震災復興業務に係る手記

復興に携わって

岐阜県可児市

西山 浩幸さん

 あの時、防災担当係長だった私は、休暇を取って家にいました。多賀城市から470㎞離れた可児市でも大きく長い揺れがあり、かなり大きな地震だと感じてすぐにテレビを点けました。津波の被害映像を目の当たりにし、「とんでもないことが起きた」と思うと同時に、「何ができるのだろうか」と思いを巡らせ登庁したことを覚えています。次の日からは、救援物資の手配など市役所一丸となって取り組みました。

 年度が替わって道路の維持管理部門に異動になり、2年続けての豪雨災害に見舞われるなど、あわただしく過ごすうちに、震災が何時しか遠い出来事のように感じていました。そんな折、技術職員の派遣要請が来ているとのことで、技術職員を対象とした説明会が開催されました。多賀城市の名前はその時に初めて聞いたほどで、「東北の城下町かな」と思っていました。

 被災した地域に対して何かしたい思いと、工事積算から離れて年数がたっている不安、家族のことなど、直ぐに「行きます」とは言えませんでした。打診があれば行ってみたいと家族に匂わせつつ、多賀城市のホームページで被災状況を見て「自分なりにできること」を考えていました。家族の理解と協力もあり、正式に派遣が決まったのは、地震から丁度1年たったころでした。

 多賀城市に着いて市役所を訪れた際、ただでさえ年度末で忙しいところに多くの派遣職員を迎える準備が重なり大変だったと思いますが、多賀城銘菓やおすすめグルメの紹介など温かい対応に緊張が和らぎました。

 当時の多賀城市内は、歩道が段差で通行止めになっていたり、標識が曲がったままであったり、流されたのか側溝の蓋がないなど、1年たっても震災の爪痕があちらこちらに見受けられました。多賀城市に来て2日目の夜には、緊急地震速報が流れ強い地震が発生し、まだまだ震災は終わっていないということを強く実感しました。

 多賀城市では下水道課に配属になりました。北は山形県から南は沖縄県まで、任期は3カ月から1年までと多様な13人の派遣職員がいました。課長や係長にとっては、多くの職員を抱えることになり、さぞ大変だったと思います。

 朝礼では親睦や相互理解を図るため、順番にスピーチをしていました。多賀城市の職員から、排水ポンプ場と連絡が取れなかったので、安否確認に車で掛け付け、津波で帰ってこられなくなった話や自宅が被災し事務所の床で寝て復旧に当たった話、流された車の除去が最優先課題となって、市が独自に取り組み後から制度ができたことなどを伺いました。どれも心に刺さりました。

 業務としては、主に雨水ポンプ施設の復旧工事を担当させていただきました。1件は、工事が進行中で施工の確認と変更、工事検査を行うものでしたが、期限ぎりぎりで深夜まで残業しなければいけない状況でした。水道庁舎の鍵の管理など分からないので、水道課に誰かいる間だけと思って残業していましたが、後から思うと、派遣職員では鍵が閉められないだろうからと、残っていてくれたのではないかという気がしています。

 また、取付管推進工法で下水道の公共桝を設置する工事を担当させていただきました。道路を掘らずに管に穴を空けて管を接続するという珍しい工事でしたので、大変勉強になりました。しかし、その工事が原因で深夜に道路陥没が発生し担当部署の方々に大変ご迷惑をお掛けしました。朝、登庁したときに話を聞き、急いで謝りに行ったことも思い出です。

 各地から来ている派遣職員は、その経歴も様々で、多くはそれぞれの市町でバリバリ工事を担当している人たちでしたが、私より年上の方も見えました。10歳くらい年上(今の私と同じ年)の方と一緒に測量し、積算システムを勉強しながら設計書を作ったことで、自分もいくつになってもチャレンジするんだという気概が生まれました。その時の仲間から多くの刺激を受け、復興の一助となれたことは大きな財産です。

 多賀城市職員の皆様方には大変お世話になり、ありがとうございました。多くの職員を動かすには事前の準備が大変だったと思います。早く復興を進めるためには、BCPにおいて受援体制についての検討も必要ということを実感しました。

 私は、派遣終了後に2度多賀城市を訪れていますが、駅前の図書館や新しい道路、復興拠点施設の整備など事業が進むのを見て、多賀城市民の皆様並びに職員の皆様のご尽力の賜物と感じています。今後ますますの発展をご祈念申し上げます。

 いい経験をさせていただきありがとうございました。多賀城市が大好きです。また、お会いしましょう。