震災復興業務に係る手記

多賀城市震災復興業務に携わって

山口県防府市

福谷 英樹さん

 私は、多賀城市での震災復興業務に2回従事させていただきました。最初は、東日本大震災発生から1か月ほどしか経っていない2011年(平成23年)4月、防府市からの災害派遣第1班として5名の同僚職員と共に、震災の爪痕が大きく残る多賀城市を訪れ、多賀城市役所内で罹災証明書発行の業務に従事しました。罹災証明を求め、毎日途切れることなく市役所に来られる被災者の方々への対応に追われる中、名札の「山口県防府市」の文字を見た被災者の方から「遠くからありがとうございます」という感謝の言葉をいただくことが何度もあり、そのたびに私は、被災者の方のため、また多賀城市の復興ためにもっと何か力になりたいという思いは強くなっていきましたが、その時の派遣期間はわずか2週間で次の班の職員と交代となりました。

 防府に戻ってからも被災した多賀城市のまちや被災者のことが忘れられず、機会があればまた多賀城市で復興支援の業務に携わりたいという思いは続いていましたが、そんな時、2012年(平成24年)の暮れ頃、職場で多賀城市への1年間の職員派遣の募集があり、私は迷うことなく応募しました。そして、多賀城市への派遣が正式に決まり、2013年(平成25年)4月から1年間、再び多賀城市で震災復興業務に従事することとなりました。私が所属したのは復興建設課計画推進係で、災害公営住宅建設用地や緊急避難路・物流路(清水沢多賀城線及び笠神八幡線)の用地取得の業務が主な担当でした。2年前の派遣の時と違って、今度は1年間、しかも防府市からの派遣は私1人ということで、最初はいろいろなプレッシャーや不安もありましたが、多賀城市役所の職員の皆さんや、他自治体からの派遣職員の皆さんとはすぐに打ち解けて、皆で一体となって復興業務に従事することができました。1年間の派遣期間で少しでも成果を上げ、復興の力になりたいと頑張りましたが、担当した業務のうち、災害公営住宅(鶴ケ谷地区)の用地取得は完了したものの、清水沢多賀城線及び笠神八幡線の用地取得は、残念ながら業務途中で任期満了となってしまいました。そして2014年(平成26年)3月、任期満了が近づく中、8ページに亘る業務引継書を作成し、次の担当となられる方に復興の夢を託して3月末、1年間一緒に仕事をした復興建設課の職員の方や他自治体からの派遣職員の方とのたくさんの思い出を胸に、そして1日も早い多賀城市の復興を祈りながら多賀城市を後にしました。

 

 その後私は、復興が進む多賀城市のまちを見ることと、当時一緒に仕事をさせていただいた多賀城市の職員の皆さんとお会いすることを楽しみに、何度か多賀城市を訪れましたが、その中でも、平成30年の復興状況報告会で訪れた時のことはとても印象に残っています。昼間に行われた現地見学では、用地取得を行った鶴ケ谷地区災害公営住宅用地に4棟274戸の立派な災害公営住宅が整備されているのを見て大いに感動し、夜の懇親会では、当時一緒に仕事をした復興建設課の職員の方や他自治体からの派遣職員の方と楽しい一時を過ごさせていただきました。

 そして、東日本大震災から10年となる今年(令和3年)9月。多賀城市より届いた復興支援の御礼品と一緒に同封されていた報告書で、清水沢多賀城線が今年1月に供用開始されたこと、そして笠神八幡線は10月には供用開始予定であることを知りました。後日、笠神八幡線も無事に開通し、これで多賀城市の震災復興事業の中で施設や道路等の整備事業は完了になったこと、また、令和3年11月、多賀城市は市制施行50周年を迎えられたとのニュースを確認したとき、何ともいえない感動に包まれました。

 多賀城市職員の皆様、そして多賀城市民の皆様。東日本大震災からの復興と、この度の市制施行50周年を迎えられましたこと、誠におめでとうございます。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、ここ2年間、多賀城市を訪れることができていませんが、早くコロナが収束して、復興を遂げた多賀城市のまちと職員の皆さんの元気な姿に会える日を、本州最西端の山口県より今か今かと待ち続けています。