震災復興業務に係る手記

多賀城市派遣の回顧

岐阜県可児市
池村 一郎さん

 東日本大震災から10年が経過したとはいえ、被災地の復興はまだ道半ばではないでしょうか。ましてや被災された方々の「心の復興」へは、まだまだ長い道のりが必要かと拝察すると心が痛みますが、まずもって多賀城市の復興事業が完了されたことに心からお喜び申し上げるとともに、これからの益々の発展を祈念いたしております。

 私が多賀城市へ派遣された期間は、震災から約3年半が経過した平成26年10月から平成27年3月までの半年間でしたが、人事を所管する秘書課長から派遣の打診があったのは平成25年12月でした。もちろん東北地方で深刻な震災被害があったこと、そして可児市からも既に何名かの職員が派遣されている事は承知をしていましたが、我が事として捉えることなく過ごしてきたこともあり、即座に返答できなかったことを記憶しています。更に多賀城市からは下水道事業の経験がある職員の派遣を希望されていると聞いていたため、経験が無い者が派遣されても多賀城市役所の職員だけでなく地域や関係者の方々にも迷惑がかかることが容易に想像できたことから、即答をせず、日を改めた上でお断りをして適切な職員を選任してもらおうと決めておりました。しかし、当時の可児市役所には技術職員が約60名在籍していましたが、この時点で派遣が可能な下水道経験者はほとんど派遣済みであったこと、また秘書課長からは、今後の災害に備えるためにも被災の実状や復興現場の現状などの見聞を広めることも市職員として大切な事だと説得され、不安を抱きつつも年明けに派遣の承諾をいたしました。

 派遣を決めてからは、業務の間を縫っては多賀城市や東北各地から発信されていた震災に関する情報に触れるように努めましたが、やはり押し寄せてくる津波や、建物や車が押し流される映像を見る時は心穏やかにおられず苦しみました。しかし、これを避けていても派遣職員は務まらないと思い、公開されている資料に目を通しては震災当時に何が起きていたのかをできるだけ把握して、10月からの派遣に備えました。

 9月29日19時に名古屋港を出航する太平洋フェリーに乗り、翌30日に仙台港に降り立ったのは既に夕方6時を過ぎていました。多賀城市役所へ向かう道中は暗かったこともあり、震災の痕跡を感じることの無いまま市役所に到着し、手続きを済ませて用意していただいたアパートに入居しました。翌朝、初出勤のため市役所へ向かう途中、津波の被害により基礎だけが残された住宅跡や多賀城駅前の廃墟となった店舗などを目の当たりにした時、初めて震災の現実に触れた恐怖で足がすくんだことを鮮明に覚えています。派遣先の下水道課では業務の合間に市内の被災現場を説明していただく機会もあり、震災から3年半が経過していてもなお生々しい現状が残されているのを各所に見て、震災復興への道のりの険しさを実感しました。派遣期間中には各種研修等で県内各地の被災現場を訪れる機会があり、見渡す限り平地となった街跡に、窓も人影も無い廃屋が一軒だけ風に吹かれて佇む姿を度々見かけた時には、その背景を推察しては心を締め付けられる思いをしました。また折々の機会には震災当時の被災体験や避難所運営、インフラの復旧作業など苦労された話を聞かせていただき、自然災害に対する人間の無力さを感じるとともに、「防災」だけでなく「減災」の考え方の重要性をひしひしと感じ、日ごろからの災害への備えには想像力と心構えがどれほど大切かを心に刻みました。

 下水道課では主に雨水対策施設の設計担当などを任されておりましたが、経験不足だけでなく知識不足もあって下水道課職員や関係者の方々に大変なご迷惑をおかけしたことを、この場をお借りしてお詫び申し上げるとともに、寛容なるご指導をいただけたことに心より感謝申し上げます。しかしながら、多賀城市職員や関係者の方々、また様々な市町からの派遣職員との交流から、多様な人間性や考え方に触れることができ、またこのような交流から自身の在り方を振り返る機会が得られたことは、私にとって掛け替えのない財産となり、現在の職場運営や業務遂行の糧となっています。

 あれから7年が経ちますが、今でも多賀城市の当時の懐かしい風景を思い出しながら、インターネット上の映像などを眺めては、変わりゆく街の様子などを驚きとともに誇らしく感じながら見ています。未だ多賀城市を再訪する機会には恵まれませんが、いつか必ず復興を成し遂げられた多賀城市を家族とともに訪れたいと思っております。