発生したことがきっかけで皮肉にも「東北」を意識しはじめました。阪神淡路大地震や芸予地震などの「大地震」を私自身も経験してはいましたが,それを遙かにしのぐ様な惨状がテレビに映されるのを画面越しで目の当たりにし,大変ショックを受けました。ところが周囲の反応は「対岸の火事」的な雰囲気で,しかも日々繰り返される報道やテレビCM自粛などに対して迷惑がる声さえ聞き,苛立ちを覚えるとともに,自分に何か出来る事は無いかのかと葛藤する日々が続きました。

 そんな中,気仙沼市の避難所運営のお手伝いをする派遣職員の庁内募集に手を挙げ,2011年6月に約1週間の派遣が決まりました。100名ほどの被災者が避難生活を送られている市内小学校体育館で寝泊まりしている中,救援物資の配布や避難者の食事のお世話などをさせていただきました。隙間時間には瓦礫の山と化した市内を見て回ったり避難者の方から地震発生当時の様子を聞く事が出来たりと,とても貴重な体験でした。任務を終えるときには避難者の方から温かい感謝の言葉をいただき,少しはお役に立つことが出来たのかなと感じながら広島に帰ってきました。

 しかしながら,その後も被災地の復興には時間がかかり,まだまだ苦心されている様子を報道で見続け,自分にもっと出来る事はないかと思慮していたところ,被災地からの災害派遣要請に手を挙げることを決心しました。要請の多くは「技師」の募集で,事務方の私には縁がないものと思っていたのですが,当時私が従事していた契約・入札事務を募集していた多賀城市の要請を知り派遣を希望したのでした。1年単位での派遣期間ではありましたが,家族や当時の上司が応援してくれたこともあり,希望が叶ったことには今でも感謝しています。

 呉で生まれ育った私にとって,当時48歳にして初めての「単身赴任」でした。しかも初めての東北暮らし。自家用車に荷物を積み込み,冬はどれだけ寒いのか,どれだけ雪が積もるのか,また多賀城市役所の方々はどんな想いで受け入れてくれるのかなど,期待と不安半々で仙台港北インターチェンジを降りたことを覚えています。こうした私の不安は見事に「裏切られ」ました。家具付き住まいの借り上げなど生活面でも手厚い支援をいただき,何より所属先の管財課をはじめ他課の職員の方どなたもが優しく温かく迎え入れて,仕事もしやすく接してくれたりと,災害派遣で来ている身としては恐縮するばかりでした。

 ところが次第に私の心の中で,本当にこれでいいのか,多賀城市の復興に役に立っているのか,もっとやらないといけないことがあるんじゃないか,などといった「物足りなさ」や「申し訳なさ」といった感情が大きくなってきたのです。その想いを当時の管財課長に打ち明けると「こちらではもっと特別なハードワークを想像していたのかもしれませんが,私たちはあなたをはじめ派遣の方々が「通常」の業務を手伝ってくれるおかげで,震災で膨大な仕事量を抱えることになったここの職員達が残業時間を減らせるなどそれぞれの負担が少しでも軽くなって助かっているんです。だから気負うことなくこのまま「通常」の仕事をして,私たちを助けてください。」と言っていただき,私は救われました。

 それからというものは,そのお言葉に甘えるかのように,同僚の皆さんと一緒に何度も宮城の美味しい料理やお酒をいただいたり,多賀城市役所軟式野球部に加えていただくなど,私生活でも様々な体験をさせていただきました。派遣期間中は呉市役所野球部で20年以上続けていた野球をやめる覚悟でいましたが,練習参加だけでなく,試合にも出場させていただくなど,仲間として受け入れていただき感謝しています。また,週末は暦どおり休日を頂けたおかげで,以前お手伝いした気仙沼市で活動する「気仙沼復興協会」のボランティア活動に参加し,行方不明の方の捜索活動や仮設住宅の清掃活動を行ったり,自家用車で宮城県の他市や福島県,岩手県の被災地も巡り,被害や復興の様子を見て回ったり出来ました。

 こうして仕事以外での交流がたくさん出来たのも,多賀城市の皆さんの優しさ,温かさのおかげであり,いつしか多賀城市を自分の「第2のふるさと」との思いが強くなり,派遣期間も元職場に無理を言いもう1年延長してもらったのです(さすがに3年目の延長は元職場に却下されましたが)。

 呉に帰ってからも,こうした貴重な経験や東北の被災地の現状を,一人でも多くの方に伝えたく,今も学校の授業や企業の研修会などで機会をいただいて,当時の体験談や,防災意識の向上,さらには東北の魅力なども併せてお話しさせていただいてます。呉市と多賀城市,広島県と宮城県の橋渡しとなることが私のこれからの人生の使命だと勝手に考えています。

 また,平成30年7月に発生した西日本豪雨で呉市も甚大な被害に見舞われた際には,お世話になった多賀城市の職員の方々が救援物資の搬送や被害調査などの人的支援に来ていただいたり,安否確認のメールなどをたくさんいただき,皆さんの優しさにとても感動しました。このご恩は一生忘れません。

 派遣期間終了後も1年に1回は「里帰り」して,多賀城市が復興していく姿を直に見てきたのですが,新型コロナウイルスの感染状況を考慮してここ2年はできてません。コロナが落ち着いた暁にはぜひ「里帰り」して,元気を取り戻した町並みを見るとともに,お世話になった皆さんにお目にかかれればと思っています。

 これからもずっと「第2のふるさと」多賀城市を,1200km離れた呉から応援しています!