震災復興業務に係る手記

派遣を振り返って

山口県防府市

原田 俊和さん

 仕事で訪問したお宅の玄関先で、「あんたらテレビ見たかね?大変なことになっちょるよ。」と。職場に戻る途中の携帯は、仙台空港に津波が押し寄せる映像を何度も繰り返していました。大変なことになってしまった。行かなければと思う反面、職場では固定資産税の賦課準備で大切な時期を迎え、派遣募集に手を挙げることができませんでした。

 それから一年以上が経ち、夏を迎える頃、人事から「半年ほど多賀城に行ってくれないか。」と声を掛けられました。不謹慎だと思われる方もあるかと思いますが、心が躍りました。家に帰り、妻に話をすると、「行ってくれば。」とほぼ即答でした。震災直後、行かなかったことを後悔していることや、阪神淡路大震災の際も、志願して灘区へ派遣されたことを知っていた妻は、快く送り出してくれました。妻と3人の子どもを残し、多賀城に着任したのは、平成24年10月1日。週末に東北を縦断した台風の対応をされた直後の道路公園課でした。

 初日、課長から携帯ラジオを頂きました。色々と準備していたつもりでしたが、余震が続く被災地に、ラジオも持たずにやって来た私に、さぞがっかりされただろうと、当時恥ずかしく思いました。道路公園課では、通常業務に従事しました。狭あい道路など、拡幅のために土地の寄付を受けたり、購入したり、現地での立会や、地主さんとの話し合いなど、初めてのことばかりでした。激務が続く職員の皆さんの負担を少しでも減らすことが出来ればとの思いがありましたが、私のこれまでの知識や経験で出来ることは少なく、皆さんには一から教えて頂きました。中でも、半年後に定年退職を控えられていた、櫻井さんには大変お世話になりました。丁寧に熱く、時に多賀城の歴史も織り交ぜながら、仕事を教えて頂きました。二人でよく現場へ出掛けましたが、今でもふと、現場へ向かう車窓の街並みや現地での会話を、昨日の事のように思い出すことがあります。また、職場で机を並べた派遣職員の先輩、新潟県長岡市の齊藤さんには、公私ともに大変お世話になりました。年齢は私より若いのですが、仕事にも私生活にも真摯に向き合う姿勢は、本当に尊敬できる方でした。

 市民の皆さんに対しても、寄り添った仕事が出来ればとの思いでいましたが、直接お話しする機会は少なかったように思います。そんな中でも、私が派遣職員だと気付かれると、皆さん被災当時のお話をしてくださいました。話を聞くたびに目頭が熱くなり、もっと自分にできることがあるはずだと、自分自身を鼓舞することが出来ました。

 週末には、七ヶ浜の農地のがれき撤去に参加したり、派遣仲間と県内の復興市巡りをしたりして過ごしました。

 振り返ってみると、初めて多賀城駅に降り立った時から、何か懐かしい街でした。防府と似ているなと感じました。国府のある街の雰囲気なのでしょうか。不安は感じませんでした。そして今、当時の私は復興のお役に立てていたのだろうかと、不安が増すばかりです。

 当時の道路公園課の職員の皆さんをはじめ、4階フロアの皆さん、サポートしてくださった総務課の皆さん、そして派遣職員の皆さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 市制施行50周年を迎えられた多賀城市の益々のご発展をお祈り申し上げます。