震災復興業務に係る手記

私が残せたもの…

長野県安曇野市

山﨑 岳志さん

 東日本大震災による未曾有の被害を受けた多賀城市ではあるが、市民、企業の再建意向、地理的条件、これまでのインフラ投資額、今後の多重防御等の対策等を勘案した結果、現地再建を基本に復興まちづくりを進めることとしていました。

 私は、東日本大震災により甚大な被害を受けた多賀城市に何か私でもお役に立てないかと思い、上司と相談し平成24年12月から4か月という短い任期ながら派遣職員として辞令をうけました。

 多賀城市では復興建設課計画推進係として主に震災復興計画に掲げる復興ビジョンの実現に係る職務を担当しました。

 

主な担当として

〇震災による津波では、猛烈な流速を持った波が市街地を襲い、家屋に甚大な被害をもたらした地域の現地再建の復興を進めるため、流速を抑え、市街地への津波到達時間を極力遅らせる効果を大きく発揮する盛土整備と防災林植栽を行う事業の「八幡通り公園及び防災緑地整備」の新規事業化を目指す中で、同じ派遣職員と関係部局、地権者との用地交渉(意向確認)を行いました。

 

〇市内を横断する砂押川の越流により高台を目の前にして、逃げ道を失った状況から、砂押川右岸の地域から高台方向の市街地へのアクセス確保と物流機能確保を目指して、避難路・物流路としての都市計画道路の整備を目指すため、「(都)清水沢多賀城線」「(都)笠神八幡線」の設計の委託を行い、国や県と河川法等の事前協議を進め構造等を定着させながら関係部局、地権者との用地交渉(意向確認)を行い、国の採択を受ける業務を行いました。

 

 しかし、私の在任中は新規事業化及び関係者の合意形成までは至らず任期を終え平成25年3月帰路につきました。

 あれからプライベートで2回、多賀城市の皆様のご厚意で1回、多賀城市に伺いました。

 多賀城市に伺うたび、私が携わった事業が動き出し、姿も変わってきた街並みを見るたびに事業を引き継いだ皆様が積み上げて造り上げたことを感じていました。

 そして、私が多賀城に在任中、お世話になり、色々な話をしていただいた定食屋等のお店の方々や市場の皆様も数年ぶりに再会したにも関わらず温かくもてなしていただきました。

 その度に、先に話した私の仕事が復興に向けたまちづくりへ一つでも歯車になっていたのか自問自答しながら当時を思い出しています。

 私事ながら、多賀城市に身を置き復興に向けた業務に携わった経験は、その後の私自身の仕事に対する経験値として大きな位置を占めています。

 これからも、時間を見つけては災害に負けずまちづくり進めていく多賀城市へ足を運びたいと思っております。

 過去に類を見ない大災害から10年、多賀城市の皆様がさらに災害に対応した安全安心の確保と産業再興を目指し、積極的に復興事業を展開することを安曇野の地から祈願しています。