奈良県奈良市
宮﨑 正裕さん
多賀城市の皆様へ
奈良市観光経済部奈良町にぎわい課の宮﨑正裕と申します。当方、多賀城市との友好都市のご縁があり、東日本大震災発生から2年余りが経過した平成25年4月から1年間、復興業務に携わりました。多賀城で過ごした1年を率直に記させていただきます。
派遣当時は教育委員会で埋蔵文化財調査に従事していました。平成25年の年明けの記憶が曖昧ながら、上司から復興派遣の期間として「半年か? 1年か?」と聞かれたことは、はっきりと覚えています。「3月11日を被災地で迎える」との強い想いを汲み取ってもらい、派遣期間が決まりました。その後は慌ただしく時間が経ち、3月31日の夕方に多賀城市役所に出向くため、日中の新幹線で移動しました。京都~東京までの車窓は桜満開の春の陽光そのものでしたが、東北新幹線に乗り換えると、それまでの景色が一変し、徐々に鉛色になっていく空に驚きました。仙台からのJR仙石線では、遂にみぞれ混じりになり、扉が開くたびの冷たい風の威力も段々増しました。平然と乗降している人々を目の当たりに、幼少の頃、故郷の金沢で見た鉛色の空と風雪、さらには北陸特有の冬の雷鳴が脳裏を過り、ここ数時間の光景に一喜一憂している自身が情けなく思えました。ふと、前触れ少ない中で多くの方々が突然の悲劇と苦難に見舞われた、かの3月11日の寒空と翌日の晴天と穏やかな海も思い起こされて、何とも言えない気持ちでの多賀城着でした。
勤務初日の4月1日は、業務拠点である文化センターの休館日(月曜日)にあたり、同日は市庁舎内での勤務となりました。否応なしに大震災当日の様子や文化センターが避難拠点の一つとして重責を担ったことなど緊迫感あふれる情報満載な一日で、奇しくも昨日とは一転しての快晴でもありました。数日後から共同住宅建設前に必要な発掘調査に入りました。地元作業員さんと一緒に進める現場は、およそ20年振りでもあり、多少戸惑いがありました。振り返れば、作業員さんの戸惑いの方が何倍も大きかったようです。奈良時代の都/平城京跡を主に発掘してきた経験上、より広い面積を一度に調査することの成果と作業効率が高いとの認識がありました。最初の八幡館跡は地形的にも面積的にも問題が少なく過ぎました。6月から開始した高崎遺跡(約900㎡)では、長年使用していなかったベルトコンベアー(以下、ベルコン)を投入して作業の負担軽減を図ったつもりでした。しかしながら、作業員さんの大半が普段より少し広い現場とベルコン列に、さらにはベルコンの稼働に必要な発電機にも初対面とのことでした。当然、ベルコンの運び方から簡単なメンテナンスまでもが手探りで、苦悩の連続でしたが、熱中症や事故などもなく現場を終えられたことは幸いでした。秋以降の個人住宅建設に伴う発掘面積50㎡~100㎡程度の現場では、活発に作業をこなす皆さんを見た時は、夏の現場では相当な混乱を招いていたことを初めて認識でき、反省と苦笑いの私でした。奈良での現場経験もある調査員のI君は過酷な現場を振り返り、作業員さんと私の両者の気持ちを理解してくれる貴重な存在でもありました。現在、他県で活躍している彼がベルコンと多少広い現場が嫌いになっていないことを祈るばかりです。ここまで読まれて、心当たりがお有りの皆さんには、8年越しにあらためてお詫びを申し上げます。
タイトルの「オセワサマ」について…。多賀城での1年間に幾度となく耳にし、聞くたびに心穏やかになった響きです。最初は、奈良から手伝いに来ていることを知った調査地の所有者さんからの一言でした。また、現場終わりに作業員さん同士の会話にもよく登場し、一日の業務終了を告げる安堵の響きで、聞き慣れていた「オツカレサマ」とは微妙に異なる優しい響きは、大好きな魔法の言葉になっていました。未曾有の大災害からの復興は道半ばで、容易ではないことは充分承知しております。日々ご苦労や不安も大きい時であればあるほど、何気ない優しい響きが被災地の皆さん同士の心の復興の一助となることも大きいように感じます。また、現在も復興に携わられている数多くの皆様に感謝の気持ちを込めて、「オセワサマ」です。明日もお身体を大切にお過ごしください。
今回の機会、文末になりましたが、多賀城での数多くの出会いに感謝いたしますとともに、お世話になりました皆様方に、あらためてお礼を申し上げます。昨今のコロナ禍、各地への移動を控えるべき時世でもありますが、状況が落ち着き次第、多賀城をはじめ東北に足を運びたいとの想いを抱きつつ、一日も早い復興と皆様方のご健康を祈念しながら日々を過ごしております。
令和3年11月