震災復興業務に係る手記

私の思い ~被災地での活動を通して~

神奈川県茅ヶ崎市

大川 哲裕さん

 2011年(平成23年)3月11日、私は茅ヶ崎市役所で建築指導課建築安全担当の課長補佐として慌ただしく業務をこなしていました。14時46分、防災無線と携帯電話が緊急地震速報を伝えたかと思うと同時に、市庁舎は今まで経験をしたことがないほどの揺れに襲われ、ついに関東大震災が発生したのかとその時はそう思いました。

 市庁舎は危険と判断され、職員は屋外に避難して通常業務は打ち切り、即災害モードに切り替わりました。そんな中で震源地が三陸沖であり、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震であることがわかり、現地の悲惨な状況を目の前にして、我々はなすすべもなく呆然と立ち尽くしていました。

 首都圏は電力不足を補うために計画停電が続き、市役所では業務も満足にできない中で、かつて阪神・淡路大震災や新潟県中越地震での被災地派遣経験を活かせないかと考えはじめ、ようやく被災地での行政支援という道にたどり着きました。

 東日本大震災が発生してから約半年後の10月上旬、私は石巻市での短期行政支援を終えて高速バスで仙台駅へ向かっていました。仙台に近づくにつれて三陸自動車道は夕方の渋滞が始まっており、ふと窓の外を見ると「多賀城」の文字が目に入りました。ここにはお城があるのかな?などと歴史音痴の私の多賀城に対するイメージはその程度でした。まさかその半年後にここへ赴任することになろうとは・・・

 平成24年4月、多賀城での生活が始まりました。着任日の前夜には就寝直前に中規模の地震もあり、まだ余震が続いているのだなと身をもって体験しました。

 その年、12月7日の夕方には津波が観測されたほどの大きな余震があり、多賀城市役所も大きく揺れ、3月11日の記憶が呼び戻されました。しばらくして市役所の窓から外を見ると高台へ避難しようとする車の渋滞が発生しており、トラブルがあちこちで発生していたことが思い出されます。実はこの日は12月に着任してきた派遣職員の歓迎会を仙台で予定していたのですが、当然そんな状況ではありません。

 話しを本題に戻すと、多賀城市での私の担当業務は「災害公営住宅」であり、主に市内の桜木地区に160戸の住宅を建設することでした。

 基本構想は出来ていたのですが、それを実現するためには諸々の調整が必要でした。独立行政法人都市再生機構への支援要請にはじまり、住まいを失った方たちとのヒアリングや説明会、設計内容の精査など、時には被災者から罵声や怒号を受ける中で辛い時期もありましたが、一番辛いのは東日本大震災の発生から今日まで寝食を忘れてご苦労を重ねられた多賀城市の皆さんであり、それを思えば私の苦労などは微々たるものと割り切ることができました。

 多賀城市での震災復興業務にあたり、私には2つの思いがありました。ひとつは技術職として自身のこれまでの経験を活かすこと、もうひとつは被災地の現状を定期的に出身地である湘南の人々に伝えることです。

 私は茅ヶ崎市で技術職(建築職)として二十年以上歩んでいましたが、担当となった災害公営住宅の建設に係る業務は未経験の分野であり、手探りの中で当初は試行錯誤の連続でした。時間を重ねながら多くの方々に支えていただき、派遣期間1年で最後は完全燃焼できたと思っています。残念ながら派遣延長が叶わず、工事着手の時まで多賀城市に残ることができませんでしたが、桜木住宅が形となり着工式や竣工式にも参加できたことでつくづく災害公営住宅の業務に携われたことに感謝しています。

 もうひとつの思いである被災地の現状を伝えることに関しては、地元のコミュニティ情報紙である「湘南リビング新聞」編集部協力のもと「復興エール」と題して毎月コラムを執筆して連載していただいたことで、広く被災地の現状や活動状況を湘南の人々にお伝えできたのではないかと感じています。茅ヶ崎へ帰任後は依頼を受けて「被災地のいま」と題して講師として市民の方々へ講演ができたことも大きな役割が果たせたと思います。

 振り返ってみると、復興建設課の発足と同時に着任し、派遣職員ながら1期生として精一杯復興に貢献できたことと、被災地で多くの方々との出会いがあったことが今でも私の人生の宝物です。

 昨今、各地で自然災害が起きているなかで、今後発生が予測される首都圏での大規模地震に備えるためにも、万が一災害が発生したとしても今回の派遣経験は何らかの形できっと活かせるものと信じています。

 貴重な経験・体験を積ませていただいた多賀城市の皆さまに心から感謝申し上げると同時に、私の第二の故郷とも言える多賀城市が今後もますます発展していくことを心から祈念しています。